第43話 暗雲立ち込める


「あ、内川君だ。おはよー」


 その翌日、校門前でバスを降りた時、偶然汐見しおみさんたちと遭遇した。


「いやー、だんだんお祭りが迫ってる実感が湧いてきたよー。この感じ、いいよね」


 明後日に迫った京桜祭けいおうさいに向けて、正門前には立派な入場ゲートが設置されていた。それを見上げながら、汐見さんは顔をほころばせる。

 自分たちの作業が終わりに近づいているのもあって、その足取りも軽やかだ。

 ちなみに今日から二日間は準備期間に当てられ、授業はなし。

 朝のホームルームのあとは各自で作業することになっていて、クラス展示のほか、所属する部活動の出し物や模擬店など、皆で追い込みをかける予定だ。


「俺たちの迷路は数時間もありゃ組み上がっちまうだろうしな。それからは天文部の展示を手伝うか。いや、写真部の展示が先か」

「はは、相変わらず翔也しょうやは人気者だね」

ていよく使われてるだけでしょー。私も料理部に顔出さなきゃ」


 彼らとそんな会話をしながら昇降口まで進んできた時、校舎の中へ吸い込まれていく生徒たちの中に、雨宮あまみや部長の姿を見つけた。


「……ごめん。ちょっと先に教室行ってて」


 俺は二人にそう伝えて、できるだけ自然を装いながら彼女へと近づいていく。

 こんな場所にいること自体珍しいし、普段なら向こうから声をかけてくるはず。一体どうしたんだろう。


「部長、こんなところで何してるんです?」

「あ、まもるくん……その、あの……」


 小声で話しかけるも、彼女は顔面蒼白。視線も定まっていない。


「ぶ、部室に行って。お願い」


 今にも泣き出しそうな顔でそう言われた直後、俺は駆け出す。

 談笑しながら教室へ向かう生徒たちの間を抜け、数段飛ばしで階段を登る。

 やがてたどり着いた部室の扉は、なぜか開いていた。

 胸の奥にざわざわするものを感じつつ、俺はおそるおそる足を踏み入れる。

 一呼吸置いて、ゆっくりと室内を見渡してみる。いつもの部室だ。

 ……いや、一箇所だけ、異様なものが目に入った。

 机の上が、黒いのだ。

 俺たちが必死に作り上げてきたポスター。その上に、真っ黒い液体がぶちまけられていた。


「……墨汁?」


 近づいてみて、その独特の匂いが鼻をつく。

 この部室にも、画材として墨汁は置かれている。だけど、ポスターの近くには置いていなかったはずだ。

 急に背中が冷えるのを感じながら、俺は必死に冷静でいようと努める。

 でも、これはどう考えても事故じゃない。誰かが……俺たちの活動を邪魔するために、わざとやったのだ。


「……少し前に、例のあの人……美術部の部長さんが来て、皆のポスターに……」


 いつしか背後に来ていた部長が、消え入りそうな声で言う。


「……部室の鍵、かけてたはずですが」

「昨日の夜、屋上で星を見ようと思って私が内側から開けて……閉め忘れてた」


 振り返りながら問うと、彼女は瞳を伏せながら言葉を吐き出した。


「……ごめんね。私のせいだ」

「違います。悪いのはこんなことをした犯人です。雨宮部長じゃありません」

「でも、私がきちんと鍵を閉めてれば、こんなことにはならなかった。私が、皆の頑張りを……」

「だから、違いますって!」


 真っ青な顔で、うわ言のように呟く彼女の肩を抱くも、つい声が大きくなる。

 ……その時、いくつもの足音が近づいてきた。俺は仕方なく、部長から手を離す。


「内川君、なんか慌ててたけど、どうしたの?」

「そろそろホームルーム始まるぜ?」


 そこにやってきたのは、汐見さんと翔也だった。

 二人は俺が血相を変えて部室へ向かうのを見て、追いかけてきてくれたようだ。


「……え、なにこれ」

「おいおい、マジかよ……」


 そして次の瞬間、彼らも机の上に広がる惨状を見て言葉を失っていた。


「これ、墨汁だよね? 近くに置いてたのが倒れたとか?」

「倒れたくらいでこんなことになるかよ……誰がやったんだ?」

「わからない」


 翔也が声を低くするも、そう答えることしかできなかった。


「でも、部室って鍵かけてたんじゃないの?」

「……俺が閉め忘れてた。ごめん」


 戸惑いの表情を浮かべる汐見さんに対し、俺は少し考えてから、そう口にした。


「う、内川君は悪くないよ……悪いのは犯人。どうしてこんなひどいことができるんだろうね」


 伏し目がちにポスターを見つめ、汐見さんは唇を噛む。


「……悔しいのはわかるけど、今は一刻も早く修復しないと。汐見さん、床に新聞紙を敷いてくれる?」


 そんな彼女をなだめてから、俺はポスターを墨汁の海から救出する。

 続いて可能な限り墨汁を拭き取るも、全体的に黒く汚れてしまっていた。


「こりゃひでーな。ここから修復できんのか?」

「……できるだけやってみるよ。悪いけど、ホームルームは休むって先生に伝えて」


 心配顔をする翔也にそう伝えると同時に、予鈴が鳴る。

 二人は顔を見合わせたあと、小さく頷いて、部室から出ていった。



 それから床の上で一人黙々と作業をしていると、やがてホームルームが終わったのか、翔也たちが戻ってくる。

 その後ろには井上いのうえ先生と朝倉あさくら先輩の姿もあった。


「汐見さんから話は聞いたわよ。一体誰がこんなことを」


 悲壮感を漂わせる先生に、俺は犯人探しをしないでくれと告げた。

 正直、犯人はわかっているけど……問い詰めたところで、証拠がないと言われてしまえばそれまでだ。幽霊部長が見ていた……なんて言ったところで、信じてもらえないだろう。

 ちなみにその部長は、部室の隅に座り込んだままだ。

 声をかけてあげたいけど、皆がいる前だとそれもできなかった。


「くそっ、ダメだ……」


 その後も修復を試みたものの、一度染み込んでしまった墨汁はそう簡単には落ちない。

 無理に落とそうとすれば、その下の絵の具まで剥がれてしまうだろう。俺は黒く汚れたポスターを呆然と見つめるしかなかった。


「……部長さん、どうするの? 諦める?」


 意気消沈する俺に向けて、先生がはっきりとした声で問う。

 一瞬、雨宮部長が反応していたけど、これは俺に対しての言葉のようだ。


「正直、諦めたくはないです。たとえ入賞の可能性がなくても……」

「……なに言ってんだよ。やるからには、入賞目指すんだよ」


 ポスターに視線を落としながら言葉を紡いでいると、翔也の力強い声が降ってくる。


「そうだよ。このまま終わっちゃうなんて、絶対イヤ」

「こんなことされると、逆に燃えてくる気がしない?」


 続いて、汐見さんや朝倉先輩からもそんな台詞が飛び出し、俺は思わず顔を上げる。

 すると、皆は真剣な表情で俺を取り囲んでいた。誰一人として、諦めてはいないようだ。


「……護くん、私もやるよ」


 そんな仲間たちの輪に、雨宮部長が凛とした表情で加わった。


「……皆が頑張るって言ってるのに、部長の私が諦めてちゃダメだもんね」


 俺が一瞬だけ視線を向けると、彼女は力強くそう口にした。


「皆、ありがとう。先生、ポスター台紙、まだ余ってますか?」

「ええ、参加を取りやめた部活があるから、台紙もいくつか余ってるわよ」


 こういった流れになることを予測していたのか、先生は既にポスター台紙を手にしていた。


「ありがとうございます。皆、新しいポスターのデザインだけど、以前出してもらったやつから選んでもらっていい?」

「異議なし。さっさと決めちまおうぜ」

「そうだね。少しの時間も惜しいし」


 やる気十分な皆に背中を押されるように、俺はポスターの原案が描かれたスケッチブックを引っ張り出す。

 幸いなことに、今日と明日は授業がないし、文化祭前日は申請すれば泊まり込みでの作業も許可される。今から全力で作業すれば、きっと間に合うはずだ。


 ……新しいポスター、なにがなんでも完成させてやる。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る