第四十六話

 朝から晴れ渡る青空の下、ある住宅街の道路を僕は歩いている。

 今日は『ティア』が開催される日だ。僕が向かっているのは、先生が仕事場として使用している場所で、そこを待ち合わせとして指定されていた。

 この辺りはいわゆる高級住宅街で、僕も足を踏み入れるのは初めてだ。庭付きの一軒家とか、高層ではないけどマンションがいくつも立ち並び、清潔で閑静な雰囲気がある。僕が住んでいる古くて埃っぽい団地とは、何もかもが違いすぎた。

 やがて待ち合わせの場所が見えてきた。そこには、やはり高級そうなマンションが建っている。

 こんな場所を仕事場としているんだから、先生もそれなりに金持ちなんだ……感心していたら、ちょうど入口から先生が出てきて、こちらに気づくと軽く手を上げる。

「せっかくの日曜日なのに、こうして君に手伝ってもらえて、ホント助かるよ」

「いえ、こういう機会でもなければ、僕も同人誌即売会に行ってみようとは思わなかったですから」

 僕は先生の足元にあった大型のボストンバッグを肩にかけた。中にはポスタースタンドなどが入っているそうだ。先生自身は同人誌の入ったキャリーケースを引いて、会場へ向かって出発する。


 最寄り駅から電車に乗り、何度か乗り換えをして、会場付近の駅で降りた。そこからティアが開催される建物まで歩き始めたわけだが、まだ開場まで時間があるというのに、すでに参加者による長蛇の列ができている。

 これだけの人数が参加するのか……目を見張っていた僕に、先生はしみじみとした声で話しかける。

「今は通販やオンラインで同人誌を買うこともできるけど、こんなに大勢の人達が、直接買うためにわざわざ全国から来てくれるんだから、ありがたいことだと思うよ」

 このように読者と直接交流できる貴重な機会が、コミケやティアといった同人誌即売会なわけで、それを目的として参加している面もあるのだとも、先生は打ち明けてくれた。

 場内に入って、サークル参加の受付を済ませた後、指定されたスペースに移動した。同人誌即売会は、扱うジャンルの種類によってサークルがまとめられており、先生が販売する同人誌は小説なので、付近は同じく小説を扱うサークルばかりだ。その中に『遊井名田本舗』のスペースとして、会議机の半分が割り当てられていた。他にパイプ椅子が二脚用意されてある。

 早速、先生の指示に従って設営を開始した。まずはスペースの後ろ側に組み立て式のポスタースタンドを立てる。

 掲示するポスターには、同人誌の表紙と同じイラストが使用されていた。正面には、中世風のドレスを着た女性が大きく描かれていて、これが主役の『悪役令嬢』だ。その背後に、髭面で精悍な表情をした男性キャラの顔がある。こちらは、悪役令嬢に『壁ドン』して結婚を迫ってきた、『軍事的大国の王』だ。歴史シミュレーションゲームのパッケージのような雰囲気があって、素人の僕から見ても格好良く見える。

 ちなみに、このイラストを描いたのは、先生の古い友人でもあるイラストレーターだそうだが、すでに他の仕事を手掛けてて忙しいという理由で、今回のティアには参加していないと言う。そう聞くと、その人はかなり人気のある人らしい。

 会議机に布を敷いてから、先生が同人誌を並べた。そばに、値段等を記したアクリルのカードスタンドを立てる。これで設営は完了した。

 やがて十一時になり、一般参加者の入場が開始された。先生と僕はパイプ椅子に腰掛けて、参加者が訪れるのを待つ。


 人の流れを見ていると、漫画を扱った同人誌のコーナーに、数多くの人達が集まっていく。逆に、僕達がいる小説ジャンルのコーナーは、人影もまばらだ。

 しばらくすると、先生のサークルにも一般参加者が訪れてきた。見本用の同人誌を立ち読みして、そのまま買い求める人もいれば、礼だけ言って立ち去る人もいる。割合から言えば、後者の方が多い。

 先生は人気のある作家だから、ひっきりなしに人が訪れて、飛ぶように同人誌が売れるものだと思い込んでいたから、この状況には拍子抜けした。けれど、先生本人は悠然とした態度を崩さない。

「初めて同人誌即売会に参加した時、最後になるまで誰も見に来てくれなかったことを思えば、立ち読みしてくれるだけでもありがたいよ」

 その時の先生は高校生で、小説というジャンルは人気がないことを覚悟した上で、五冊だけ同人誌を作って参加したそうだが、それでも閉会間際まで誰も訪れてくれなかったそうだ。

 過酷な現実に打ちのめされていた先生だが、閉会十五分前に初めて訪れた参加者が、立ち読みするなり二冊も買ってくれたらしい。それが嬉しかったというか衝撃的で、今でも記憶に強く残っていると言う。

「刺さる人には刺さる……それが同人誌なのよ。そういうものだって、今でも思ってる」

 いつか現れるだろう、そういう人のために先生は同人誌を作っているのだと、そう僕は考えた。


 午後に入っても、場内の参加者の数は更に増えていった。開場時間前後の混雑を避けて、この時間から訪れる人もいるという。

「先生、同人誌買いに来ました!」

「王子様もお疲れ~。これ、オレ達からの差し入れ」

 フェアリーパラダイスの常連でもある、よっしーさんとオカチャンさんがここでもコンビを組んで来訪した。二人は僕と先生のために、ペットボトル入りのミネラルウォーターと、飲むタイプの栄養ゼリーを差し入れてくれた。今日は気温も高いし、生の食べ物は腐る恐れもあるのだから、こういった物の方が安全だろう。僕達は、ありがたくいただくことにする。

「お二人は、目当ての同人誌は買えたのですか?」

 僕が話を振ると、彼らは朝早くから行列に並び、そういった同人誌を入手するまでの経緯や、事前のチェックから漏れていた、いわゆる掘り出し物を見つけた時の感激などを、嬉々として語ってくれた。二人はそれぞれリュックを背負い、キャリーケースまで引いている。その中には、彼らが『戦果』と呼ぶ、同人誌の数々が詰まっているのだろう。オタクの執念、かくの如しである。

「それじゃ先生、感想は店でお話しますね」

「うん、二人とも来てくれてありがとう」

「王子様もがんばってね~!」

「お気遣い、ありがとうございました」

 常連達が去った後、先生はしみじみとした笑顔を浮かべる。

「思えばあの二人との付き合いも、ここまで長く続いているんだよね」

「先生が店の常連になった頃から、お二方も通っていたのですか?」

「そうだね。私が同人やってると聞いて、後で即売会にまで来てくれたし、サークルにとっても常連だよ」

 その口調には、二人への感謝がにじみ出ていた。


 十四時を過ぎた頃、先生が他のサークルを見に行きたいと言い出した。

 ティアには、先生の知り合いもサークル参加しており、中には遠くの地方から来ている人もいるそうだ。そういった人達と、直接会える機会でもあるのだし、あいさつにも行きたいのだと言う。

 先生は僕に留守番を任せると、スペースから出ていく。その後は訪れる参加者も途絶え、手持ち無沙汰になった。

 他にすることもなく、僕が同人誌を並べ直していると、一人の女性参加者が現れる。

「なんであんたがここにいるわけ? てか、先生はどこ?」

 嫌でも聞き覚えの有り過ぎる声に顔を上げると、社交的女子が不満もあらわにこちらを見下ろしていた。

 当然だけど、ここは学校ではないのだから、僕だけでなく彼女も私服姿だ。地味なブラウスとパンツルックだが、そういった姿を見るのは初めてだったので、変な新鮮さを覚えてしまう。

「僕はともみさんの代わりにお手伝いをしてる。先生は他のサークルにあいさつするために席を外してて、いつ戻るかはわからないな」

「もう! この時間なら、先生とゆっくり話ができると思ってたのに」

 社交的女子は地団駄を踏んでいた。

「同人誌を買いに来たんだろう? 『お前にだけは売るな』と言われてないし、店で会った時に感想を言えばいいじゃないか」

「先生から直接手渡しで買わないと意味がないのよ。それでこそ、ここまで来た甲斐があるんだから」

「お前は先生と、先生の書いた同人誌と、どっちが大事なんだ?」

「両方よ。どちらも大事に決まってるじゃない」

 面倒臭いことを言う奴だ。こいつもオタクだから、同人誌即売会にこだわりがあるのはわからないでもない。だが普段の行いの差だろうか、常連の二人が同人誌を購入するのに手間暇かけた話は微笑ましく聞いていられるのに、この女の話からはムカつく気分だけがこみ上げてくる。

 すると、何冊かの同人誌を抱えた先生が、スペース前に戻ってきた。社交的女子が来ているのを見て、気さくに声をかける。

「やあ、あなたも来てくれたんだね。待っていたんだよ」

「先生! お会いできて感激です~」

 それまでの不満は一気に消え失せ、社交的女子の表情はすっかり舞い上がっていた。フェアリーパラダイスにおいては何度も目撃していたものの、この切り替わりの素早さはまさに劇的であると同時に、呆れてものが言えない。

 念願かなって、先生から手渡しで同人誌を購入した社交的女子は、何度も慇懃に礼を述べていた。もはや僕のことなど眼中にもないまま、後日に店で感想を伝えると先生に約束して、やっと彼女は立ち去った。

 あんな女でも、先生にとってはファンの一人なんだから、大事に思うのは当然だろう。だけど僕としては、学校や店だけでなく、こんな場所においてまで嫌な部分を見せつけられてしまい、もう辟易するしかない。


 十五時になり、閉場まで一時間を切った。場内の参加者が減りだした頃になって、ようやく倉石君が姿を現す。

「遅くなってごめん。別の用事ができちゃって」

「いいんだ。来てくれて嬉しいよ」

 恐縮している倉石君を、僕は先生に紹介した。彼はフェアリーパラダイスで先生を見かけたことはあったが、会話をしたことはなかったのだ。

 倉石君が同人誌を購入した後、先生が気を使ったのか、こんな事を言ってくれる。

「君も彼と一緒に、会場を見てきたら? なにか気に入りそうな本が見つかるかもよ」

 せっかくだからと言葉に甘えて、僕は倉石君とともに場内を巡ってみることにした。

 この時間となると、人気のあるサークルでは同人誌が売り切れになっていたりした。それでも、まだ完売していない同人誌の数々を、僕達は眺めて回る。

 途中で倉石君があるサークルの前で立ち止まり、同人誌を立ち読みをした。あらかた読んだ彼は、それを買い求める。

 以前に彼は、『オリジナルには興味がない』と言っていたはずだったが、何が気に入ったんだろう……そんな疑問を察したのか、倉石君がはにかみつつ答えてくれる。

「前のコミケで買った◇◇の二次創作を描いてた人が、オリジナルを出してたんだ。絵が好みだったから、つい欲しくなって」

 こういった形で、その作者に新たなファンができていくのだなと思い、また一つ僕は同人誌即売会の効用を知った。

 会場内には漫画だけでなく、イラストや写真集などの同人誌、グッズや雑貨などの本ではない物まで販売されていた。同人と言っても色々扱う物が多岐に渡ることを知って、僕は軽く圧倒されてしまう。さらに倉石君が解説する。

「ティアではオリジナルしかないけど、コミケだと二次創作も加わるから、もっと種類は増えるよ」

「他にコスプレもあるよね。それだけあったら、一日じゃ回りきれそうもないな」

「コミケなら、ともみさんもコスプレで参加するだろうし、一緒に見に行かないか?」

「それはいいけど、君は男の娘には興味ないんじゃなかったのかい?」

「いやその、ともみさんは先輩だし……」

 なんだかんだ言って、倉石君もともみさんのことは気に入っているようだ。

 結局、同人誌を買ったのは倉石君だけで、僕は何も買わなかった。それでも雰囲気だけは、なんとか味わえたと思う。


 出入り口で倉石君と別れてから、元のスペースに戻ると、すでに先生が撤収の準備を始めていた。時計を確認すると、閉場五分前だ。一緒に後片付けをしていると、閉会の挨拶がアナウンスされる。

「ご苦労だったね。完売とはいかなかったけど、それなりに部数がはけて良かったよ」

「それは何よりです。先生もお疲れさまでした」

 満足げな先生の笑顔に、心からねぎらいの言葉を返す。

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