第四十一話

「私があなたを尾行してまで話がしたかったのは、同じTSとして興味を惹かれたから」

 自分もTSだと打ち明けた相手……広夢さんは、じっと僕の目を見つめている。

「実は私も、片手で数えられる程しかないけど、他のTSと出会ったことはある。だけど、そういった人達と比べても、あなたの存在は際立っているわ」

「……僕が、ですか?」

「ていうか、同じ年頃だった私と、今のあなたがあまりにも違いすぎるから……というのが、正直な気持ちよ」

 残っていたコーヒーを広夢さんは口にした。僕もようやく、冷めかけていたコーヒーを飲む。

「私が朝おんしたのは、十五年前……中学卒業直前の頃だったわ」

 自分の過去について、広夢さんが静かに語りだした。僕は黙ったまま、耳を傾ける。


 高校への進学も決まり、卒業を間近に控えていた広夢さんは、TSとなった自分に絶望した。以後は生きる気力を失い、卒業式にも出ないまま、引きこもりとなった。結局、高校には一度も登校することなく、退学する羽目になったと言う。

 それから五年間も引きこもり続けた後、二十歳になった広夢さんは、やっと家の外に出て働くようになった。とはいえ、それは自ら決意して行おうとしたことではないらしい。

「その頃、両親が相次いで病気になったりして、家の中が苦しくなったから、少しでも働けって懇願されたわけ」

 中卒だった上、引きこもっていたから世間のことを何も知らずにいた広夢さんには、まともな仕事に就くための条件が欠けていた。仕方なく、簡単なアルバイトから探すことにしたが、それでも中々採用されることはなかった。

「あなたもそうだったでしょうけど、私の見た目と履歴書の性別欄が矛盾してたから、面接だけで何度も落とされたものよ。こっちもTSのことを説明して、やっと理解してくれた所で働き始めたんだけど……」

 ようやくバイトで働き始めた広夢さんだったが、今度は職場内での偏見に直面させられた。

「周りから『あの子はTSだから、TSウィルスが感染する』とか噂されて、孤立してしまったの。私だって何度も『そんなものはない』って訴えたんだけど、誰も聞く耳を持たなくて……そのうちに上層部にも噂が届いて、解雇に近い形で辞めざるを得なかったわ」

 広夢さんのハスキーな声には、苦々しい響きがあった。

 その後もバイトを探した広夢さんは、TSに対する無理解や偏見と差別を何度も経験させられた。様々な職を転々として、二十五歳になった時、転機が訪れたそうだ。

「次の仕事が見つからなくて途方に暮れていた時、前の職場で客だったゲイバーのママ……つまり店長が、私がTSだと知った上で、『うちの店で働いてみない?』って声かけてくれたの」

 それがきっかけとなって、広夢さんはゲイバーのホステスとして働くことになったそうだが、最初は葛藤や不安もあったと言う。

「これもあなたと同じだと思うけど、TSである自分はニューハーフとは違うと思っていたし、そういう人達と一緒に働けるのかっていう不安もあったわ」

「僕も、自分と男の娘は違うって、初めは思ってました」

 うなずいた僕を見て、広夢さんはニヤッとする。

「他にも、TSにまつわる偏見や差別をまた受けるんじゃないかっていう危惧もあったけど、いざ働いてみたらそんなことはなかったし、客からそういう目で見られることもなかった。あなたが働くあの店も、そういう雰囲気なのでしょう?」

「……はい」

「そんな職場を、ずっと私も探してた。ようやく巡り会えた、そのゲイバーでの仕事は、なんかこう……初めて天職というものを見つけたような、そんな気分になったわ」

 広夢さんがしみじみとした口調になっていた。僕以上にTSへの偏見と差別に苦しんできた人だから、そういう仕事を就くことができたのは、僕がフェアリーパラダイスで働けることになったこととは比べ物にならないくらい、嬉しいことだったのだろう。

 テーブルの中央に置いてあったスマホから、着信音が鳴る。取り上げて画面を確認すると、母からの電話呼び出しだ。

「もしもし、うん……ちょっと。わかってる、もうすぐ帰るから……うん、うん……大丈夫だって」

 まだ帰宅しない僕を心配した母の声に、なだめるような声で答えた。通話している僕を眺めつつ、広夢さんは残りのコーヒーを飲み干す。

 電話を切ったところで、広夢さんが空になったカップを置く。

「家族が心配してるんでしょう? そんな迷惑かけてまで、あなたを引き止められないわ。今夜はここまでにしましょうか」

 そう言うと広夢さんは立ち上がり、注文表を持ってレジへと向かった。僕もその後に続く。

 会計を済ませて外に出ると、振り返った広夢さんが僅かに名残惜しそうな目をしつつ、僕に微笑みかける。

「今回は私の話をしたけど、今度はあなたの事が聞きたいわ……また会いましょう」

 手を振ってから、夜道を駅の方へと向かって広夢さんは歩いていった。しばらく見送った後で、ようやく僕も自宅へと帰る事ができた。


 翌日、店での休憩時間中も、僕は広夢さんのことをずっと考え続けていた。

 夕べ広夢さんが聞かせてくれた、TSへの差別と偏見に悩んでいたという話には、同じTSである僕も共感できるし、同情さえ覚えてしまう。

 そんな広夢さんの人生で起こったことが、僕の未来にも起きる可能性はある。

 僕だって今のところは、フェアリーパラダイス以外の場所で働くつもりはない。けど、もし別の職場でバイトすることになったり、大人になって就職しようとした時、広夢さんのような目に遭うのではないかと思うと、不安にかられてしまう。

 それはそれとして、他にも気がかりな点がある。広夢さんが来店した理由を、『男の娘メイドをゲイバーのホステスとしてスカウトするのが目的ではないか』と、嶋村さんが疑っていたことだ。

 広夢さんは僕に関して『そんなつもりはない』などと言ったけれど、一方でともみさんや絵舞さんを引き抜く気でいるのかもしれなかった。

 かつて人手不足に悩んでいた嶋村さんは、男の娘ではないTSの僕であろうと、この店で働いてほしいと言ってスカウトしてきた。多分、広夢さんが勤めているゲイバーも、似たような状況なのだろう。

 けど、ともみさんと絵舞さんのどちらかでもいなくなると、また人手不足に陥るのだから、店長である嶋村さんとしては困るわけだし、絶対に阻止したくなる気持ちはわかる。それに僕だって、どちらかの欠けた穴を埋めつつ、仕事をこなせる自信はまだない。

 以前、二人はそれぞれの理由で、ゲイバーのホステスとして働く気はないと答えてくれた。僕も安心はしているが、それでも広夢さんが本気でスカウトをしかけてきたら、どうなるのだろうか。

 あれこれと考えていた時、ノックに続いてドアが開く。

「コーヒーを飲みましょう」

 嶋村さんが、自分が飲むコーヒーだけを持って入ってきた。それが、僕に何か話がある時の合図だとは、とっくに承知している。まあそれ以外の、一人で飲む時もそう言っているはずだが。

 椅子に腰を下ろすなり、嶋村さんは尋ねてきた。

「先日の、あのスカウトらしい人から、何か接触はあった?」

「……いえ、何も」

 嘘をついてしまったことに、多少の罪悪感はあった。でも、同じTSである広夢さんのことを、安易に話していいものかというためらいもある。

 僕を信用している嶋村さんは、コーヒーを飲んでから、軽く息を吐く。

「何もないなら、ホントよかった。あなたが未成年だとわかって、諦めたのかもしれない」

「もしかすると、ともみさんや絵舞さんを引き抜こうとしてるのかもしれません」

「二人にも注意はしてあるけど、やっぱりあなたが気がかりよ。あの人以外にも、引き抜きしようっていう人は現れるかもしれない。気をつけておくことに越したことはないわ」

「はい」

 僕は短くうなずいた。


 今夜も仕事が終わった後で、倉石君と話をした。僕にとって、一番ホッとする時間だ。

 念のため、周囲を伺ってみたが、広夢さんの姿は見当たらなかった。あの人だってゲイバーの仕事があるのだし、毎晩ストーカーしてくるわけでもないらしい。

 他愛もないことを話題にしつつ、夕べ倉石君が『もし自分が朝おんしたら、引きこもってしまうかもしれない』と言っていたのを思い返す。そして広夢さんは、朝おんしてから五年間も引きこもっていたと、僕に話してくれた。

 もしかすると朝おんする前の広夢さんは、倉石君みたいな男だったのかも……何故か、そんなことまで思ってしまう。

 倉石君は基本的にシャイで、冴えないところもある。きっと広夢さんも、今の彼と似たような性格で、だからこそTSとなった自分に絶望して、引きこもるしかなかったのかもしれない。

 もちろん、二人の容姿は全く似ていない。だけど僕は倉石君に、昔の広夢さんの面影を感じ取っていた。

 視線に気づいた倉石君が、不審げな表情になる。

「……俺の顔、何か付いてる?」

「ごめん……ちょっと考え事してて」

「元気ないけど、また学校で何かあったのかい?」

 僕が会話に集中していなかったのを、そう受け取ったようだ。

「そんなことはないさ」

「じゃ、店でトラブったとか?」

 昨夜、倉石君は『応援する』と言ってくれたのだから、僕の様子が気にかかるのだろう。

 わずかに考えてから、僕は事実を打ち明けることにする。

「昨日、君と別れた後で、初めて自分以外のTSの人と出会った」

「え!?」

 唐突かつ極端すぎたのか、倉石君は絶句していた。そこから僕は広夢さんとのことを、要点をかいつまんで説明していく。

 倉石君とはなるべく楽しいことを話したいけど、昨日に続けて今日も愚痴めいたことをぶっちゃける羽目になってしまい、僕としてはまったく愉快ではない。

「……こういう事を話したのは、君は引き抜きとは関係ないし、何より信頼してるから」

「ありがとう……それにしても君は、立て続けにいろんな目に遭ってるみたいだな」

「朝おんしてから、ずっとこんな調子だし……TSでいる限り、トラブルからは逃げられないのかも」

 そう吐き捨てると、僕達の間には沈黙が訪れた。

 繁華街にあるコンビニは、夜でも客の出入りは多い。そういった人達が、僕達の横を無関心に通り過ぎていく。

「トラブルがあっても、それを乗り越えようとしてるんだから、やっぱり君は強いよ」

 わずかに夜風が吹いた後、倉石君が顔を上げて僕を見つめた。

「昨日もそう言ってくれたけど、あんまり自覚はないな」

「それに俺は……TSの君と出会えてよかったって思ってる」

 倉石君はそう言ってから何かに気づいて、慌てて手を振る。

「『君がTSになってよかった』っていうわけじゃない。要するに、君と知り合えたことを言ってるんだ」

「わかってる。僕だって、君と出会うために朝おんしたわけじゃないし。まあ、それがきっかけになったのは、事実だけどね」

 そこから何度も偶然が重なって、倉石君とは友達になれたわけだ。最初は、ここまでいいヤツだとわからなかったけど、『出会えてよかった』とは僕も思っている。

 本当に僕が『強い』のかはともかく、昔の広夢さんみたいに引きこもりにならなかったのは、今に至るまでの第一歩だったとも言える。だからこそ広夢さんは、そんな昔の自分とは違う今の僕に、強い興味を抱いているのではないか……そう考えたりもした。

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