其之一 智侯救助隊


 光和こうわ元(一七八)年、冬。曹操そうそうのいなくなった洛陽の宮殿――――。

 左道さどうろうしたという宋皇后そうこうごうが死んで妖異の元凶が取り除かれたと思っていた皇帝であったが、また悪夢に悩まされていた。先代の桓帝かんていが夢に出てきたのだ。

 桓帝は怒って、

「――――お前は小人の佞言ねいげんを信じ込んで、皇后をとがめ、宋氏一族の命を奪った。渤海王ぼっかいおう劉悝りゅうかいの件もそうだ。お前の間違いを天帝はお怒りである」

 そう告げたのだ。確かに頭が痛いことが続いている。許永きょえいという者がその悪夢を占って、宋皇后を廃したのが原因であると告げた。盧植ろしょくも上書して、党人も宋皇后も無辜むこであると訴えた。他にも宋氏の冤罪を訴え、その名誉回復を図る声が大勢あり、蔡邕さいようの救出運動も続けられた。

 やることなすこと全てに反対意見が寄せられて、暗愚な皇帝は嫌になってかたくなに無視を続けた。今度は天文を占った韓説かんえつが上殿して忠告した。皇帝は耳を疑った。

 韓説は今月の晦日みそかに日食が起こるという。

「なぜじゃ?」

「これは依然として妖異の原因が解決されず、陛下の威光が侵されていることの証でございます。『易伝えきでん』に曰く、かたち有って実無きは佞人、実有って貌無きは道人なり、と……」

 相手の上辺をうかがっておべっかを使い、真実を言わないのはよこしまな人間であり、相手の顔色を気にすることなく諫言かんげんをして真理を告げるのが正しき人である。

「佞人を信じて道人を遠ざけ、直言を聞かずに政道を誤れば、すなわち天は威光を失い、日が陰るのでございます」

 韓説は蔡邕の同僚であり、友人である。国家のために諫言したその蔡邕を罪人として遠ざけ、宋一族を誅殺ちゅうさつした皇帝の判断は間違いであるとほのめかした。

 宦官たちが侍っていないのを見計らい、韓説は日食の報告だけでなく、善悪の道理を語って何とか皇帝に理解を求めようと試みた。それは蔡邕の赦免しゃめんに繋がる。

「……ふむ。そなたが言うからには確かに食すのであろうな。百官に身じまいさせ、厳粛に迎えさせよう。……ご苦労であった、下がってよいぞ」

 ところが、この皇帝は少しでも難しそうな話になると、途端に耳を傾ける気力がなくなる。当然、聞いたところで頭に入らない。清流派の面々が弁証の質を高めるために、儒学の経典から言葉を引用して数々の上奏を行ったが、それは逆効果だった。

 皇帝自身にそれを理解できる知識がないのである。上辺を誤解して、本質を理解する能力がないのだ。その愚鈍ぐどんさをうまく利用しているのが宦官たちであった。

 皇帝個人の能力、性格、気質を完全に把握していた彼らは、興味をそそる言葉と甘い文句で皇帝を思うがままに操った。

「――――陛下がわざわざ難解なことを理解する必要はございません。それは私たち臣下が行います。皇帝陛下は天に鎮座する太陽のごとく、ただおわすだけでよろしいのです」

 宦官が教え込んだ帝王学の一つ。この上なく簡単であるので、皇帝はそれをすぐに理解し、実践した。

「……」

 韓説は下殿しながら、力なく首を振った。


 韓説が予言した通り、晦日になって日食があった。皆既かいき日食ではないが、光輝く太陽の前を月がさえぎって、円い形を黒く削った。

「陰が陽を侵すは、邪臣、帝光を毀損きそんせしあかしなり」

 劉備りゅうびは天を仰ぎながら、一人呟つぶやいた。蔡智侯さいちこうが日食について言っていた言葉である。

 都で居候いそうろうしていたその間、蔡邕をはじめとする数々の賢人に会う機会があった。

 愛弟子まなでしのための盧植の計らいである。盧植は許劭きょしょうが劉備を評価した文句を伝え聞いて、やはり、この弟子の中には何か光るものがあるのだと確信した。

 劉備が将来何をすのか分からないが、少なくとも正しい方向へ向かうことは分かった。いずれ清流の大きな力になるだろう。それを援助するため、盧植は今の内にできるだけ劉備の顔を売っておきたいと思った。

 盧植がかわいがる理由を蔡邕も察して、盧植にアドバイスした。

「――――狭い都に留まらせるよりは、広く天下を駆けさせた方がよいな。四海を巡る河江がこうの如く、高きを見、低きを知れば、のちのち大成するであろう。我等われらの知らぬ野に埋もれし天下の義士と出会うよい機会ともなる……」

 その蔡邕を救うべく、劉備は今、河東かとうの地にあった。

 河東郡はその名の通り、黄土高原を南流してきた河水がすい(黄河)の東側の地域である。郡治は安邑あんゆう県に置かれ、そこはかつて伝説の聖王・が都としたところである。

 まず、宋果そうかという幷州へいしゅう刺史ししに協力を仰ぐというのが当初のプランだった。それがいきなり出鼻をくじかれた格好となってしまった。

 劉備は幷州刺史の在地である太原たいげん晋陽しんようへ向かう道中、安邑県でその宋果が罷免ひめんされたという話を聞いたのだ。時の宋皇后が左道を行って、一族である宋果も連座したのだという。劉備は曹操が連座したことまでは知らない。

 再度方策を尋ねるためにまた都へ戻るのは時間がかかる。朔方さくほう郡はまだ遥か先だ。劉備は安邑の街を歩きながら、このまま朔方へ急ぐかどうか、何か良い方策はないか、それを考えていた。

『自分で考えろってことか……』

 河水(黄河)の流れを見た時、黄土高原に沿って北流した河水は狼山ろうざんの岩盤に行く手を遮られ、ほぼ直角に東へ向きを変える。その辺りが幷州の北の果て、朔方郡である。

 漢代の黄土高原は森林と草原に覆われており、そのお陰で河水の水も現代より濁りは少なかった。東流した河水は今度は陰山いんざん山塊さんかいはばまれて南流する。そして、深い峡谷を形成して華山かざんの壁にぶち当たり、三度みたび直角に折れ曲がって、また東へ流れるのだ。

 河東郡から見れば、朔方郡は黄土高原のちょうど対角に位置し、高原を縦断することになる。劉備は朔方郡へ着く前に、何人か義侠ぎきょうの者を雇いたいと思っていた。

 もし、暗殺者と戦うようなことになったら、自分一人では心もとない。あの人狼じんろうのような化け物が現れたら、到底一人ではかなわない。

沈惇ちんとんさんを付けるって言ってたけど……』

 劉備は曹操の右腕の夏侯惇かこうとんを思い出した。隻眼せきがんの勇者である。

 二年前、蔡邕邸を百鬼ひゃっきが夜襲した時のこと。地下牢で遭遇した人狼に追われた時のこと。劉備は夏侯惇と朱震しゅしんを曹操の故郷であるしょう県まで連れて行った。そして、名医の華佗かだ先生に二人を預け、夏侯惇とはそこで別れた。

 曹操は傷の療養を終えたその夏侯惇を蔡邕の護衛に付けると言った。

 夏侯惇の武勇は非常に心強い。だが、それとは別に何人かボディー・ガードを確保しておきたい。劉備はかい県に入った。そこに用心棒稼業かぎょうをしている組織があると聞いたのだ。


 河東郡解県は製塩業が盛んなことで知られていた。解池かいちという塩池えんちがあり、よい塩が採れたのだ。塩は人間の生活上欠かせないものであり、それを商売にした製塩業者は大いにもうかった。それに目を付けたのが国家である。

 前漢の武帝の時代、財政再建は急務の課題であり、塩と鉄の販売を国の専売制にすることで、それを解決しようとしたのである。以来、塩の生産地には国から塩官えんかんという役人が送り込まれるようになり、採掘から製造、販売までを監督した。

 今まで自由に商売していた製塩業者は製造販売に国から免許をもらわなければならなくなり、その監視下に置かれて、販売価格も制限された。

 この措置で、もちろん国庫は大いにうるおったが、いつしか権力を濫用して役人が利益をふところに入れることが通例のように行われ、製塩に対する増税策も採られて、製塩業者の利益は次第しだいに減っていった。その不満が塩の密造密売を促す。密売は儲かるのである。解池にも密売業者が存在した。当然ながら、密売は犯罪行為である。それを取り締まるために政府は監視を強め、時には武力で密売業者を壊滅させることもさなかった。密売業者の中にはそんな政府の圧力に対抗するため、用心棒や傭兵ようへいを雇って武装するところもあった。マフィアのようなものだ。

 劉備が顔を出したのは、そんな裏稼業を行う組織だった。

「何か用か?」

 ドスの利いた声が劉備に投げかけられた。岩の断崖だんがいにぽっかりと開いた洞窟どうくつの入り口である。岩塩の採掘集団であると聞いたが、確かにそれだけではない雰囲気を感じる。

「あの……、〝左侠さきょう〟の方々はいらっしゃいますか?」

 その単語を口に出すと、見張りの男が劉備を手招きして呼び寄せ、剣を出せと言った。言われた通りにして、入念なボディー・チェックを受け、

「……真っ直ぐ進みな」

 洞窟の中へ入るよう言われた。人が二、三人通れるくらいの幅を持つトンネルは岩壁が崩れないように板をあてがい、それを坑木こうぼくで補強して、人工的な雰囲気をかもし出していた。壁には篝火かがりびかれ、坑道を照らしている。坑道はずっと奥まで伸びていた。ところどころで道は左右に分かれていたが、劉備はとにかく言われた通り、真っ直ぐ進んだ。途中で岩で満杯になった麻袋あさぶくろを背負って運ぶ人夫にんぷ何人かとすれ違った。やがて、坑道は戸に突き当たった。戸の前にまた男が立っていた。

「左侠の方にお願いがあってきました」

 劉備がまたその単語を言うと、じろりと劉備に視線を送った男が無言で戸を開けて、あごで「行け」と合図した。劉備が恐る恐る部屋の中へ入る。中は自然の大空洞になっていて、扉で仕切られ、そこ全体が一つの部屋になっていた。

 天井は山が陥没かんぼつして崩れたらしく、そこから外光が差し込んでいた。その光の下で、十数人の男たちが何やら協議を行っていた。

「仕事のようですぜ」

 劉備を部屋に入れた男がそこの首領らしき男に告げた。

「用件は?」

 体中に危険な雰囲気を漂わせたその男が、鋭い目つきだけを劉備に向けて聞いた。

「ある人を刺客しかくの手から守って頂きたいのです」

「金はあるのか?」

「はい」

 男はあれこれ聞かず、左手を出した。

 右手には武器を、左手には金を――――差し出された左手に黙って対価をせれば、誰であろうと義侠の剣を得られる。それが安邑で聞いた〝左侠〟という任侠にんきょう集団との交渉方法である。

 劉備はその手に金の入った布袋ぬのぶくろを載せた。男は袋の中身を数えると、不満そうに言った。

「……たった五百銭か」

 言いながらも、断るでもなく、男は指をトントンと卓上に打ち付けた。そして、

「まぁ、いい。諸々もろもろの費用はそっち持ちってことで手を貸してやろう。おい、長生ちょうせい!」

 その男に呼ばれて出てきたのは体が大きく、顔がれた石榴ざくろのように紅潮こうちょうした男だった。

「何でしょう?」

禦侮ぎょぶの仕事だ。お前は役人を打ち殺したばかりだ。ついでにしばらく身を隠してこい」

「分かりました」

「こいつを連れていきな」

 男はそれだけ言うと、また協議を始めた。禦侮とは、いわゆるボディー・ガードをいう。

「たった一人ですか?」

「たった五百銭でガタガタ言うんじゃねぇ。一年貸してやる。ガキ同士、うまくやれ」

 交渉はそれで終わりだった。


 雇った男は身のたけが八尺(約百九十センチ)近くあり、筋肉質な体格と落ち着いた物腰は、とても十七のものとは思えない。だが、確実に自分よりは強そうだ。

 長生と名乗ったその若者は剣一本をぶら下げて、依頼人の劉備に黙々と従った。

『ケチらなければよかったかな?』

 劉備は少し後悔した。王匡おうきょうと曹操からは十分な軍資金を渡されていた。だが、日々の費用と蔡邕の逃亡資金を確保しておくためには浪費は避けねばならなかった。

 王匡はあざな公節こうせつといい、泰山たいざん郡の人である。義侠心に富んだ親分肌の男で、蔡邕とも交友があった。また、彼は財貨を軽んじてほどこしを好むという人物で、蔡邕の流刑を知ると、流刑中の生活資金と救出後の逃亡資金まで援助してくれた。

 傭兵を雇うことにしたのは劉備の独断だ。何が出てくるか分からない濁流派の刺客。劉備の勘と経験が、また非常の展開を予想した。幷州刺史の頼みが失われ、それに代わる曹操の援助が期待できるかどうかは分からない。それなら、こちらも独自に非常手段を講じて応じる必要があると思ったのだ。

「その若さで侠気おとこぎを売っているとは、武勇も度胸もあるのだろうな。腕は立つのか?」

 河水(黄河)を渡る小舟に揺られながら、劉備が問うた。

「官兵百人分、と言っておきましょう」

 長生は自慢の腕力で舟をぎながら、ました顔で豪語した。

 それが真実で、あの沈惇や孫堅そんけんに匹敵するというなら、一人でも心強い。

「あなたも度胸がありますね。我等のような裏稼業の集団に一人で交渉に来られるとは」

「民衆の声は常に真実を映し出す。河東の民は左侠は義に厚い集団だと言っていた。別に怖いとは思わなかった」

 長生は知らないが、すでにいくつかの修羅場を経験していた劉備は普通の人間を怖いとは思わない。もともと度胸があるから、命の危険を承知で蔡邕護衛の任に立候補したのだ。

「君は役人を殺したと言っていたな」

「はい。貧しい老婆ろうばの土地を非合法に奪おうとしていた汚職官吏です。老婆に頼まれて追い返そうとしたのですが、やり過ぎました」

「左侠はどんな依頼でも受けるのか?」

「普段は地元の案件のみです。役人を殺してしまった私は身を隠さなければなりませんから、たびは特別です」

 河水を渡れば、河東郡を越え、左馮翊さふうよくに入る。

「……そう言えば、どこへ向かうとか何をするとか、何も聞かないな」

「それが左侠のおきてです。あなたも不都合ふつごうなことは何もおっしゃる必要はありません」

 何も知らなければ、たとえ捕まっても、情報が漏れるリスクが少ない。知らない方がいいこともある。劉備は長生の言葉と態度に嘘いつわりは感じなかった。

 劉備は一つ真実を明かした。

「そうか。だが、行先は教えておこう。朔方へ向かう」

 誰を守るかはまだ明かせないが、どこに向かうかは言っても支障はない。

「遠いですね」

「そうだな。道中長いが、同じ舟に乗った者同士、お互いに裏切りはなしだ」

「それは誓って」

 長生が力強く言った。狭い峡谷を勢いよく流れ抜ける河水の流れは速かったが、長生が漕ぐ小舟はほとんど流されていなかった。


 その頃、曹操は弘農こうのうにいた。弘農郡は洛陽と長安の中間に位置する交通の要衝である。戦略的要衝でもあって、北は河水の峡谷、三門峡さんもんきょうが渡河を阻み、東の洛陽方面への街道は函谷関かんこくかんで、西の長安方面は潼関どうかんという関門で閉ざされる。

 これらの関所が東西を分断するようにあるので、ここを境にして洛陽方面を〝関東〟、長安方面を〝関西〟という。

 曹操がいる弘農郡、劉備が移動している河東郡、左馮翊はいずれも司隷しれいに属し、司隷は司州ともいう。全国十三州の中心であり、東西二つの都、洛陽・長安もまた司隷に属す。そのため、〝中原ちゅうげん〟とはこの司隷一帯を指す。また、他州の長官が刺史というのに対し、首都圏である司隷の長官を特に〝司隷校尉しれいこうい〟といった。

 司隷校尉は警視総監に当たる重職で、首都圏の非法摘発をつかさどる。

 都・洛陽も管轄かんかつに含まれるので、曹操は司隷校尉に豪胆かつ厳粛な者がいたところで、王甫おうほ一族を一網打尽いちもうだじんにしようという考えがあった。曹操はその司隷校尉に陽球ようきゅうを就けようと画策していた。

 まだ洛陽に滞在していた時、

「――――もし、この陽球が司隷とならば、王甫・曹節そうせつゆるすことは断じてないぞ」

 陽球がある者にそう豪語したということを伝え聞いた曹操はひらめいた。

「――――ここはその野望を実現させてやろうではありませんか。陽方正ようほうせいは蔡智侯を弾劾だんがいした張本人ではありますが、性が短略なだけで、濁流に通じているというわけではない。むしろ、王甫や曹節とは正対する立場にいる。そこで、我々で彼が司隷校尉に就けるよう、後押ししてやるのです。清廉ではないが、それも都合がいい。蔡智侯をおとしめたけじめをつけてもらいましょう」

 曹操は盧植や馬日磾ばじつていを前にして流れるように言った。

 清流派たちがバックアップして、陽球を司隷校尉に就ける。その間に曹操が王甫一族の数々の非道無法の証拠を用意する。短絡的で厳罰適用が売りの陽球は長々と審理することなく、王一族を殺す。陽球はヒーローになるだろうが、同時に王甫周辺の禍根かこんも引き受けてもらう――――そういうシナリオだ。

「――――私はしばらく都を離れます。皆様方は一年を目途めどに陽方正を司隷校尉に就けてください」

 そう言い残して、曹操は洛陽を離れたのである。

 その時の司隷校尉は皇帝の夢占いをした許永であったが、近々、司隷校尉を辞

するという。許永はあざな永先えいせん。清流派に連なる人物で、この辞任は恐らく清流派と示し合わせたものだろう。今頃、その後任に陽球を就けるべく清流派の連中が発言力の強い中道の袁氏を取り込む工作を行っているはずだ。

 三公の司空に袁逢えんほうが就いたばかりだった。支丹したんこと袁紹えんしょうの実父である。

 現在、袁紹は母が亡くなったために喪に服しているが、その母の出自は袁家に仕える女中だった。つまり、袁紹は袁逢の庶子しょしということになる。

 彼の別名「支丹」は曹操から付けられたものであるが、それが支流、嫡子ちゃくしではない現実を連想させるので、袁紹はその名を嫌がった。袁逢の兄・袁成えんせいには男子がおらず、紹は幼い頃に成の養子に出されることになった。

 袁成はあざな文開ぶんかい、中道の中道をいく人物で、〝事かなわざれば、文開に問え〟と言われたほど清流とも濁流とも密接に繋がっていた。現在の袁氏本家はこの袁成の血筋である。

 その袁成は若くして栄進したが、紹が養子となって間もなく他界していた。

 養子と言えば、曹操の故郷の沛国はいこくしょう(国相は郡太守に相当)に、王甫の養子の王吉おうきつが就いていた。曹操が洛陽北部尉時代に東部尉として同僚だった、あの王吉である。

 父の権勢と百鬼捕縛の功績が彼を若くして国相という立場に押し上げたのだ。

 曹操は免官されたが、故郷には戻らなかった。宋氏が誅滅され、自分もそれに連座したが、曹操は王甫の陰謀には屈しなかった。故郷に引きこもって消極的になるより、甫に復讐ふくしゅうするために積極的に打って出る。守るより攻める。それが曹操の性分しょうぶんだ。

 ことに、王吉が待ち構える郷里にのこのこ帰っていたら、自ら罠にはまりにいくようなものである。曹操はそんな愚を犯さない。

 曹操が弘農にある理由は、張奐ちょうかんという人物の屋敷をおとなうつもりだったからだ。

 張奐は敦煌とんこう淵泉えいせんの人だが、この弘農に屋敷を構えていた。辺境の人間が中央に近い場所に本籍をうつすことは禁じられていたが、張奐は数々の武勲を挙げ、特別にそれが許されていたのだ。

 が、聞けば、張奐は数年前に免官となって故郷の敦煌に戻ったらしかった。

「……わざわざこの地に遷ることができたというのに。年を重ね、きっと生まれ故郷の景色が恋しくなったのでしょう」

 張奐の次男である張昶ちょうちょうが曹操に応じていた。張昶はあざな文舒ぶんじょといった。

『……いや、違うな』

 曹操が心中に思う。我が子にも言えぬ秘密を抱えて独り砂漠に朽ち果てるつもりなのだ。

 敦煌郡は涼州の西の端、西域せいいき諸国と隣接する砂漠の都である。実質的な漢王朝の最西端、西域への入り口でもある。

「やはり不在でしたか」

 曹操のかたわらに立つ精悍せいかんな顔つきの青年がつぶやいた。

 夏侯淵かこうえんあざな妙才みょうさい。夏侯惇の従弟いとこである。夏侯惇と同じく、武芸に優れており、特に騎馬と弓の腕前は一族でもナンバーワンであった。

「オレは端から敦煌まで行くつもりだった。こういう時でなければ、あんな最果てまで行くことはないだろうからな」

 盧植から予言の文句を聞かされていた。もちろんそれは自分に動いてほしいという期待からだろう。

「西域の珍宝ちんぽうを手に入れるいい機会だ」

「珍宝ですか……」

 夏侯淵は全く興味なさそうに呟いた。

「何と書いてあるか全く読めない。まるで蛇がった後のようにしか見えませんが、これも珍宝なんですかね?」 

 夏侯淵は屋敷の壁のあちこちに垂れ下がっている草書の作品群を見ては、眉をしかめた。

 その作品は長男の張芝ちょうしのものだ。その張芝は屋敷の庭で何かに取りつかれたかのように書にいそしんでいる。見れば、池の水が墨で黒く染まっていた。

 張芝はあざな伯英はくえいといい、〝文は儒宗じゅそう、武は将の模範〟と、文武両道ぶりを称された。現在の張芝の暮らしぶりは書家の模範というべきだろう。父の功績で党人となったのを機に、書の道に全精力を傾けている。

清水せいすいが意志を持って流れたような筆筋。迷いがない。間違いなく珍宝だ。書のきわみに達しているな。蔡智侯が見たら、大層喜ぶに違いない」

 曹操は張奐邸の庭にあって、二張の作品を楽しそうに鑑賞していた。

「兄は崔杜さいとの法を学び極め、草書するにもいとまなしです。兄の作品に比べたら、私のは見るにたええませんよ」

 崔杜の法とは、名書家だった崔瑗さいえん崔寔さいしょく親子と杜度とどの書法のことである。速記のために字体を最も崩した形が草書体である。

 張芝は特に達筆で、その草書体で書いている暇もないと評された。後に張芝の弟子の韋誕いたんは彼を〝草聖そうせい〟と称し、弟の張昶はそれに次ぐという意味で〝亜聖あせい〟と称され、いずれも後世にその栄名を残すこととなる。

 後に魏に仕えることになる韋誕、あざな仲将ちゅうしょうもまた名書家で、なおかつ墨作りの名人でもあって、〝仲将の墨士ぼくし〟と称された。

「いや、あなたのも実に見事だ。……どうです、蔡智侯にてて一つ書を書いてみませんか? あなた方の作品を土産みやげに持ち帰って、智侯を楽しませてやりたいのですが」

「それは光栄なことでございます」

 張昶は快諾かいだくした。草書の兄弟は素早く筆を走らせると、全く曹操を待たせることはなかった。


華陰かいんぼう有り〟。

「蔡智侯に贈るに〝華陰有望〟とは、なかなか洒落しゃれてるな」

 曹操は草聖・張芝が書したその四字の意味を察して、馬上で御満悦ごまんえつだった。

 華陰はここの地名でもあるが、別の意味として華山かざん陰山いんざんを指している。陰山は蔡邕が流刑に処された朔方さくほう郡の北にそびえる山々だ。つまり、〝華陰〟は二つの名峰のふもとにそれぞれ住まう名書家、張芝と蔡邕を隠喩いんゆしている。〝有望〟の二文字でそれぞれの眺望ちょうぼうの素晴らしさに言及すると共に蔡邕赦免しゃめんの望みがあることを伝えるメッセージだ。

 華陰の地名は華山から来ている。華山の名は、その山並みを遠望した時に花の形に見えることから、名付けられたという。

 その華山の稜線りょうせんを望みながら、曹操が話題を変えて夏侯淵に聞いた。

「ところで、父はうまくやってくれているか?」

「はい。曹節に賄賂わいろを贈る一方、王吉には低頭に接しておいでです」

「フフ、得意の巨高低頭か。あれでも立ち回りはうまいからな」

 曹操は父のおべっか口調くちょうを想像すると、笑いがれた。

 曹操の父・曹嵩そうすうあざな巨高きょこうといった。

「あべこべの世の中では、父のような生き方こそ正解なのだろうがな」

 昔から曹操が何か問題を起こす度に父が裏で動いてくれた。同時に曹家の金も動いた。それは能力主義をたっとぶ曹操が最も嫌う手段であったので、父は息子に内密で動いていた。勘のいい曹操はそれに気付いていたが、わざと知らないふりをした。親子であっても、やり方、生き方は違うのである。

 曹操の祖父・曹騰の蓄財は曹嵩によって、大いに生かされていた。

 曹嵩はもともと夏侯氏の出であった。曹騰が宦官で子供を作れなかったので、夏侯氏から嵩を養子として迎えたのである。それゆえ、曹氏と夏侯氏は血縁関係にあり、結びつきが深い。ほかでもない曹操自身の中にも夏侯氏の血が流れているのである。

 曹嵩は息子が王甫と対立姿勢を強めるにあたって、曹節に接近した。出自は違えど、同じ曹氏であるので、そんなことを口実にすれば近付きやすいのである。

 賄賂の効果はあった。宋氏が誅殺されるにあたり、宋奇そうきに嫁いでいた曹氏の命も危ぶまれた。しかし、ここで曹節が、

「――――子がないのだし、無碍むげに殺すことはありますまい。陛下の夢に現れた先帝も、人を殺すのをひかえるようおっしゃりたかったのでしょう。王甫の言うことを信じませんように」

 と、調子のいいことを言って、口をいてくれたのだ。

 とはいえ、王吉という王甫の目が光る故郷に帰すわけにはいかない。曹操は夏侯淵に命じ、悲しみの従姉妹いとこを密かに隠したのだった。

元譲げんじょうはいつった?」

「私と同時にしょうを出ましたので、今頃一行に追いついている頃だと思います」

「そうか。新しい刺史がこの弘農の出らしい。悪い人物ではないようだ」

 曹操は弘農でそんな話も耳にしていた。宋果の更迭後、新たな幷州刺史に鄧盛とうせいという人物が任命された。鄧盛はあざな伯能はくのうといった。

「智侯のことは元譲と玄徳に任せるとして……」

 曹操の視線は目前に迫った峻険しゅんけんな岩山をあおいでいた。五岳の一つ、西岳・華山。

「支丹の親父殿は昔、弘農太守となって華山びょうを建て直したそうだ。碑文は蔡智侯が作ったと聞く。せっかくこの地に寄ったからには、敦煌まで駆ける前におがんでおこう」

 それがいずれ重要な要素になることを曹操は感じていた。

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