第1話 港町ガララタン

 潮の香りを含んだ風が強く吹いて、すっかり短くなったシャニィの髪を軽やかになびかせた。元は腰丈まであった濃い金髪は、今や肩につかないくらいの長さになっている。髪を切ると言ったら周囲には猛反対されたが、「自分はもう伯爵家を出るのだから」と押し切った。長い髪はどうしても手入れに時間と手間がかかるし、環境の変化と己の覚悟を示すものがほしかったからだ。


 ちなみに切り落とした髪は思いのほか良い値で売れて、シャニィが今着ているものも含めた町服の何着かに姿を変えている。豪奢ではあっても重くて動きづらいドレスも、内臓が圧迫されて苦しいコルセットも、あれもこれもつけなくてはならなかったアクセサリーも、もはや過去の遺物だ。


 軽やかな服に、アクセサリーはペンダントひとつだけ。周りを囲う護衛もなく、自分が望むままに町を歩いて回ることができる。シャニィにはそれが嬉しくてたまらない。自然と足取りも軽くなるというものだ。


 うきうきしながら鮮やかな色で溢れる花屋の店先を見ていると、トンと背に何かが軽く触れた。振り返ると、かごの山。見れば少女がとうで編まれた籠を重ねて運んでいるところで、なにせ自分の頭より高く積み上げているものだから、前がよく見えずシャニィにかすってしまったらしい。


「あ、すみませんっ!」

「こちらこそ、ごめんあそばせ」


 シャニィが反射的にそう返すと、籠を抱えた少女は目を丸くしてから、慌ててぺこりと会釈をして通り過ぎていった。


 ———ああそうだわ、言葉遣いも町に馴染なじむものにしなくてはね。でないと今みたいに驚かれてしまうわ。


 己のことを貴族令嬢らしくないらしくないと思っていたシャニィでも、一般的な人から見ればどこのお嬢様か、と思われる部分があるらしい。思わずおかしくなってくすりと笑うと、シャニィは再び通りを歩き出した。


 このガララタンの町並みは、主都やシャニィの育ったリーリア領のどの町とも違っている。少しくすんだ色の白壁に、海で染め上げたようなターコイズブルーの屋根がのった建物が、所狭しと連なっているのだ。まだ実家にいた頃に読んだ本によると、潮風が吹きつけても劣化しにくい素材を使っているため壁がややくすんだ色をしており、明るい海色の屋根はこの町がまだ砦も何もない小さな漁村だった頃に、海神の加護を祈願して始まった慣習であるらしい。


「さぁ、見てって!エパンス国から運ばれてきた美しい硝子がらす細工だよ!」

「旨いよ旨いよ!現地で天上の果実と呼ばれる、とびきり甘くてとろける果物だ!食べ損ねたら一生後悔するよ!」


 交易を本質にもつこの港町は、実に様々なもので溢れていた。ぱっと目に入ってくるだけでも、遥か遠くギギンの陶磁器にウラシャナの絨毯や織物、世界各地から集められた砂糖や香辛料、ヴドピアの金細工、あれはドゥーパニアの絡繰からくり工芸だろうか。そして船で遠くから運ばれてきた品々はもちろんのこと、こうして道を歩いているだけでもオルトリアのものではない言葉が聞こえ、はじめて見る装いや明らかに違う文化の中で育ったであろう人々が行き交っているのだ。


 ———本当に賑やかね。自分が知らないことすら知らなかった……そんなものがここにはたくさんあるのだわ……


 人々は楽しげに店を覗き、品物を満載した荷車はせっせと通り過ぎ、通りは活気で満ち満ちている。港町というものは、水路と陸路の交差地でもあった。運ばれてきた一部のものはこの町に残されるが、多くのものはここから再び各地へと旅立ってゆくのだ。


 しばらくその喧騒けんそうを眺めたシャニィは、ここにはたとえ国の王であっても妨げることのできない自由があるような気がして、胸の奥が熱くなるような気がした。故郷リーリアを離れたため、土地の権力者の縁者という特別な庇護はなくなる。ただそれは幼い頃からわかっていたことであるし、なによりも自分自身で選んだことだ。そんなことは大した問題ではないと思えるほどに、これからは日常になるだろうこの町の飾らない賑々しさが、シャニィの心を踊らせていた。


 ———さぁ、とにかくまずは旦那様にご挨拶しなくては……この十年、ペンダントを返すように言われなかったのだから、きっと拒否するおつもりはないでしょうけど……それでも驚きはするかもしれないわね。元貴族の女が急にやってきたりしたら。でも、何も問題ないのだと、きっとわかっていただけるわ。


 歩きながら、シャニィがそんなことを考えていた時だった。ガシャーン、と硝子が砕ける鋭い音がして、思考が中断される。斜向はすむかいにある店の前で、どうやらグラスか何かが割れたらしい。そのひときわ大きな大衆酒場は店内だけでなく、特大の樽をテーブルに通常の樽を椅子にして、店の前の空間でも飲めるようになっていた。


 そして一拍遅れて、穏やかさと優雅さの満ちた屋敷の中では縁のなかった、荒々しい怒鳴り声が聞こえてくる。


「人がひと仕事終えて一杯やろうって時に、なんの恨みがあるんだ手前ぇ!」


 どうやらその外の席に向かおうとしていた男に細身の青年がぶつかって、酒の入っていたジョッキを取り落としてしまったということらしい。


「すみま……っ」


 謝りかけた言葉が途中で途切れたのは、突き飛ばされた銀髪の青年が、テーブル代わりのどっしりした樽に激突したからだ。酒を駄目にされた男はどうやら気が立っているようで、もう二、三発拳を振るいそうな形相ぎょうそうで地面に転がった彼に近づいていく。


「待って、待ってちょうだい!」


 シャニィは咄嗟とっさに駆け寄り、二人の間に滑り込んだ。


「……あん?なんだ嬢ちゃん、そいつの連れか?」


 突然しゃしゃり出てきたシャニィを、男は威嚇するように睨んだ。


「いえ、違うわ。ただの通行人よ。でも、鍛え上げられたあなたのその筋肉を、暴力なんかに使うのはもったいないと思って。せっかくのたくましいイカした男が、台無しになってしまうじゃない?」

「む、むぅ……?」


 彼からすればわけのわからない闖入者ちんにゅうしゃだったろうが、それでも褒められて悪い気はしなかったらしい。男は足を止め、少しばかり困惑したようにシャニィを見下ろしている。


「あなたのそのすごい腕は、一体どのように鍛えたの?わたくしはついさっきリーリアの方から来たのだけど、武芸に励む騎士団の殿方でも、あなたほど立派な腕の持ち主はなかなかいなかったわ」


 まず褒めることで気を削ごうとしたのは確かだが、本気で感心していたのもまた事実だ。男の袖のない服から剥き出している肩と腕の筋肉は、それは見事に盛り上がっていた。


「へぇ、そうかい?まぁ俺のこれは騎士様とは違って鍛錬の成果というより、日頃の仕事の結果だからな。貨物船で重たい荷を上げたり下げたりしてりゃ、どんな奴でも多少は筋肉がつくさ」


 彼は己の上腕をぺしぺしと叩くと、少しばかり得意げにそう言った。


「まぁ、あなたって海の男なのね」


 いかな筋骨隆々の荒くれ男であっても、こちらのペースに巻き込んでしまえばはある。彼が麦酒を口にする前に落として、素面しらふだったのはもっけの幸いだった。さすがに言葉や理性が通じない酔っぱらいの前に飛び出して、どうにかできる自信はシャニィにはない。彼は説得が通じる、という勘が働けばこそ前に出てきたのだ。


「そうさ。俺はガキの頃から、ずっと船で仕事をしてきたんだ。自慢じゃねぇが、でかい船の船主から優良船員の金バッジをもらったこともある」

「あなたが勤勉に働いているっていうのはよくわかるわ。筋肉って一朝一夕でつくものじゃないもの。それがそんなふうになるまでよく働いたのね。とても立派な勲章だわ」


 黙ってシャニィを見ていた男の顔が、ふいにふっと緩んだ。


「嬢ちゃんは、その勲章に恥じねぇ振る舞いをしろって言いてぇんだな?」

「私にそんなことを言う権利はないけれど……でも、そうね。そんな素敵な海の男が少し荒れて振る舞ったからといって、周りに器が小さい男だと誤解されるのはとても残念だと思うわ」


 彼はしばらく頬を掻いた後、


「……口のたつ嬢ちゃんだな」


 と小さく苦笑し、それから吹き出すと人好きのする顔で豪快に笑い出した。


「ったく、かなわねぇや。あんたの言う通りだな。酒の一杯ごときで大人気おとなげなかった。今日はちっと新しい船主に八つ当たりされて、虫の居どころが悪かったもんだからよ……おい、突き飛ばして悪かったな、あんた」

「いえ、こちらこそよそ見していてすみませんでした。あ、店主さん、これ割ってしまったグラスの代金と、それから彼にたっぷりの上等な酒とさかなを」


 立ち上がった十代後半くらいの青年は、ごく一般的な町人の服装をしていたが、どうも良いところの坊ちゃんか何かだったらしい。様子を見に店前に出てきた店主に、彼が惜しげもなく半金貨を渡しているのを横目に、もう大丈夫だろうと判断したシャニィはすっとその場から離れた。


 歩きながら、二番目の兄のマイジアから渡された紙片を取り出してもう一度確認する。


 ———ええと、ブラド商会、銀かもめ通り七番地ね。


「あの、お姉さん!さきほどは助けていただいてありがとうございました!」


 シャニィが銀かもめ通りの位置を誰かに聞こうと辺りを見回していたところに、さきほどの銀髪の青年が走って追いかけてきた。


「あら、大したことはしていないわ。わざわざよかったのに」

「そんなわけにはいきませんよ。おかげで助かりました」


 彼はシャニィの手の紙片に目を止めると、小首を傾げる。


「どこかに行かれるんですか?助けていただいたお礼に、よければご案内しますよ。僕、ザウシュレンっていいます。どうぞザゥって呼んでください」


 渡りに船のその申し出を、シャニィはありがたく受けることにした。なにしろ到着したばかりで、この町のどこに何があるのか、全くと言っていいほどわからなかったからだ。


「助かるわ。ありがとう、ザゥ。わたく、いえ私はシャニィよ。銀かもめ通りの七番地にある、ブラド商会に行きたいの」

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