いざ

◆◆◆


 スカー様が食事をしている間に、どうにかアッシュさんに心を落ち着かせてもらい、雨脚が弱くなった頃、ついにその時は来た。


「食べ終わったし……やるか、翻訳」


「……っ!」

 またテントを揺らしてしまったけれど、二人は笑ってくれた。

「仕事場は外にある。アッシュ、ここは任せた」

「いってらっしゃーい」

 軽やかにアッシュさんに送り出され、向かう先は──石造りの小さな建物。

 確か、スカー様を探していた時に一度、目にしたはず。……いや、違うか。昨日、食事が終わった後に頼んで、連れてきてもらって……救命行為をされたんだ。

 現場はあそこか、と思うとまた頬が熱くなってくる。


 ──浮かれていられたのはそこまでだった。


「……っ」

 中は散らかっていた。

 数多の紙で、本で、床は散らかり放題であり、辛うじて歩く場所と、作業ができる場所が確保されている状態だった。

 天井近くまである棚も壁一面に備え付けられているけれど、どこもほぼ隙間なく書籍が収められ、所々紙がはみ出ている。

 部屋の様子に驚きつつ、思ったことを一応訊いてみた。

「あの、魔法で片付けたりとか」

「やってこれだ。すぐ手に取れる所にあった方がいいだろう」

「まぁ……」

 それにしても、やりようがあるんじゃないかと見渡していたら、ふと、吐息と間違いかねない、だけど笑ったのだと分かる小さな声が、耳に届く。

 視線を向ければ──彼は淡く笑みを浮かべていた。

「……ワクワクしないか?」

 え、ワクワク?

 そんな言葉が、その口から転がり出ることに驚いてしまう。

「翻訳し終わったものもあるにはあるが、未翻訳の物の方が、この場では圧倒的に多い。今までは俺とアッシュでやってきたが、これからは君にもやってもらうことになる」

 彼は手近な書類の塔から一枚取って、私に渡す。


「この国ではまだ、誰も読んだことのない文献が……あ、いや、物語がここに眠っているんだ」


「……っ!」

 ──誰も読んだことのない物語。

 背筋がゾクッとする。

 それをこそ、私は求めてきたんだ。

 興奮のあまり渡された紙を破きそうになってしまう。

「どうだろう?」

 その問い掛けには、こう返そう。

「ワクワクします!」

 思わず大声で言ってしまったけれど、スカー様は小さく吐息を溢しただけで、機嫌を損ねたりはしなかったみたい。

 むしろ、安堵しているように見えたのは気のせい?

「さっそくだが始めよう」

 こっちへと言われ、足元を気にしながらついていく。

 散らかり放題の室内、その壁際に机が二台設置され、どちらも机上の端には紙や書籍が積まれており、真ん中は作業ができるよう何も置かれてはいなかった。

 机の傍にはそれぞれ、背もたれのない丸椅子が置かれていて、その内の一脚にスカー様は腰掛けると、もう一脚を自分の隣へと寄せる。

「初めてだから、この方が教えやすい」

「よ、よろしくお願いいたします」

 紙やペンを、収納場所を教えるついでに用意してもらい、ひとまず、渡された紙の翻訳をやってみることにした。

 初めてのことに緊張しながら、文字を目で追い、手を動かしていく。彼のことを気にしている暇はない。

「──ど、どうでしょう?」

 最後の文章を翻訳し終えてすぐ、スカー様に翻訳した紙を渡し、採点してもらう。

「そうだな……」

 いきなり全部完璧にできた──ということはなく、いくつかミスがあったみたいで、ここはこう直したらいいとアドバイスをもらい、もう一度、新しい紙で再度挑戦する。

「……まぁ、これなら」

 今度は大丈夫だったみたいだ。

「俺がいる時はこうして俺が確認するけど、いない時はアッシュを頼ってくれ。俺と共に翻訳作業をしてきた奴だから、信頼できる」

「分かりました。アッシュさん、それともちろん、スカー様にも、色々とお世話になります」

「こちらこそだ」

 返事と共に、淡く笑みを向けてくださったので、私も微笑み返す。

 この人、いやこの人達となら、なんとかやっていけそうだ。

「練習したいのですが、何かやっていいものはありますか?」

「そうだな……確かこの辺に積んでた書類で丁度いいのが……」

 机の端に積まれた塔の、頂上より下から目的の物を引き抜こうとして、

「……ちっ」

 切った。

 顔を歪めながら、人差し指を確認している。

 第二関節の辺りが、血で滲んでいた。

「しくじった」

 忌々しそうに言いながら、人差し指を口まで運ぼうとしていたから──彼の腕を掴んで、止める。

「……」

「君? ……あ」

 思い出してくれたらしい。私が、吸血鬼だってことを。

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