其之三 沙上の客

 鮮やかな色彩はない。くすんだ白い砂と灰色の小石。砂礫されきの上で寂しく風に揺れるのは、黄土色の枯草の群れと枝先を赤く染めた名もなき灌木かんぼくだ。その間に白く伸びる筋が見えた。川だ。輝くように白く見えたのは、水が凍結して、日に照らされているからであった。

 劉備りゅうび長生ちょうせいが幷州の直道を北上している頃、曹操そうそう夏侯淵かこうえん、そして、孫堅そんけん臧旻ぞうびんの四人は涼州の河西回廊かせいかいろうを北上していた。

 河西回廊は河西四郡をつらぬく涼州のシルクロードである。河西四郡もまた、武帝の時代に名将・霍去病かくきょへいが西部匈奴きょうど駆逐くちくして、設置された歴史がある。設置された歴史がまだ浅く、農耕に適しているとはいえない土地柄なので、人口は極端に少ない。

 そんな寂寞せきばくの河西回廊を行きながら、曹操は孫堅とくつわを並べて話し込んでいた。

 共通の話題は劉備である。

「不思議なものだ。こんな西垂せいすいの地で共通の知人を持つ者と出会うとは」

玄徳げんとくとは幽州で偶然って、共に化け物と戦った仲だ」

「ああ、その化け物もオレの知り合いだ。残念ながら、死んでしまったようだが」

 孫堅はその言葉にぎょっとして、一瞬警戒感をあらわにした。

「君は冗談が通じない男のようだな」

 曹操は孫堅の単純かつ直情的な性分しょうぶんを看過して、それを笑い飛ばした。孫堅が憮然ぶぜんとして聞いた。

「……今、玄徳は何をしている?」

「あいつは今も人助けに忙しい」

「そうか。律義りちぎな奴だ」

「ああ。いろんな人間に気に入られて、いろんなことを頼まれる。お人好しの典型だな」

「ふっ」

 曹操の劉備評が見事なものだったから、孫堅は思わず笑みをこぼした。

 この濁々とした時代に劉備のような人間に出会うのは清々すがすがしい。曹操も同じ気持ちだったから、笑って話すのだ。

「それがまさか蔡邕さいよう殿だったりするのか? 幷州を通った時、蔡邕という学者が流刑になったと話題だった」

「そのまさかだ」

 曹操の告白に孫堅も臧旻も驚くほかなかった。

 蔡邕の名は全国区である。そんな有名人が流刑になったのだから、これはトップ・ニュースとして全国に伝わる。ただ、ずっと異国の地にあった臧旻にとってそれは初耳だった。

蔡智侯さいちこうは先の鮮卑討伐軍の出兵に反対されたと聞く。それが原因なのか?」

 二人の前を行っていた臧旻が馬を止め、話に加わってきた。

「それも関係あるでしょう。何かにつけ宦官や腐敗官僚の排除を訴えていましたから、彼らにとっては目障めざわりな存在だったのは間違いありません。実のところ、理由は何でもいいのです。邪魔者は讒言ざんげんして遠ざける。たびの判決も宦官が主導したようなものですよ」

 曹操がそれに答えに臧旻は重い溜め息をついた。

「……何十年も同じことが繰り返されているだけか。それで、流刑先はどこか?」

朔方さくほうです」

「……これもまた繰り返しか。だとすれば、危ういぞ」

五原ごげん太守のことですか?」

「知っているのか?」

「まぁ、全て調べてあります」

「……ぬかりがないな。やはり、君はただの使者ではないようだ」

 臧旻は曹操のてきぱきとした受け答えと事情に精通する知識から、袁氏がこの事件の裏で動いているのだろうと推測した。

「私も清濁の抗争に巻き込まれている一人です。濁流のやり方もよく心得ております」

 濁流派の連中が都合の悪い者を排除するお決まりのパターンがある。

 まず、関係各署に息のかかった者を配置し、証拠を捏造ねつぞうする。準備が整ったら対象者をそしって、罷免ひめんして獄に下す。そして、程度によって判決を恣意的しいてきに決定するのだ。判決は相手の態度や賄賂わいろの有無などにより操作される。本当に都合が悪い時は、ろくに審理せずに極刑を下す。これはかなり強引な手段なので頻発ひんぱつはできない。

 次にいいのが流刑だ。流刑の場合は南方の瘴癘しょうれいの地か、異民族の侵攻が頻発する北方の地を流刑先に選び、病気か戦乱で勝手に死んでくれるのを待つ。ただし、流刑も禁錮も禍が完全に取り除かれたことにはならないので、裏で暗殺を奨励しょうれいする。

「そうか。昔もよく似たことがあった。知っているかどうかは分からないが……」

 臧旻は昔の清流派暗殺未遂事件のことを話し始めた。

 永興えいこう二(一五四)年冬、泰山郡で公孫挙こうそんきょという男が反乱を起こした。

 この反乱は青・えん・徐の三州にまたがり、郡県の兵は勝つことができず、公孫挙は二年近く暴れ回った。討伐軍の主将に段熲だんけいが抜擢されてようやくこれを破り、公孫挙を斬った。この戦功を機に段熲の名が全国にとどろき始める。

 延熹えんき二(一五九)年十二月、当時の濁流宦官・単超ぜんちょうの甥の単匡ぜんきょう済陰せいいん太守となっていて、権勢を頼んで数々の不法行為を働いていた。それを兗州刺史の第五種だいごしゅが弾劾した。

 第五種はあざな興先こうせん京兆けいちょう長陵ちょうりょうの人で、章帝の時代に司空(建設大臣)となった第五倫だいごりん曾孫そうそんである。

 延熹三(一六〇)年正月、宦官の侯覧こうらん段珪だんけい済北せいほくの国内に広大な荘園を所有しており、そこの労働者と傭兵が頻繁ひんぱんに強盗を働いた。バックの権威を恐れて誰も手出しできないでいたが、済北相・滕延とうえんが済北に入ると、彼らを逮捕し、有無を言わさずこれらを殺した。ところが、侯覧・段珪に無罪の者を多数殺したと誣告ぶこくされ、たちまち罷免されてしまった。

 滕延はあざな伯行はくこう北海ほっかい国の人で、後に京兆尹けいちょういんとなってよく治め、徳行に優れた人と評される。また、この頃の泰山太守は冀州きしゅう渤海ぼっかい重合じゅうごうの人で、苑康えんこう、字は仲真ちゅうしんといった。苑康は太学に学び、郭泰かくたいと親しく、互いを認め合った清流的人物だった。騒乱後の泰山太守となって、厳令を敷いて風紀を正したため、あえて不法を犯す者はなくなり、治安も劇的に回復した。

 そんなところへ侯覧の一党が逃れてきて、泰山へ隠れる事態が発生した。その一党は清流派の張倹ちょうけんの告発を恐れ、山陽郡から逃れてきた者たちだった。常々宦官の悪事を憎んでいた苑康はこれらをしらみつぶしに捜索し、全員を捕えた。その業績で清流派「八及はっきゅう」の一人に数えられ、〝海内かいだい彬彬ひんひん苑仲真〟という七言評しちげんひょうで称される。

 泰山も済陰・済北も兗州に属す。立て続けに身内を攻撃されたのを憂慮した侯覧ら宦官たちは、第五種と苑康をおとしいれようと画策した。

 罪に問ううってつけの材料があった。公孫挙の余燼よじんくすぶり続けていたことである。叔孫無忌しゅくそんむきという者がまた反乱を起こしたことを理由にして、投降した賊徒の数を誤魔化ごまかした上、賊徒鎮圧の努力をおこたっているといた。二人は宦官の狙いどおり罷免され、苑康は日南にちなん(今のベトナム)へ、第五種は朔方への流刑が決まった。

 この時、朔方太守に単超の縁者の董援とうえんという者が就いていた。もちろん、暗殺指令が出た。孫斌そんひんという第五種の故吏こりがそれを察知して、途中で第五種の身柄を奪って亡命した。苑康も清流派「八顧はっこ」の羊陟ようちょくの訴えで、ゆるされて故郷へ帰ることができた。泰山の賊は中郎将ちゅうろうしょう宗資そうしによって討伐され、首領の叔孫無忌は後に泰山太守となった皇甫規こうほきに降伏し、こうして泰山の反乱は鎮圧された。

 宗資はあざな叔都しゅくと、南陽郡安衆あんしゅうの人で、代々の貴族の出だった。後に汝南じょなん太守となり、清流派「八顧」の范滂ほんぼう功曹こうそう(郡県官吏の功績評価員)に取り立て、范滂の言葉を全面的に信用して、仕事の一切を任せた。彼が任用した者の多くが清廉有能で、宗資はそれによって美名を得る。

 亡命から三年後、第五種は赦されて家に帰ることができた。この時、第五種の赦免しゃめんを求めて上奏したのが、当時、徐州の地方官吏に過ぎなかった臧旻だった。

「繋がっている……」

 孫堅がつぶやいた。臧旻は第五種を助け、賊を滅ぼした宗資は范滂を登用し、范滂は袁忠えんちゅうと共に濁流派の悪事と闘った。孫堅は袁忠と出会い、臧旻を助けた。

「清流は時を越えて流れる……」

 また呟いた。揚州で出会った清流派、袁忠はそう言っていた。目に見えない清流の力が働いているのだろうか……。

「第五の故事ですね……」

 曹操は予言の一句を口に出して呟いた。

 かつて第五種が朔方に流刑になったように、今度は蔡邕が朔方へ流された。

 同じように暗殺者が待ち受けている。それを奪って亡命するのが、自分の代理、夏侯惇と劉備の役目だ。

〝栄華を極めし王族は第五の故事にならいて、まさに滅びんとする〟ならば、自分の打った手は間違っていない。


 敦煌とんこう郡は祁連きれん山脈の西端に位置する。祁連山脈から流れ出た籍端水せきたんすい氐置水ていちすいが砂漠をうるおし、川沿いに農耕地が広がるオアシス都市が点在していた。

 特に郡都の敦煌は漢にとっても、西域商人たちにとっても重要な交易の拠点であり、敦煌の各都市はシルクロードの一大中継点であると同時に、中東系のほりの深い顔立ちをした西域商人や浮屠ふとの僧(仏僧)たちが往来するエキゾチックな異国情緒を漂わす国際都市であった。駱駝らくだに乗った隊商がすれ違った。孫堅と夏侯淵はもの珍しそうにそれを見た。

「白馬寺に向かうんだろう」

 錫杖しゃくじょうを突く浮屠の僧侶たちを見て曹操が言った。孫堅が聞き返す。

「白馬寺?」

「洛陽郊外にある浮屠の寺院だ。百年前に建てられたそうだ。オレも何度か見学に行ったことがある」

 白馬寺は中国初の仏教寺院である。明帝の永平えいへい十(六七)年、迦葉摩騰かしょうまとう竺法蘭じくほうらんという二人の僧が白馬に乗って仏典を西域から運んできて、鴻臚寺こうろじという外国人向けの宿泊所にとまった。それを記念して、翌年に白馬寺が建立こんりゅうされた。

 もともと〝寺〟は官庁の意味であったが、この頃の仏教の伝来とともに寺院を意味するようになるのだ。

 桓帝の建和けんわ元(一四七)年に月氏げっし国の僧の支婁迦讖しるかせん支讖しせん)が、その翌年には安息あんそく国の王子、安世高あんせいこうが布教活動のため来朝し、白馬寺で仏典ぶってん訳経やっきょうを開始した。それはサンスクリットで書かれた経典きょうてんを漢語に翻訳する作業で、今も彼らとその弟子たちの手によって続けられている。

「都には月氏の移民がたくさんいるぞ。月氏出身の者は名前の頭に〝支〟の字を付ける。安息なら、〝安〟だ」

 袁紹えんしょうが偽名の〝支丹したん〟を嫌がった理由の一つがこんな時代背景にも隠されていた。

 漢は月氏(大月氏)のことを〝月支〟とも呼んだ。もともと月氏国はこの敦煌の地にあった。随分前に匈奴に敗れて遠くに去り、また国を建てた。

 今の月氏国は貴霜(クシャーン)を指す。現在のクシャーン王はフヴィシュカというが、先代のカニシカ王の時に隆盛を迎え、現在のインド北西部に一大勢力を築いていた。その西に隣接するのが安息(パルティア)で、現在のパキスタンからイランにかけての地域に勢力を広げている。

「そうなのか、詳しいな」

 東から西まで地方は駆け巡ってきたものの、まだ一度も上洛したことのない孫堅は曹操の話を聞きながらも、何も具体的なイメージはできないでいた。

「今の天子が大層異文化好きでな、都でも胡服こふくやら胡床こしょう(折りたたみ椅子)が売られているし、銅駝どうだ街の酒屋では胡笛こてき胡琴こきんの音楽と胡舞こぶ大流行おおはやりだ」

 後漢の後半期は国が衰退のきざしを見せる半面、西域の文化・芸術が次々と流入して、その影響を強く受ける時代でもあった。一方、西域人が中原ちゅうげんに入ってくるのとは逆に、漢人の中には政治の混乱を避けて市井しせいから遠ざかろうとする者が続出した。

 世俗を離れて純粋に学問に専念しようとする者は深い山中や湖畔こはんなどに精舎せいしゃを建てた。精舎とは街の喧騒けんそうから離れたところに創られた私塾のようなもので、そこに学生を集めて教授したのだ。ただ騒乱を避けようとする者は大都市から離れた田舎いなかの郡県へと移り住んだ。

 張奐ちょうかんがこの敦煌へ引っ込んだのは、張奐が敦煌の生まれだったという理由だけではなく、やはり、都からできるだけ離れようという意志があったからだ。

 張奐はあざな然明ぜんめい、敦煌郡淵泉えいせんの人で、段熲と並び称される後漢の名将である。

〝関西は将を出し、関東はしょうを出す〟という言葉があった。当時の名将の多くが関西出身で、名宰相の多くが関東出身だったことを表した言葉である。

 涼州付近は河西四郡が漢王朝の領土になってからも、異民族の反乱侵攻が絶えず、その厳しい状況が助長するように涼州から軍才にひいでた人物を多く誕生させたのである。

 過去、張奐も臧旻が拝任した使匈奴しきょうど中郎将に就き、朔方の異民族の反乱をしずめ、鮮卑を破った。幷州の羌族大反乱の際は段熲や皇甫規とともに、その討伐に活躍した。

 皇甫規はあざな威明いめいという。安定郡朝那ちょうなの人で、やはり、関西出身の名将である。

 四年前に他界していたが、清廉忠義の人物で、同じく清廉な張奐と相良かった。

 段熲・張奐・皇甫規の三人は同世代であり、いずれもそのあざなに〝明〟の字があるため、人々はこの三人を〝涼州の三明さんめい〟といって、その武功と威光を称えた。

「――――もし、三明の活躍がなかったら、涼州はすでに漢の地ではなかったであろう」

 臧旻は同じ名将の道を歩む孫堅に言ったものだ。


 砂漠を吹きわたってきた強風に押し曲げられたかのようなやなぎの古木がこの国の現状を表しているかのように映った。根本から大きく傾いた幹は今にも地に付きそうだ。それを交差した二本の支柱がかろうじて支えている。その奥。なかば砂に埋もれたあばら屋がある。長城と同じ版築はんちく構造の掘立ほったて小屋――――そこに張奐は住んでいた。

 本籍を都に近い弘農こうのう郡に遷していたので、もと所有していた屋敷は当の昔に手放していたのだ。それに目立ってもいけない。そんな張奐の意思を表してか、小屋は周囲の砂と同化するようにたたずんでいる。

「将軍、命を無駄にしてはいけませんぞ。この私に斬らせないでもらいたい」

「以前からお前に義をいても無駄であろうと思っておったが、まさかこのような振る舞いを受けるとはな……」

 曹操が指を口に当て、口をつぐむように指示した。それを察した孫堅と夏侯淵がいつでも剣を抜けるようにしてあばら家ににじり寄った。粗末な小屋なので、声がつつ抜けてくる。曹操たちが不穏な様子に聞き耳を澄ます。

「……そうさせておるのは、然明、お主ではないか」

「……仲潁ちゅうえいはともかく、貴公が低きにこころざしを傾けるとは残念でならん」

「言うでない。お主のように全てを失い、砂の上で朽ち果てたくないだけよ」

 声で判断するしかないが、三人が話している。一人は張奐だろう。残りの二人はその張奐と相対あいたいしている。どちらも張奐の顔見知りらしいが、一人が剣を抜き、張奐をおどしているようだ。

『何の駆け引きだ……?』

 曹操は密室の内情を分析していた。孫堅・夏侯淵にはまだ動くな、と手で制す。

「名が朽ち果てるよりはよいでないか」

「強がるでない。一族郎党が破滅してもそう言えるのか?」

「強行策が取りの貴公にしては、随分と卑怯ひきょうではないか」

「こんな手はわしのものではないわ。分かっておろうに?」

「貴公、宦者かんじゃに取り込まれたか」

「いらぬ詮索せんさくはよい。昔、命を助けてやったこと。よもや忘れておらんだろうな、然明」

「忘れてはおらん。わしは義を忘れたりせん」

「ならば、それをここで返してもらおうぞ。態度次第では、お主もお主の一族もこれ以上かばうことは難しくなる」

『脅しの次は恩を売り、情を責めるか……。濁流の手管てくだだな……』

 曹操は思った。張奐を口撃する男は濁流の手練手管てれんてくだで相手を屈服させようとしている。しかし、張奐も屈しない。反撃に出た。

「わしが示す義とは貴公に道をあやまらせぬようさとすことじゃ。まだ遅くはない。宦者との関係を絶て。英名をせた将軍が宦者の走狗そうくにはなるな」

 相手もそれを拒否したらしい。また脅しで攻め始めた。

「言葉で通じぬようなら、わしは何も言うまい。……お主、仲潁の性格をよく知っておろう。仲潁が手荒な真似まねをする前におとなしく出してくれまいか?」

「知らんものは知らん」

 張奐は強情ごうじょうを通した。話し相手の男が少し嘆息して言う。

あわれ、然明。我等われらの溝はもはや橋も架けられぬほどに深まった。後は仲潁に任せる……」

「将軍、相当痛い思いをしますぞ。よろしいのか?」

 濁声だみごえの男が最後通告を出した。ついに曹操はうなずいて合図を出す。孫堅と夏侯淵が薄っぺらい戸を蹴破けやぶって突入した。それに驚いた巨漢の男が咄嗟とっさに孫堅に斬りかかった。孫堅がその剣を古錠刀こていとうで受け止める。

「ぬおおおっ!」

 巨漢の男は凶暴な力でそれを押し込み、互いの剣を孫堅の胸元まで押し込んだ。

「何奴か?」

 この事態に、剣を持っていない方の男がすごんで聞いた。年季の入ったその顔はつい先日臧旻に減刑を言い渡した段熲その人だった。

「あなたは段将軍ではないですか。これは失礼しました。……二人とも剣を下ろせ」

 孫堅も剣を合わせる男の向こうに記憶に新しい顔を見て、曹操の言葉に従おうとしたが、剣を交える巨漢の男がそれに従わない。孫堅はそれにいきどおって奮起すると、巨漢の男を押し返した。そこでようやく段熲も孫堅に斬りかかった男に剣を下ろすよう、手で合図した。

 男は不服そうな表情を残しながら力を緩め、孫堅と夏侯淵も剣を下ろした。

 殺伐さつばつとした空気が緩和され、曹操の言葉がその場を制す。

「私は曹孟徳そうもうとくと申します。酒泉で将軍のご尊顔そんがんを拝見致しました。段将軍のような御方がこのようなところで何を?」

「何でもない。旧友と話していただけよ。……お主らは何用か?」

「張奐殿の御子息から書を預かりましてね、遥々はるばる届けに参ったのです。たった今着いたばかりなのですが、何やら騒がしいのが聞こえたので、さては賊かと思い、このような失態を……。とんだ早とちりを、申し訳ございません」

 曹操は得意の芝居しばいを演じ始めた。孫堅も夏侯淵もそれに任せる。

 段熲が鼻息で白いひげを揺らして聞く。

「着いたばかりと言ったな?」

「はい、遠路疲れ果てました。今日はここに泊らせてもらおうかと思います」

 曹操の演技は頭の中で即興そっきょうで作り出される完全なアドリブであるが、孫堅にはそれが演じているようには見えなかった。それは段熲も同じで、思わぬ邪魔が入って、

「……然明、よく考えておいてくれ。また時を改めてうかがう」

 曹操の芝居を鵜呑うのみにして、段熲は張奐を脅迫した言辞を聞かれていないと思い込んだ。そして、段熲は座したままの張奐にそう言い残し、一端引き下がることにした。

「行くぞ、仲潁!」

 段熲に呼ばれた男は剣を突き合わせた孫堅に一瞥いつべつをくれた。荒い鼻息、冷酷な目つき、つばの着いた汚いひげ、太った体、そして、その膂力りょりょく……。

 孫堅はにらみ返しながら、その男の凶悪な人相にんそうを脳裏に刻みつけた。

 小屋の入口で黙って事の顛末てんまつを見ていた男と段熲がすれ違う。

 不精髭ぶしょうひげり、髪を調ととのえ、衣服を正したその男が、自らの口で庶民に落としたあの臧旻だとは、段熲は全く気付かなかった。


 張倹や陳逸ちんいつと違い、張奐には懸賞金けんしょうきんは掛けられていない。だが、張奐もれっきとした党人である。濁流派の追跡の目を逃れるためにわざわざ砂塵さじんが舞う蜃気楼しんきろうの向こうへ姿を隠したのだ。

「私は故の使匈奴中郎将、臧旻と申します。かねてから張将軍のご尊名を拝し、お慕いしておりました。此度こたびはお会いできて誠に光栄です」

 臧旻が真っ先にそう言って、拱手きょうしゅささげた。張奐がそれに応じて拱手を返す。

「孫堅文台です。天下に英名とどろく張将軍に拝謁はいえつでき、光栄の至りでございます」

 孫堅は片膝かたひざをついてひざまずき、上将に対する礼を捧げた。曹操と夏侯淵も名を名乗る。

「危ないところを助けていただき、かたじけない。むさ苦しいところですが、さぁ……」

 四人は張奐に勧められ、狭いあばら家に座り込んだ。

 曹操は早速、張昶ちょうちょうの書簡を手渡した。蔡邕に渡す書とは別に、父にてた書簡を預かっていた。張奐がそれを広げてみた。

沙上さじょうに客あり、淵泉を求む』

 達筆たっぴつな草書で記されたその八字は息子が宛てた紹介状代わりである。

「少しお話を聞かせていただきました。どうやら段将軍は宦官の意を受けて来られたようですね。党錮とうこの残り火を消しにでも参られたのですか?」

 曹操は張奐の立場など気にもめず、いきなり核心をえぐった。張奐もそれを気にせず、

「そのようだ。紀明が自らやってくるとは、いよいよ事態が切迫してきたか……」

「段将軍が宦官にくみするなど、本当でしょうか?」

〝涼州の三明〟の威名をよく知る臧旻は三将全てに畏敬いけいの念を持っていた。段熲が濁流派に加担しているなど、にわかには信じられない。

「力ある者は常に清濁の抗争に巻き込まれる。紀明きめいもしかりじゃ。長年苦労して築いたものを失いたくなかったのじゃろう」

 張奐は段熲の変化に理解を示して言った。

「わしと紀明には昔からの因縁いんねんがある。それが紀明の心に黒い影を落としたのかもしれん……」

〝涼州の三明〟はいずれも確固たる名将であったが、その方略は異なっていた。

 張奐と皇甫規の対羌たいきょう方針は柔軟、反乱を主導した者を斬り、降伏する者は受け入れて反乱を短期的に鎮めた。反対に段熲の方針は剛強ごうきょう、鎮圧しても反乱を繰り返す羌族を撃滅するべく、徹底的に攻撃を加えた。その性急すぎる段熲の方針を失敗するリスクが高いとして批判したのが張奐だった。また、それぞれの人脈に関してのいざこざもあった。

 段熲が親しくしていた者に李暠りこうあざな君遷くんせんという人物がいた。

 李暠は冀州魏郡ぎぐんの人で、宦官と関係が深く、美陽びようの県令となって不法蓄財していた。郡の監察官の蘇謙そけんがこれを告発、李暠は財産を没収され、労役刑が課された。李暠はこれを恨んで、司隷校尉しれいこういとなった時、蘇謙の微罪を追求して殺してしまった。

 これが壮絶な復讐劇ふくしゅうげきの幕を開ける。子の蘇不韋そふいが李暠に報復するべく延々と命をつけ狙ったのだ。その内、李暠はストレスで死んでしまった。そして、その報復に今度は段熲が司隷校尉となって蘇不韋を殺した。

 蘇不韋が殺されたのは、蘇氏が張奐と親しかったことも一因だった。

「張将軍と段将軍の確執を宦官が利用して、けしかけたということですよ」

 曹操が事の裏側にある人の心の流れを要約した。蔡邕が恨みを買った経緯とよく似ている。人の気持ちは移ろい変わる。ちょっとしたねたそねみが恨みや憎しみに変わり、殺意にまで成長する。

 互いに名将とうたわれ、敬意をいだき合った二人の間にできたほんの少しの溝。それは時の流れの中で、橋さえ架けられぬほど巨大な峡谷へと変貌へんぼうした。

 党錮事件は全国の官僚・官吏たちの心を大きく揺さぶった。心を不安定にした者たちの中には濁流派に近寄って保身を図ろうとする者も出た。王甫おうほはそんな段熲を取り込み、二人の軋轢あつれきを利用して、仙珠の隠匿いんとく容疑がかかる張奐にプレッシャーをかけようと考えたのだ。

「中央は腐臭ふしゅう銅臭どうしゅうあふれています。段将軍はそれに鼻が慣れてしまったのでしょう」

腐者ふしゃ〟とさげすまれる宦官とその一派による金権政治。国を腐らせる濁流は都から発し、全国へと拡散していた。曹操はまた予言の文句を思い出した。

金行きんぎょう盛んなること百万歩。十歳の禍根かこんを巡りて明将相争う。なるほど、先生の解釈は正しかったわけだ……』

 明将とは然明と紀明、つまり、張奐と段熲を指したのだ。……では、何を争うのか? 十年前の党錮事件で竇武とうぶ陳蕃ちんばんが殺された。……誰に? 

 竇武は王甫が指揮した衛兵に。陳蕃の命を奪ったのは、他ならぬ張奐その人であった。この時、張奐は羌族の反乱を鎮定し、都に召還されたばかりで中央の事情にうとかった。竇武・陳蕃が反逆をくわだてた。すみやかにこれを討伐せよ――――にせ勅令ちょくれいを受け、疑うことを知らなかったのだ。

「――――我等は天下万民のため、害悪を取りのぞこうと立ち上がった。……その上奏文を読めば、そなたにも何が正義か理解するであろう……。そなたは正しきを知り、義を守る名将……。護らなければならぬ宝は……ここにある……。それを……宦者に、決して、渡しては……ならぬ。正義のこころざしは、そなたに……託した。張将軍、害毒を、一掃し……天下に……安寧……を……。清流を……守って……く……れ」

 清流派のいただきに立つ陳蕃は張奐の胸に手を当てながら、最期さいごを清らかな言葉で締めくくった。清き言葉は張奐の心にさわやかにみ渡り、はかられた張奐を真実に目覚めさせたのだった。

『――――わしは取り返しのつかないことをしてしまった……』

 陳蕃を斬った後で、事態を悟った張奐は自分の犯した大罪を大いに悔やんだ。

 託された遺命と純白に輝く宝珠。それをふところに隠し、消せない罪と引き換えに、陳蕃の遺命を守って濁流派から託された白金珠を死守する道を自らに課したのである。

 宦官たちには陳蕃が宝を所持していなかったと嘘をついた。それで、宦官らは息子の陳逸や陳蕃に近かった清流派が所持しているのではないかと彼らに疑いの目を向けたのだ。

 そんな中、張奐は仙珠を隠し持っていることを清流派の面々にも打ち明けるわけにもいかず、全ての恩賞を返上し、竇武・陳蕃の無罪と党人の擁護ようごを訴え続けた。

 それまでの張奐は名将ではあったが、純粋な清流派とは言えない辺境の武人であった。陳蕃を殺害したことへの贖罪しょくざいが張奐を純然たる清流派へと変えたのだ。陳蕃のこころざしが白金珠に封入されてその胸に根付いたかのように。しかしながら、党人弁護は認められるはずもなく、ついには張奐自身も党人の身にちてしまい、蟄居ちっきょを命じられた。

 曹操は様々な清流派と関わる中で、独自に党錮事件の詳細を調べ直し、張奐が仙珠の一つを秘匿ひとくしているという答えに達した。王甫・曹節もそれをぎつけたのだろう。

「あの仲潁という男は何者ですか?」

 黙って聞いていた孫堅が口を開いた。自分に斬りかかってきた暴漢の方が気になった。

「名を董卓という。かつてわしの部下であった。戦には長けているが、性は欲深く、動乱を好み、冷酷非道で血の臭いに敏感な、恐ろしい奴じゃ」

 董卓、あざなを仲潁。涼州隴西ろうせい臨洮りんとうの出身で、羌族討伐戦で尹端いんたんとともに張奐の司馬(副将)として活躍した。勇猛で戦向きの人物ではあったが、軍規に従わないことも度々たびたびで、とにかく残忍さが目立ったために、張奐には好かれなかった。

 董卓は西域せいいき戊己校尉ぼきこういとして、つい最近まで西域で軍を率いていた。戊己は中央を意味する。広大な西域地区のほぼ中央に西域都護府せいいきとごふが設置されていたことから、そういう。西域中央軍といった意味合いだ。そこでも軍規違反が目立ち、ついに罷免されて敦煌まで帰還してきたところだった。段熲の意を受けていた董卓は西域にある間も兄に礼物を持たせて張奐のもとへ行かせるなど、その様子をうかがわせるようなことをしていた。董卓の兄は董擢とうてきあざな孟高もうこうといった。

 ちなみに、尹端とは孫堅や臧旻が許昭きょしょう討伐に従事していた時の会稽かいけい太守である。


 曹操はこの張奐のあばら屋に宿泊すると言ったが、それはただの方便だ。こんな狭くさびれた小屋に泊まろうという気はおきない。用を済ませば、ただちに立ち去るつもりだった。

 臧旻は一足先に張奐のあばら家をった。張奐が紹介した曹全そうぜんという人物に会うためである。近年の西域の状況は非常に不安定で、情勢をよく知る人物が必要だったのだ。

 建寧けんねい三(一七〇)年、疏勒そろく和徳わとくが王の臣磐しんばんを殺して王位を簒奪さんだつ、漢への朝貢を止めた。

 熹平きへい四(一七五)年、于闐うてん王の安国あんこくが隣国の拘弥こうや王を攻め殺した。

 その都度つど、漢の西域長史ちょうしは軍隊を派遣してその混乱を鎮めようと務めた。しかしながら、完全には鎮め切れず、漢朝の西域諸国に対する影響力低下は一層顕著になった。疏勒・于闐・拘弥というのは、いずれも西域諸国の名である。

 曹全はあざな景完けいかんという。敦煌郡效穀こうこくの人で、前漢の名臣・曹参そうさん末裔まつえいという。

 よって、同じく曹参の末裔をうたう曹操の沛国はいこく曹氏とは、遥か遠縁とおえんにあたる。

 武帝が河西四郡を新設した時に、中原から多くの移民があったが、その時に曹氏の一族からも移住者が出て、それが敦煌曹氏の始まりである。

 曹全は敦煌郡の孝廉こうれん(官吏推薦制度)に挙げられ、西域戊部せいいきぼぶ司馬しばとして、建寧三(一七〇)年の疏勒征伐に多大な貢献をした。

 熹平五(一七六)年、永昌えいしょう太守の曹鸞そうらんが党人を弁護し、禁錮処分の緩和を求めた事件では、曹鸞は罪人とされて護送され、槐里かいりの獄に繋がれた。当時、槐里令を務めていた曹全は鸞の釈放を訴えたがかなわず、曹鸞は獄死した。この曹鸞は沛国曹氏の長老で、曹操の一族である。そして、この時に曹鸞を殺す命令を下したのが王甫の子、当時の司隷校尉・王萌おうぼうであった。

 この事件で曹全は新たな党人としてリスト・アップされ、禁錮されて故郷の敦煌に帰った。だが、党人なので、濁流派の刺客に暗殺される可能性がある。

 張奐は臧旻・曹全両名の身の安全を考慮して、臧旻に西域情勢を熟知する清流の曹全を紹介し、共に西域に出ることを勧めたのだった。

 曹操は張奐のあばら家を去る前に言った。

「……実は、私は張将軍がお持ちの珍宝を頂きたいと思ってやってきたのですが、めておきます」

 張奐は曹操が自分が秘匿する仙珠のことを知っていて、わざわざこの敦煌まで足を運んだのだと分かった。だとすると、何故なぜそんなことを言い出すのか……。

「以前、張将軍と同じように大罪を背負って苦しんでいる党人を見ました。しかし、その者は苦しみは自分の手で取り除かねばえないことを理解し、ただ逃げ隠れるのを止めて、自ら罪をつぐなおうと闘い、いくらか罪の苦しみから解放されたようでした。贖罪を望むなら、張将軍も立つべきです」

 曹操は五年前のことを思い出して力強く言った。清流派の党人・張倹。自らを責め続け、たましいが抜けたように生きていた。その張倹は陳逸救出作戦に身を捧げて自ら活路を得た。

 張奐もまた自分のあやまちを責め続け、砂に埋もれながら艱難辛苦かんなんしんくの余生を送っていた。曹操にはその心の機微きびが推察できた。

「個人的な恨みもありますし、私は帰って王甫を除きます。それを見届けられたら、迷わずにお立ちください」

 また力強く言った。その言辞げんじは砂漠に朽ち果てかけていた老柳ろうりゅうに与える命の水。

「後に残った曹節を殺すには張将軍が持つ珍宝が必要となるでしょう。お見受けしたところ、張将軍の忠心はまだ干からびていない御様子。少しでも陳太傅ちんたいふへの罪滅ぼしをしたいお気持ちがあるのなら、いつまでもこんなところで埋もれていずに、ご上洛ください。張将軍が忠義と清流に生きた者として、あだすすぎ、死に花を咲かせられる舞台を私が整えておきます」

 張奐の心で何か弾けるものがあった。それと時を同じくして天から雪が落ち始めた。舞い散る雪の中、張奐が立ち去る曹操たちの姿を生き返った双眸そうぼうで追った。

 若く壮健そうけんとした体躯たいくはどれも堂々としており、新しい時代の到来を象徴しているかのように見えた。

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