2 公女死す!?

 その日、欧州は大きな嵐に見舞われた。

 黒き猛威を振るった嵐の名はチェルノボーグ。

 破壊の化身、死を呼ぶ悪の残滓とも呼ばれる最悪・最凶の魔神である。


 こうして世界は秩序を失い、混乱を来した。

 かつて存在した国家という名の枠組みは失われていく。

 一国で太刀打ち出来る事態では到底なかった。

 西ヨーロッパは欧州連邦共和国Federal Republic of Europeと呼ばれる共同体を建設し、未曽有の事態に臨むことを決めた。


 しかし、東ヨーロッパはそう簡単に片付かない複雑な事情が絡んでいた。

 旧ロシアと旧中国の思惑が絡むだけではなく、東欧諸国がそれぞれ、腹に一物ある不穏な状態だったからだ。

 ユーラシア連邦Eurasian Federalと呼ばれる共同体が建設され、旧ロシアと旧中国を中心とした彼らに恭順する勢力がそこに集結した。

 だが、それをよしとしない勢力も少なからず、存在する。

 チェルノボーグによって見舞われた災厄により、各地が隔離されていたのも大きい。


 かくして、東欧の一部地域は中世に逆戻りしたようなかつての群雄割拠の状態に陥った。

 文化・文明レベルもまるで逆戻りしたと言わんばかりの様相である。

 古来より、係争の地として知られた半島はチェルノボーグの災厄の影響で『生ける屍』が蔓延る危険地域に変わった。


 ユーラシア連邦の成立後、その北に小さな国が建国された。

 かつて大きな戦争あった地に建国された国の名はリューリク公国。

 東スラブ人で構成され、時の流れに取り残された先祖返りの国と揶揄されることすらある。

 そんな国である。


 国家体制は立憲君主制を採用しているが、君主である公王に実質的な権力はない。

 権力を有するのは議会であり、民衆である。

 君主と貴族は確かに存在している。

 名目上の存在と言っても過言ではないのだ。

 そうは言っても彼らは大きな財力を持っており、ある程度の発言権を持っている。

 決して、無視出来るような小さな勢力ではなかった。

 ただ、二人の公女を除いては……。


 実のところ、現在のリューリク公国に公王は存在しない。

 正当な血を継ぐヴェロニカ公王が産褥で身罷ったのは十数年前に遡る。

 君主の一族として、大きな顔をしているプラトンは王配に過ぎない。

 第一公女スヴェトラーナと第二公女アナスタシアこそ、正当な後継者であり、公王につく権利を持つ者だった。




 二人の公女が当然の権利を享受出来るのか、非常に怪しい状況に置かれているのが現在の公国だった。

 スヴェトラーナ・チェムノタリオトはリューリク公国の第一公女である。

 ある程度、敬意を払われても当然の立場と言ってもいい。


 濡れ羽色の長い髪は腰に届くほど長く、艶やかで美しかった。

 どこか自信がなさそうに伏し目がちにしている目は目尻が下がっており、はっきりと分かる垂れ目である。

 曇りのない黒曜石の色を湛えた瞳に憂いの色が浮かび、見た者の心を惑わしかねない。

 抜けるような白い肌にはシミ一つなく、桜色の唇と少しばかりの主張をしているちょっと高い鼻は造形の美しさの妙と言うべきだった。


 だが、スヴェトラーナが着ているドレスはお世辞にも上等な物とは言えなかった。

 いくら学園という場においても公女が着るのにふさわしい代物ではない。

 彼女の態度も何かがおかしい。

 獲物に狙われる小動物が辺りを窺うとでも言わんばかりにしきりに周囲を気にしている。


「きゃっ」

「あら。ごめんあそばせ」


 それほどに注意を払っていたスヴェトラーナだが、肩口を強く押され、脛を思い切り蹴られてはどうにも我慢することが出来なかった。

 思わず、蹲ったスヴェトラーナをさらなる悲劇が襲う。

 思い切り力を込めた容赦のない蹴りである。

 いくら非力な少女といえども足の力は馬鹿にならない。


「こんなところにゴミを捨てたのは誰?」

「知らなぁい」

「あっ」


 少女らの巧妙なところは肩口にせよ、脛にせよ、ぱっと見では分からないところを痛めつけている。

 蹴りを入れているところも痣が出来たら、見える位置には決して入れない。

 それではすぐに足がついてしまうことを知っているのだ。


「ここなんて、いいんじゃない?」

「ほら!」

「あふぅ」

「みっともない。こんなのが公女様だなんて、信じられる?」

「信じられないよな」


 ついには地面に倒れ伏したスヴェトラーナの鳩尾を狙い、思い切り蹴りを入れる令嬢の顔は愉悦に歪み、まるで狂った獣のように醜かった。

 スヴェトラーナを執拗に虐めているのは五人の男女である。

 女子生徒が三人、男子生徒が二人。

 全員が議員の子女であり、常日頃から正当な血統を継ぐスヴェトラーナを目の敵にしていた。

 リーダー格の少女ナターリヤが口に出さず、指だけでジェスチャーをしてみせるとナイトの如く、恭しい態度で男子生徒二人が無理矢理、スヴェトラーナの両手を取り、立ち上がらせる。


「あんたの顔を見ているとむかついてくるのよ」


 そう言うと膝蹴りをスヴェトラーナの腹に決め、思わず前のめりになった彼女の背に思い切り、平手打ちを入れた。

 その力があまりに強かったのか、押さえていた男子生徒が思わずスヴェトラーナを掴んでいた手を離してしまった。

 ふらふらとよろけたスヴェトラーナは足に力を入れられないまま、盛大に前のめりに倒れ伏した。

 運の悪いことに彼女が倒れ伏した場所に地面はなかった。


 激しい水飛沫を上げ、スヴェトラーナの体は池に落ちてしまった。

 さすがにそのような事態は想定していなかったのだろう。

 虐めていた面々も一様に顔色を悪くし、そそくさとその場から逃げるように走り去った。


 周囲には彼らの行いを見ていながらも咎めることなく、静観していた生徒が少なからずいたが、厄介事に巻き込まれるのを避けたいのだろう。

 蜘蛛の子を散らしたようにあっという間に誰もいなくなった。


「誰か、助け……」


 最初の内こそ、手足をばたつかせ、沈みたくないと抵抗していたスヴェトラーナだったが、やがて諦めてしまったのか、水音がしなくなった。


 スヴェトラーナの妹である第二公女アナスタシアが慌てふためいた様子で池の畔に現れたのは彼女が池に落とされてから、十分後のことだった。

 水面に美しい黒髪を散らし、ただ静かに揺蕩っている姉の姿を見たアナスタシアは暫し、呆けたように固まった。


「きゃああああ」


 金切り声を上げ、助けを呼ぶアナスタシアの声に応じ、学園の警備員が駆け付け、スヴェトラーナはすぐに池から引き揚げられた。

 スヴェトラーナは病院に緊急搬送されたが心肺停止の時間が長かったことが災いした。

 脳にかなりのダメージが残った。

 意識不明から回復しないまま、既に一ヶ月が過ぎようとしていた。

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