【第2話】

 焦げ臭さで目覚めた。



「ん――ん?」



 味気ないマットレスに寝転がっていたユーシアは、弾かれたように起き上がる。


 閉ざされた扉の隙間から、灰色の煙が漏れていた。鼻孔を掠める焦げ臭さは、戦場などで何度も嗅いだことのある悪臭だ。

 慌てて扉に飛びついたユーシアは、分厚い鉄製の扉を開ける。隙間から吹き込んでくる熱風が肌を焼き、まだ夢現かもしれないというユーシアの幻想を軽く打ち砕く。


 狭い廊下は見事に燃えていた。紅蓮の炎が壁や天井を燃やしており、肺を焼くほどの熱気が襲いかかってくる。ユーシアたち全員が蒸し焼きになるのは時間の問題だ。



「リヴ君、リヴ君起きて!!」


「ふぁッ」



 引っ叩かれてリヴは飛び起きる。部屋中に漂う焦げ臭さ、それから燃える廊下を見て現実をようやく認識する。



「シア先輩の寝タバコが原因ですか!?」


「んな訳ないでしょ、手の込んだ一家心中になるでしょうが!!」



 ユーシアは自分の仕事道具でもある純白の狙撃銃が詰まったライフルケースを背負うと、壁に沿って互いに抱き合って眠っていた女性陣の肩を揺さぶる。リヴの時は乱暴に起こしたが、女性陣相手では乱暴に出来ないのがユーシアである。

 肩を揺さぶられて不機嫌そうにネアが「なにぃ」と応じる。スノウリリィも目を擦りながら起き、そして部屋に漂う焦げ臭さを認識して意識が完全に覚醒する。寝起きでも現実を認識してくれて何よりである。


 スノウリリィは「え!?」と叫び、



「ユーシアさんの寝タバコが原因ですか!?」


「何で2人揃って俺のことを疑うのかなぁ!!」



 ユーシアは二度寝を決め込もうとして丸まるネアを抱き上げ、



「リヴ君、ネアちゃんとリリィちゃんを縮めて!!」


「それは構いませんけども!!」



 リヴは恥ずかしそうな表情で自分の身体を抱きしめて、



「寝起きで恥ずかしいんですけど……」


「…………」



 ユーシアは無言でコートの下に忍ばせていた自動拳銃を引き抜く。安全装置を慣れた手つきで外し、それから銃口を相棒の眉間に合わせた。

 さすがにゼロ距離で引き金を引かれれば、リヴも銃弾を回避できない。ユーシアの異能力は相手を傷つけることなく永遠の眠りを与えるものだ、眠ったところでリヴを放置してネアとスノウリリィだけを連れ出せばいいだけである。リヴのことは日本式の葬儀方法で見送ってやろう。


 ユーシアの本気度に気がついたらしいリヴは、両手を上げて「冗談ですよ」と答える。



「ほらネアちゃん、リリィと手を繋いでくださいね。安全に逃げますよ」


「なんでぇ」


「火事なんですよ、ネアさん!! このままだと私たちは燃えちゃいます!!」



 スノウリリィの悲痛な叫びを受け、ネアも渋々と起き上がる。寝ぼけ眼を擦りながらもスノウリリィの手を握り、スノウリリィもまたネアの手を強く握りしめるとリヴの腕を掴んだ。

 腕を掴まれたリヴは異能力を発動させ、スノウリリィとネアを親指サイズに縮める。フッと姿を消した女性陣を黒いレインコートの下へ大切にしまい込むと、寝起きという雰囲気を感じさせることなく軽やかな身のこなしで立ち上がった。


 燃え盛る廊下の状況を確認し、ユーシアは天井で煌々と輝く非常口の明かりを見つける。その場所までまだ火が及んでいないので、逃げるのは今のうちだ。



「リヴ君、非常口!!」


「了解です」



 リヴは非常口を塞ぐ扉に向かうと、取っ手を覆っていた透明なカプセルのようなものを簡単に外す。それから開いた鋼鉄製の扉から外の世界に脱出した。

 ユーシアもリヴの背中を追いかけるようにして非常扉から外に出る。ようやくまともな空気を吸い込めるようになるが、狭い非常階段でいつまでも留まっている場合ではない。燃えていてもこの魔都には救急車すら来ないのだ。


 ボロボロの手すりを掴み、ユーシアは慌てて非常階段を駆け下りる。ネットカフェの位置は3階にあったので、すぐに地上へ降り立つことが出来た。



「危なかった……」


「全く、誰がこんなことを仕組んだんでしょう」



 リヴはそう言いながら、異能力によって縮めていたネアとスノウリリィを自由の身にしてやる。


 異能力の枷から解き放たれ、ネアとスノウリリィは寝巻きのまま荒れ果てた魔都の地面に座り込んでいた。こんな格好で外に放り出す羽目になってしまったのは可哀想だが、目の前の光景にそんな悠長なことなど言っていられないことに気付かされる。

 ユーシアたちが根城にしていたネットカフェは、見事に紅蓮の炎に包まれていた。晴れ渡った魔都の空に黒い煙が上っていき、何かが燃えていることを周囲に伝えていた。表面はガッツリと燃えているので非常口が近くにあってよかったかもしれない。


 安堵の息を吐いたユーシアは、



「本当によかったよ、全員が無事でさぁ」


「おにーちゃん」


「どうしたの、ネアちゃん? 朝ご飯はごめんけど別のところで調達するから待っててもらえる?」



 朝食の催促かと思って応じたユーシアだが、ネアは「んーん」と首を横に振る。



「ねあとりりぃちゃんのおにもつは? あのおへやにあったの」


「え」



 そういえば、ネアとスノウリリィの荷物を避難させた記憶がない。彼女たちも抱えている訳ではなく、今まで眠っていた寝巻き姿で外に放り出されているものだから私服なんて持っていなかった。

 まさか、火事に遭ったネットカフェに全て置いてきてしまったのか。まあ災害の時は荷物など捨て置くのが正しいことだろうが、精神が幼児退行しているネアにどう説明したものか。


 ユーシアが返答に困っていると、リヴが「問題ありません」と言う。



「荷物は昨日のうちに僕が収納しておきました。こういうことが起こりかねないと判断したので」


「リヴ君さすが」


「もっと褒めてくれてもいいんですよ?」


「格好いいよ、リヴ君。ひゅーひゅー」


「適当に褒めてますね?」



 リヴがジト目で睨みつけてくるので、ユーシアは全力で視線を逸らしておいた。調子に乗ることがあるから適当に褒めるのが1番なのだ。

 やれやれと肩を竦めたリヴは、レインコートの裾から熊の形をしたポシェットを滑り落とす。ネアが好んで使用している私物の鞄で、財布や飴の形をした【DOF】などの貴重品が詰め込まれているものだ。ネアが中身を確認するようにポシェットをひっくり返すと、見覚えのあるものがバラバラとコンクリートの地面の上に転がった。


 ネアはポシェットの中身を確認しつつ、



「あるー」


「よかったですね、ネアさん。私物はポシェットに詰め直しましょうか」


「うん」



 スノウリリィの手を借りて、ネアはコンクリートの地面に散らばった私物をポシェットに詰め直す。その途中で欠かさずに飴の透明な包装紙を破ると、桃色の飴を口の中に放り込んだ。

 その流れで、ネアはスノウリリィにも飴玉を渡す。ネアの飴玉を貰ったが故にスノウリリィも見事に【OD】となってしまい、こうして【DOF】を摂取しなければならない日々を送る羽目になったのだ。


 スノウリリィは「ありがとうございます」とネアから飴を受け取り、笑顔で口に含む。【DOF】を服用する前までは毛嫌いしていたのに、【OD】になった途端に割り切るのが早すぎる。



「ん」


「どうかしましたか、シア先輩。トイレなら野糞してください」


「ふざけないでよ、俺のお腹はそこまで柔じゃないから」



 リヴの冗談を一蹴したユーシアは、すぐ近くの建物の隙間を示した。


 隙間に逃げ込んでいく金髪の少女がいた。ボロボロの衣服を身につけ、ユーシアに見つかったことを恐れるように慌てた足取りで建物の影に隠れていく。年の瀬はネアよりも若い程度だろうが、10代後半辺りと予測できた。

 異能力がお手軽に手に入ることから【DOF】は若者を中心に爆発的な人気を誇る。あの程度の少女もまたアメコミに憧れて【DOF】に手を出してしまったのだろう。それとも誰かに唆されたのだろうか。


 ユーシアは音もなく翡翠色の瞳を眇め、



「なるほどね、敵対するなら容赦はしないよ」


「ええ、その通りですね」



 ――誰に喧嘩を売ったのか、分からせてやる必要があるようだ。

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