お出掛け

 仕度を手早く済ませ、言われるがまま外に出てみると──スカー様が歩き回っていた。

 腕を組んで、難しい顔をして、円を描くようにグルグルと。

「あれは」

「難問にぶち当たっちゃったの」

 旦那様ー、とアッシュさんが間延びした声で呼び掛けても、スカー様の足は止まらない。近付いてみても、何の反応もない。

「奥様からも呼び掛けてみてよ」

「……スカー、様?」

 私が呼び掛けても、何も変わらなかった。

 グルグルグル、グルグルグル、グルグルグルと、歩き回り続ける。

「その、どうしたのでしょうか」

 アッシュさんに訊ねると、朝のことなんだけどね、と教えてくれた。

「取引先の書店の一つに行ってきたみたいなんだけど、ちょっとクセの強い方でさ、門前払い食らったみたいで」

 それでああなの、と旦那様を指差す。

「……」

 それにショックを受けた、という感じには見えない。アッシュさんの言う通り、『難問にぶち当たっている』ような印象を抱く。……あれ?

 スカー様の口は小さく動いていた。目を凝らすと、同じ動きを繰り返しているように思う。えっと……。

「お、ま、ぬ、け……おまぬけ?」

 口に出した瞬間、スカー様は動きを止めた。そしてゆっくりと、私に視線を向ける。

「……」

「あ、の」

「君は今、おまぬけと言ったか」

 言った。

 言った、けれども。

「スカー様のことを言ったわけでは」

 そんなこと、微塵も思わない。思うわけがない。

 スカー様はじっと私を見て、そして、

「おまぬけ、か。言いそうだな、彼なら」

 ぽつりと、そう溢した。

「……」

「……」

「マンデイ君、けっこう怒ってるねぇ」

 黙り込む私とスカー様と違い、アッシュさんは穏やかに笑う。マンデイ?

「……君、頼みがある」

 呼び掛けられ、はい、と返事をしながら彼に意識を向ける。未だに難しい顔を浮かべたままだったけれど、あれ? 頬がほんのり赤く染まっているような。

「起きて早々に悪いが、共に来てくれないだろうか」

「……へ?」

 共に行く、とは。

「お出掛け? 夫婦になってから初めてじゃない?」

 何てことのないようにアッシュさんが口にしたけれど、お出掛けって……この敷地から出るってこと?

 私と、スカー様で。

「……っ!」

 顔が熱い。思わず両手で頬を押さえるけれど、熱を感じるだけで逆効果。冷静に、冷静に。

 そうだ、まだ私とスカー様だけと決まったわけじゃない。アッシュさんはスカー様の従者、一緒に来てくださるはず。

 彼に視線を向けると、柔らかな笑みをもって、

「この後印刷所に行かないとなんだ」

 否定された。

「……」

 冷静に、冷静に。

「申し訳ないが、そういうことで馬も使えないんだ」

 そんな言葉と共に、スカー様の手が差し出される。

「時間は掛からない。一瞬だ」

 黄金色であるはずのスカー様の瞳の色は、頬よりも鮮烈な赤色へと、既に染まっていた。


 確かに、一瞬だった。


 スカー様の手を恐る恐る掴み、彼の口が小さく動いたと思った瞬間──視界が暗くなる。

「あ……あれ?」

 暗い、というか薄暗い。

 背中に何か当たるし、気のせいかスカー様との距離が縮まったような。

「着いた」

 そう言ってスカー様は、私の手を引く。転ばないよう気を付けて、というか、彼の方でも気を使ってくれているらしい足運びで、徐々に明るい方へ。

「……ここは」

 人、人、人。

 両手の指の数では足りない人々が、あっちへこっちへ移動している。ある人は誰かとお喋りしながらゆっくりと、ある人は荷物を抱えて駆け足に。そして耳に届く、野菜や果物どうですかの声。

 ここ一月見てこなかった、街の喧騒。

「問題の店はこの近くだ。その」

 そこで言葉が止まったのが不思議で、スカー様を見れば、ほんのり俯いて、口を空けたり閉じたりしている。

 静かに続きを待っていたら、早口に言われた。

「手を離さないように」

 そういえばまだ、繋いだままだった。


◆◆◆


 そこは小さな建物で、ヒビや蔦が這い、看板はどこにも見当たらない。

 スカー様は慣れた様子で、ノックもせずに扉を開ける。

「前言撤回だ、店主殿。本日二度目の訪問になった」

 埃混じりの本の匂いが、鼻をくすぐる。店内からの反応はないけれど、スカー様は気にせず中へ入り、私も続いた。

「いるんだろう、店主殿」

『鍵が開いているんだから、そりゃいるさ、おまぬけさん』

 並び立つ本棚の隙間を少し歩いていると、少し遅れて返事が来る。スカー様は何を言われているのか分からないようで、首を傾げていた。

「……鍵を開けているのでいる、と言っています」

 古い、古い、今は亡き国の言葉にして──私にとっては懐かしき言語。脳裏で赤い髪が揺れる。

『通訳の人を連れてきたわけか』

 閉め忘れた扉が、音を立てて閉まる。窓がないのか一気に暗くなり、自然と身構えた。

『じゃあ、このままでいーね。分かる人いるもんね』

 声が近くからしたと思えば、マッチをする音が耳に届き、そして──ふいに視界が明るくなる。

「……っ!」

 辺りを見回せば、


『こんばんわ、通訳さ……いや、同胞じゃん』


 乱れた長い赤毛と、赤い瞳が特徴的な吸血鬼が、いつの間にやらスカー様の背後に立っていた。

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