第10話 「コロナ禍」後の現在(4)

 そんな姉のために、たぶん感謝されないだろう買い物をするためにショッピングモールに行ったとき、ひさしぶりにあのメロディーを聴いた。

 とても軽快に、気軽に聴けるようにアレンジされていたので、最初は気がつかなかった。

 気がつく前に、あの歌詞を口ずさんでいた。

 そうだ。

 それが、あの「それが大事」という曲だった。

 どんなに追い詰められても、挫けそうになっていても、「大事」なことをあきらめてはいけない。

 父と母は高齢だし、そうでなくても、こんな状態になった姉は父と母を受け入れないだろう。

 もちろん離婚した義兄に任せるわけにも行かない。

 骨折はやがて完治するだろうけど、実質的に引きこもってしまっている姉を一人にしておくわけにも行かない。

 けっきょく、私がめんどうを見るしかないのだ。

 それをやりながら、出口を探すしかない。その出口がどこに見つかるのか、私にはまったくわからない状況だ。

 これまでの私のこの曲との「出会い」は、世のなかにこんな曲があったな、という立場でのものだった。

 でも、いま、私は、朝、起きると、この曲のサビを口ずさんでから姉を起こしに行くことにしている。

 姉は起こされて不機嫌になることもあるけれど、私が姉より長く寝ていたら姉は確実に怒るからだ。

 仕事をしているからもともとできないのだけど、私がこの曲にめぐり会ったときのように、夜中までテレビをつけて好きに書きものをするということは絶対にできなくなった。

 この曲に励まされなければならないのは、ほかのだれかではなく、自分になってしまった。


 夕食後、姉が自分の部屋に「撤退」してからの短い時間だけが私の自由になる時間になった。

 その時間にネットを見ていると、ふと、ウェブの広告に、あの「コロナ禍」の日に泊まって仕事をした「東京の観光地」のホテルの広告が出たので、クリックしてみた。

 一泊の値段はあの日の三倍以上、しかも、試しに予約ページを見てみると、三週間先ぐらいまで予約で埋まっている。インバウンドの団体客が多数を占めているのだろうということは容易に想像がついた。

 もう、あの部屋から東京の観光地の街並みを見下ろしながら仕事をすることもないだろう。

 そういえば、仕事で使う資料を取りにひさしぶりに自分の部屋に戻ると、隣の家のまわりにフェンスが張ってあった。

 解体工事が始まる。そのあとには二〇階以上のマンションができるのだそうだ。

 ここは二十世紀には何かの工場だったらしい。木造で、壁は鉄板、屋根は安っぽいスレートで平屋という「何の変哲もない」建物だった。私がここに住み始めたころは、広い平屋の建物の端の一部が雑貨屋になっていたが、それも閉店して久しい。

 夏の青い空、強烈な太陽、けだるい午後……。

 そんな「東京の夏」に似合う風景が、また一つ消えた。


 私は、ため息をついた。

 ため息をついた勢いで、口もとをゆるめて笑ってみる。

 そうするしかなかった。


 (終)

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