山寺の岩 第10話

 泥蓮が仏道を学び始めてからひと月ほど経った頃、あの男がまたやって来ました。覚えていらっしゃいますでしょうか。かつて泥鬼を虐げたあのやせ細った男です。男はハアハアと息を切らして階段を登りきると、あの忌々しい泥蓮が目に入りました。泥蓮にしてみれば日毎の仕事をしていたら見たくもない面が現れたわけですから、お互いにもらい事故のようなものです。泥蓮は不器用にも腰を折り、深々とぎこちない笑みを浮かべながらお辞儀をしましたが、男はその姿を見ると小さく舌打ちをし、今度は一言も話しかけることなく和尚のいる別堂の方へと歩き始めました。

 泥蓮はこれにひどく腹が立ちました。かつては当たり前のようにされていた無礼ですが、この時の泥蓮にはこれまでにはなかった尊厳がありましたので、無下に扱われることに対して憤りがあったのでしょう。一体どうしてあのような男に仏道が解るだろうか。人を見下し、人を人とも思わぬような奴に仏道が解るものか。そのように泥蓮は感じました。

 これは大変難しいと思います。仏様の教えそのものがカースト的な社会制度へのアンチテーゼとしての性質がありますので、誰かを見下したり蔑んだりすることが理想だとは到底考えられません。しかし、その教えが千年以上も伝わり続けているこの国におきましても、御存知の通り被差別民の存在は常にありました。良し悪しにかかわらず、事実としてこれは認めねばならず、この男の行動もここに含まれるでしょう。そして、十悪には瞋恚というものがありますね。しんい、しんにと言いますが、これは自分の心に逆らうものを憎み怒ることを指します。泥蓮の心持ちはこれに近いと言って差し支えないでしょう。つまり、この場合両者が共に好ましくない考えと行いをしていたということです。これは最終的に不和を引き起こします。


 泥蓮はまたもや激情に飲まれてしまいました。得も言われぬ深い、深い哀しみです。彼は前庭の掃除を手早く済ませると、すぐに箒を放り投げて裏の林へ駆けました。そして懐からあのノミを取り出しますと、また一心不乱に岩を掘りました。今度は怒りの面ではありません、哀しみの面でした。目にどっぷりと涙を溜めて、今にもおいおいと泣き出さんばかりの面で、こちらも大変傑れていたそうです。

 ふと、泥蓮は自分の頬に涙が流れていることに気が付き、驚きました。泥蓮はこれまで一度たりとも泣いたことがなかったからです。異形のせいでしょう、どんなに悲しくても涙がうまく出てこないために泣くことができず、またその声は野良犬が唸るように低く、みじめで汚かったので、周りのものがそれを許しませんでした。ですがその時、泥蓮は初めて涙を流すことができたのです。涙が泥蓮の頬を伝ったのです。

 泥蓮はいつも彫り物をするとき、その度に自分が真っ当な人間になっていくように感じていました。何をするにも不自由な自分が心のうちの情動を彫ることで、それを人並みに表現できるようになっていく。表現することがが許される。その喜びを泥蓮は感じていました。泥蓮は自分の醜さが業に因るものだと知っていました。何を下でもなく、生まれ持った重い業です。積み重なった業の末に俺は愚鈍であるのだ、そう強いられているのだと知っていました。そしてその業が、一彫りする毎に削れていくように感じていました。俺は木を彫るのと同時に業を彫っているのだ。これからも何千、何万と面を彫ろう。そうしてやっと俺は人間に成れるのだと泥蓮は思いました。

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