第17話

 放課後、足早に教室から出ようと急いで帰りの支度をする。


 今日は朝から曇り空だった。少し湿った空気が教室内にも浸透しているかのように感じる。

 

 土曜日に師匠から言われた言葉たちが、僕の心を支配していた。

 

 それでも今は拝島舞と夏目優衣から距離を置きたかった。


 冷静になれるまで時間がかかりそうだ。

 だからそれまでは関わりたくなかった。


 大人げなく幼稚なことは自分でも理解できる。

 それでもこの方法しか思いつかなかった。


 しかし、それとは裏腹に夏目優衣が僕の元へと来た。

 僕の前に立ったまま動こうとしなかった。


「なにか?」


「春斗、話を聞いてほしいの」


「いまさら聞くことなんて何もないだろう」


「お願い聞いて」


「今、聞いているだろ?」


「そういうことじゃないでしょ!」


 夏目優衣は教室中に響き渡るほど声を荒げた。瞬く間に教室中が静まり返った。そして、すぐにみんながひそひそと僕らの方を見て話しだした。


「なになに、修羅場かな?」「優衣ちゃんが怒るところ初めて見た」「黒田君かっこいいけど、女子の扱い雑」「そうそう」


 最後の方、僕の悪口は言っていなかったか?

 というか、今の絶対、橘さんだよね?しかもだれかが便乗していたし。


 ……やりづらい。メンタルがすり減りそうだ。


「わかった。聞くから静かにしてくれ」


「春斗が頑固だからでしょ!」


「だから、静かにしてくれ――」


「わかっているわよ!」


 ……いや、全然わかっていないだろう。


「とにかく、落ち着いてくれ」


「……話すことあるから、勝手に帰らないでよね!」と夏目優衣は一方的に言った後、自分の席に戻って帰り支度をし始めた。


「……まだ返事していないのだが」


 取り残された僕は一人突っ立ったままだった。


 しばらくしてから僕と夏目優衣の二人は学校を出た。僕が『梅田珈琲でいいよな?』と言うと夏目優衣は小さく『うん』と頷いて、僕の少し後ろをついてきた。それ以降無言で歩き続けた。


 有難いことに拝島さんはいない。

 どうやら夏目優衣が気を利かせてくれたらしい。

 

 僕たちはしばらくして梅田珈琲に入った。


 平日の夕方ということもあってか店内は意外と客がいた。僕はアイスコーヒーを頼んだ。夏目優衣はアイスティーを頼んでいた。


 僕たちは奥のテーブル席へと腰をかけた。


 夏目優衣は忙しなくカールした毛先をいじる。何かを言いかけてまた毛先をいじるという奇妙な行動をとっていた。


 さすがにその姿に見かねて話の口を切った。


「そろそろ、話してくれないか?」

「そ、そうね。でもどこから話したらいいのか……」

「あのな、こっちだって暇じゃないのだが?」

「ご、ごめん」


 夏目優衣は申し訳なさそうに謝った。

 

 何なんだそのしおらしい態度は。

 先ほどまでの威勢の良さはどこへ消えたと言うのか。

 

 いずれにしても、こうも卑屈だとやりづらいのは確かだ。


 全くいつものように明るくないと違和感がある。たとえそれが僕を惚れさせようとした演技だとしても。


 ……そう思っている時点で、もう罠にはまっているのかもしれないな。


「あのな、夏目、話してくれないと話が先に進まないのだけど」


 ちょうどマスターが注文したアイスコーヒーとアイスティーを運んできた。僕たちはお礼を言ってから口を付けた。夏目優衣はその味を確かめるかのようにもう一度飲んだ。


 夏目優衣は何かを決意したように僕を見た。


「……わかったわ。じゃ、聞くけど……春斗は、どうしてサッカーを辞めちゃったの?」


 夏目優衣の言葉が聞こえた瞬間、店内から聞こえてくるすべての音が無音になった気がした。夏目優衣はまっすぐに真剣な表情のままだった。


 なぜ夏目優衣が、以前僕がサッカーをしていたことを知っている?


 この学校で知っているのは、水鳥だけのはずだ。いやもしかしたら、他にも試合相手の内の誰かがいるのかもしれない。


 それにしても、おかしいだろ。

 どうしてこんなにも動揺する必要がある。

 微かに手が震えているような気がした。


 自分のことがよくわからなかった。


「どうして知っている?って表情しているわね。春斗は、サッカーしていた時、六番付けていたでしょ?」


「……そうだ」と僕は辛うじて喉から声を絞り出した。


「それで、ポジションはボランチが多かった。トレセンでは、どのポジションでもやっていたでしょ?」


「……なぜ知っている?水鳥から聞いたのか?」


「違うわよ。まだ気が付かないわけ?じゃあ、最終ヒントを挙げるわね。俊吾の苗字は?」


「……夏目だろ」


「正解です。それでは、私の苗字は?……やっと気が付いたみたいね。私は俊吾の姉です。まあ、春斗が気付くとは思っていなかったから、いつかは言うつもりだったけど……まさか今日言うとは想像していなかったかな。でも春斗らしいよね。サッカー以外興味なさそうにしていたのだから。当然の結果といえば当然の結果かな」


 夏目優衣は自嘲気味に乾いた笑みを浮かべた。


 ……そういうことか。今目の前に座っているのが、俊吾の姉――夏目優衣。


 いつだったか俊吾に姉も東池袋高校に通っていると言われた。


 こんなにも近くにいるとは思いもしなかった。


 いや違うか。覚えてもいなかった。


 でも、それがいまの状況――僕を騙していたこととどういう関係があるというのだ。


「とりあえず俊吾の姉であることはわかったが、それが僕を騙していたことと何の関係がある?」


「はい、今は質問禁止です。私が質問している側でしょ?どうしてサッカーを辞めたの?」


「……別にお前に関係ないだろう」


「そっか、じゃ、答えなくてもいい。その代わり、私の昔話を聞いてよ」


 そう言ってから夏目優衣はどこか悲しげででも嬉しそうな表情で話し始めた。

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