2 - 5 昔話 ④

 真小田まこたたかしがコントの台本を書いて授業に持って来たのは、鹿野が4回生の頃だった。真小田は同い年の3回生。彼が台本を書いていることなど知らなかった。興味もなかった。真小田は、不田房が『演劇講座』を始めた年からの受講生である。当時彼は1回生だった。たしかはじめは、どこかの技術班にいた──そうだ、音響班にいたのだ。真小田が外部から呼んだ音響技師の指導の下で、熱心に卓に向かう後ろ姿を見かけたことがある。真小田は音楽に詳しかった。少なくとも鹿野よりもずっと。指導者である音響技師も「私が一曲選ぶと真小田が三曲別の持ってくる。不田房、なんとか言ってよ」と苦笑いを浮かべながら漏らしていたものだ。一緒に音響を担当していた生徒からは、『オタク』だと思われていたらしい。音楽オタク。こだわりの強い男。

 だから、授業で使用した台本について、


「今日の戯曲は、真小田くんの作品です」


 と不田房がネタバラしをした際、誰よりも驚いていたのは鹿野だった。不田房の作品ではないということは、言われなくても分かった。不田房はあんな風に攻撃的な言葉を使わない。陰湿な物言いもしない。不田房はもっと──うまい。使用された戯曲は稚拙で、攻撃的で、下品で、陰湿で、だからこそ他者を惹き付ける奇妙な光を放っていた。鹿野は、その光が届く範囲の外にいたので、いまいち理解ができなかったのだけど。


 その年の秋の学祭で真小田が脚本・演出を担当した短い舞台公演が行われた際に、鹿野の拒否感は限界を超えた。関わってはいけない。彼と──彼を崇拝する連中には。だが不田房は違った。


「面白いね」


 と、いつもの喫煙所で優しく微笑んで言った。


「でもあの舞台装置は、そう何回も使えないな。出費も多くなりそうだし……」


 そういう問題じゃないだろう、と叫びたかった。あいつらは、、先達を、踏み付けて、馬鹿にして、嘲って、そうして──


「鹿野」


 不田房は怒らない。どんなことがあっても、怒りを顕にすることがない。配役を発表した翌日に主演予定だった男子生徒が「プレッシャーに耐えられないから降板したい」と言ってきた時にも、全員自腹合宿で借りていたコテージの窓を破壊された時にも、それから、


「怒ると、疲れるよ」

「でも!」

「鹿野。鹿野くん。俺らはもっといい舞台をやろう。噛み付いたら負けだ。分かるよね?」


 分からない。分かるわけがない。

 そうだあの日、いつもの喫煙所で鹿野は泣いた。


 真小田崇作演出で行われた舞台で、装置として使われたのはだった。だった。不田房栄治が書いたものもある。コピーではない。彼と、彼の仲間たちは、書店で新刊を、或いは古本を買い集め、引き裂いて、千切って、破壊して、物語が書かれた紙を踏み付けて演技を行った。最後列で吐き気に耐える鹿野と、姿勢を伸ばして舞台に相対する不田房を、舞台に立つ全員が見据えていた。挑発。挑発だった。乗っても無駄だと分かっていた。理解はできていた。彼らと同じ土俵に立つなんてそんな──汚いこと──絶対に──


「誘ってあげなくてごめんね、か・の・さ・ん」


 田淵たぶち駒乃こまのの声がした。


 今はいつだ。ここはどこだ。


 懐かしくもない大学のホールか? いや、あのホールは2年ほど前に改修されて、鹿野が知るものとはまったく違う姿になったと聞いた。写真でも見た。公演を行うには向いていない仕様になったホールの写真を見て「思い出は思い出として大事にしようね」と笑う不田房の横顔を──思い出して──


「鹿野さん? 大丈夫? 鹿野さん?」


 探偵の声がする。

 鹿野素直は泣いている。

 真夏の喫茶店の座席で、見開いた両目から涙が流れるのを止められずにいる。

 10年前。喫煙所で泣いた。悔しかったから。

 今はなぜ泣いているのか、よく分からない。

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