第19話
夏目優衣は自分のことを語り終えると、氷の解け切ったアイスティーを飲んだ。夏目優衣は神妙な顔つきのままだ。
何を考えて今の話を聞かせようと思ったのか判然としない。だからかもしれない。非難するような口調になってしまった。
「それが、僕に嘘をついた理由になるとでも思っているのか?」
「そんなこと思っていないわよ」
「だったら、なぜその話をした?」
「うーん、自己満足かな。意味なんてないのかも。ただ、知ってもらいたかったのかな」
夏目優衣は思案しながら自問自答するかのように言った。
訳が分からない。
ただ一つ言えることは、もしも中学三年に上がるとき、夏目優衣の言葉を聞いていたとしたら、何らかの形でサッカーを続けようとしていたかもしれない。
そんなことを一瞬、思った。
過去を振り返って一喜一憂しても意味などない。
過去は変えられないんだ。
もしも変えられるとすれば、それは都合のよい解釈で現時点から振り返っているだけのことでしかない。
そんな行動に価値などない。無価値だ。
『春斗が頑張っている姿を見ると、私もピアノを頑張ろうと、そう思えた』
しかし、不思議とその言葉が頭の中をぐるぐるとリピート再生していた。
「……」
「それで私の質問に戻るけど……どうして辞めたの?その答えを私は聞く資格があると思うのだけど?」
「…………特に意味はない。心境の変化だよ」
「だからさ、その心境の変化のことを教えてよ。何があったの?」
「いいだろ、別に」
夏目優衣が僕に影響されていようがいまいが関係ない。
テレビを見て商品を買おうとするように何かを見て影響されることはいくらでもある。
夏目優衣にとってはそれが偶然僕だっただけだ。
まあ、不幸と言うよりほかにない。
それに誰かに語るほど僕が辞めた理由は、立派でもないのだから。
挫折した。
それだけだ。
それ以外に表現のしようがない。
「結局、舞ちゃんも教えてくれないし」と夏目優衣は落胆した。
「拝島さんは関係ないだろう」
「でも、舞ちゃんは、知っているみたいだよ?春斗がサッカーを辞めた理由。だって、その理由を教えてもらうことを条件に、今まで協力していたのだもの」
夏目優衣が興味深そうに僕を見た。
これで夏目優衣が僕を騙そうとしていた理由はわかった。
しかしなぜここで拝島舞が出てくるのか理解できなかった。
それになぜ辞めた理由を知っている?
水鳥にも言っていないことだ。一体全体、拝島舞は何を知っている?
……わからない。話が整理できていない。
このまま短絡的に考えても致命的なミスを犯しそうな気がした。言う必要のないことまで言ってしまいそうな気がする。子供みたいに感情が先走りしそうな予感がする。
とにかく一度考える時間が欲しかった。
僕は、話題の矛先を変えた。
「……そもそも、なぜ夏目と拝島さんが秘密を共有しようとする関係にあるのかわからないのだが?」
「え?言わなかったかな……私たち、ピアノの先生が同じだったの。それにコンクールでも何度も同じだったのよ。それから自然と話すようになったのかな。普通ならライバル同士のはずなのにね?おかしいでしょ」
夏目は懐かしそうに目を細めて口元をほころばせた。
「幼馴染か」
「そういうことになるのかな」と夏目優衣は微笑んだ。そして、なぜか手元のアイスティーをストローでかき混ぜた。それから、髪を片耳に掛けた。いつか見た青いイヤリングを付けていた。
なぜだろう。僕は魔法に掛けられたみたいに、無意識に話を元に戻していた。
「……とにかく僕がサッカーを辞めた理由を知りたいから、拝島さんに協力したのか?」
「そうよ。だって、今みたいに春斗は絶対、素直に教えてくれないでしょ?」
「……わかった。言う」と僕が言う。すると鳩が豆鉄砲を食ったように夏目優衣が「……え?」と固まった。「だから、説明する」と念を押して言うと、夏目優衣は目を大きく見開いてまま、こくりと頷いた。
「……怪我をしてサッカーができなくなった。それだけだよ。ありきたり過ぎて、聞いて損しただろう?」と僕は乾いた笑顔を浮かべた。
「でも、俊吾と朝練しているのでしょ?」
「普通に走るのは問題ないけど、サッカーのように相手とぶつかることや接触することで衝撃が伴うのは禁止されている」
「……きっかけ――」と夏目優衣はためらうかのように小さくつぶやいた。
「きっかけは、ある時、女の子を暴漢から助けたのが間接的な原因。でも――」
僕が続きを話そうとした。しかし、「――っ⁉」と夏目優衣は息をのむ。そして、そのまま「それって……嘘でしょ……でも、舞ちゃん」と一人で考え込んでしまった。
ぱっと、夏目優衣は顔を上げて、僕を強く見つめた。青いイヤリング揺れて、光を乱反射させた。少しまぶしいなと感じる。
「……どうした?とりあえず、話を戻すけど、直接の原因は――」
「待って。その前に舞ちゃんに会うべきだよ。今すぐに」
「は?急にどうして?話は?」
何をそこまであっせているのかわからない。サッカーを辞めた理由を知りたかったのではないのか。
しかし、夏目優衣は首を横に振った。
「お願いだから、舞ちゃんに会って話を聞いて」
「……まだ無理だ」
「どうして?」と夏目優衣は非難するようなに目を細めた。
「……ごめん、もう帰る」と僕は伝票を持って席を立った。すると夏目優衣は「待って」と言った。しかし無視して会計した。
僕はやはりまだ頭が冷えていないらしい。
なぜならば――
『あの時、助けた女の子のように本当に恐怖している人たちの気持ちを踏みにじった行為を許せない。本当に恐怖を感じたら、声さえも出すことが難しいことを目の前で見た。だからこそ――嘘を吐いて、ストーカー被害をでっちあげることが許せない。たかだか、僕を惚れさせようとするためにやってよいことではない。それが、たまらなく腹立たしい』
一方的に、正義感を振りかざして言うところだった。まるで最初から考えてあった法廷弁論のようだった。それこそ、本心ではないような気がした。
それに気が付いて、とっさに言葉を飲み込んだ。
別に拝島舞と夏目優衣の二人を責めたところで、どうしようもないことなのに。
本当に自分の幼稚さに嫌悪感が募る。
僕は店から出た。すると夏目優衣が慌てて後を追ってきたみたいだ。扉が開く音がした。その瞬間僕の背中にあたたかな感触がした。気が付いたら、夏目優衣が僕のことを後ろから抱きしめていた。
「なっ、何している⁉」と咄嗟のことで悲鳴にも近い声を上げてしまった。
「待ってくれるまで、離さない!」と夏目優衣はさらに強く抱きしめた。
「わ、わかった。待つから、離れてくれ!」
背中にあたる柔らかな感触から逃れるようと必死に声を上げた。
「……本当でしょうね?」
「もちろん」とバクバクと鼓動する心臓に気付かれないように冷静に答える。
「……」
夏目優衣は僕から離れた。そして僕の目の前へと入り込んだ。僕の視線は自然と夏目優衣の貧相だと思っていた胸に吸い寄せられた。
……意外とあった。というか、これが俗にいうところの着やせするタイプなのか。
夏目優衣は僕の訝し気な視線を感じたのかもしれない。
「なによ」
「いや、別に。それより、用件を話してくれ」
「舞ちゃんとちゃんと話して」と真剣なまなざしで言った。
「……わかった」と僕は渋々頷いた。
夏目優衣は大きな瞳で観察するようにじっと見た。「うん」と頷いて、僕が嘘を吐いていないことを納得したみたいだった。そして、今までの真剣な表情からいつもの明るい表情に戻った。そして、ニヤニヤと笑みを浮かべた。
「なんだよ」
「……えっち」
「は、はい?」と僕は内心動揺してしまった。
「さっき、私の胸見ていたでしょ?」とニヤニヤとしながらも、頬を赤く染めた夏目優衣が僕を見る。
……全然、これっぽちも、やましい気持ちなど抱かなかった。
ただ夏目優衣が僕を抱きしめたことに動揺したのは事実だ。しかし、それは夏目優衣が僕のことを強く抱きしめたことで生じた圧迫感への緊張に基づく動揺だ。
つまり、ただの恐怖感による心的作用だ。
うん。断じて、性的興奮はしていない。
「……何のことでしょう――」と視線をそらして抗議の声を上げた時、夏目優衣は正面から僕を抱きしめた。というか、僕の胸に飛び込んできた。そして顔をうずめた。シトラス系の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
急激に心臓の鼓動が速まるのがわかった。
訳が分からず、頭が真っ白になった。
すぐに夏目優衣は僕から離れた。
上目使いをして、頬を赤く染まっていた。
「やっぱり、私の胸見たでしょ?」
ただ黙って肯定することしかできなかった。
いつの間にか先ほどまでの曇り空から変わって、空には夕焼けが射していた。
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