第5話

四月四日 池袋 居酒屋赤木屋 十八時五分


「それでは、プロレス研究会の今後に。かんぱーい!」

「「かんぱーい!」」

 龍斗の音頭に、賢治と陽子が続き、それぞれのジョッキが触れ合って軽やかな音を立てた。

 時は夕刻。

 プロレス研究会一同は池袋駅東口の先、サンシャイン通りの中ほどにある居酒屋にいた。午後のビラ配りをし、その後、一件の用事を済ませたので、一杯呑もうという流れになった。プロレス研の面々はそれぞれ酒が好きで、呑めるときには欠かさずに呑む連中である。

「しかし、柔道部の主将さんが話せる人で良かったな」

 中ジョッキを傾けながら、賢治は嘆息した。

「ああ。僕らみたいな弱小サークルの申し出なんて、一蹴されてもおかしくはなかったけどね」

 お通しの枝豆に手を伸ばしながら、龍斗も満足そうだ。

 午後のビラ配りは早めに切り上げられ、さっそく格闘大会の観戦ガイドの件を格闘部会に申し出に行った。

格闘部会の部会長は毎年持ち回りで、今年は柔道部が受け持っていた。柔道部にツテはなかったので、当たって砕けろと言わんばかりに、アポ無しで突撃した。柔道部の主将はそれはできた人間で、いきなり現れたプロレス研究会を邪険にするでもなく、真摯に話を聞いてくれた。

そして、公式観戦ガイドの執筆許可を出してくれた。さらには、冊子印刷・出版のノウハウがないであろうということで、新聞部への紹介までしてくれたのだ。

「助かりましたね! かいちょー、賢治先輩! あたしは俄然やる気になってきましたよ!」

 ぐっ、と握り拳を作って、陽子が気勢を上げた。龍斗と賢治は笑ってそれを見ていたが、心のなかでは同じくガッツポーズを作っていた。三人とも、相当にやる気になっているのだ。

 この状態の時は、得てして災難を招きやすい。

「……るせぇぞ、ガキども! うっく……」

 災難は隣のテーブルからやってきた。隣のテーブルで呑んでいた中年のオヤジが、いきなり声を荒たげたのだ。

「ひいっ」

 陽子はあからさまに小さくなった。龍斗と賢治も触らぬ神に祟りなし、というように、声のトーンを落とす。だが、神は向こうから触ってきた。

「んだ、てめぇら。学生か? こんな時間から良い御身分だなぁ!」

 その中年のオヤジも時同じくして酒場にいるのだが、自分のことは完全に棚に上げ、粘着質に絡んでくる。嫌なことがあったのか、なにか。それは定かではなかったが、このオヤジが完全にキレているということだけは確かだった。

「ちょっと、落ち着いてください。人の目もありますし」

 龍斗はなるべく穏便に済ませようと、オヤジをなだめにかかった。この時間、まだ居酒屋の中には人も少なく、オヤジの声は店中に響き渡っていた。店内に居たわずかばかりの酔客は、その様子を遠巻きに見ている。

「んだと、コラァ! この俺に指図しようっていうのかァ!?」

 オヤジはこの時間にして完全に出来上がっていた。酒癖が悪いらしく、目が据わっている。龍斗のなだめる言葉に激昂したオヤジは、椅子を蹴飛ばして立ち上がり、拳を振り上げた。

「ちょ、待ってください!」

 ――殴られる! 龍斗は瞬間的にそう思って、身構えた。

 だが。

「はいはいはーい、そこまで、そこまで」

「いだだだだだ!」

 一瞬、何が起こったか龍斗達は理解できなかった。オヤジと龍斗達のテーブルの間に、蒼いカンフー着を着た女性が割り込んできていた。女性は、オヤジの腕をとって捻り上げている。

「ここは楽しい大衆居酒屋。暴力はご法度だよ?」

「お、折れるぅぅぅ!」

 完全に関節が極まっているらしく、オヤジは苦悶の表情を浮かべている。それに対して、女性の方は何でもないという風に涼しげな顔。

「あ、あの、それ以上は……」

 思わず、龍斗が助けを出してしまうくらいに、オヤジは悶絶している。龍斗の言葉を受けて、女性はオヤジの腕を開放した。オヤジは恐怖に慄いた顔を見せると、這々の体でその場を去っていった。

「大丈夫だった?」

「ええ、おかげさまで……」

 去っていくオヤジを見送った女性は、ぽんぽんと手を払いながら、龍斗に微笑みかけた。

 変わった女性だった。

 歳の頃は二十代後半。服装は蒼いロングのカンフー着。昇り龍の刺繍が入った見事なものである。髪の毛は腰ほどまである黒髪を三つ編みにしている。そして、特に視線を引くのは左目。目を跨ぐように大きな傷痕がある。しかし、顔に大きな傷があるというのにそれが欠点とならず、それがまた不思議な魅力となっている――そんな女性だった。

「春先は陽気に誘われて、気が大きくなる人間が多いからね。だからといって、酒の席で他人に暴力を振るうなどもっての外ね」

「ありがとうございました、本当に助かりました」

 龍斗達は三人で頭を下げた。女性はへらりと笑うと、手を振った。

「気にしない、気にしない。困ったときはお互い様」

「ま、それもそうだな」

 女性の言葉に賢治が軽い調子で同調する。そんな賢治に、女性は満足気な笑みを向ける。そしてその直後、少し真剣な表情を見せた。

「お互い様ついでに、ひとつお願いがあるんだけど、いいかな?」

「はい、なんでしょーか! あたし達ができることなら、なんでもするっスよ!」

 陽子がお気楽に安請け合いする。

「おいおい、陽子ちゃん。まずは用件を聞いてからにしよう。それで、なんですか? お願いって」

「うむ、実はね。財布を落としてしまったようで、手持ちがあまりないんだよ。良ければ、一杯奢ってくれないかな?」

 真剣な顔のわりに意外に大したことでもなかった女性の頼みごとに、研究会一同は腰砕けになりつつも、彼女を宴席に迎え入れた。


 一杯奢って欲しいという謎の女性の頼みを快く引き受けた龍斗達は、改めて四人で呑み始めることにした。

「では、自己紹介から始めましょうかね。僕は志貴龍斗。四神学園大文学部の三年です」

「俺は乾賢治だ。龍斗と同じく四学大文学部の三年」

「あたしは武藤陽子。経済学部の二年っス」

 プロレス研の三人はそれぞれ名前と所属を名乗る。そして、女性が名乗るのを、三人でわくわくしながら待ち望む。

「私は三郷久遠、二十八歳。流浪の旅人――とでも言えば良いのかな。あ、店員さん、こっちに生中追加を頼みます」

 生中を追加し、テーブルの上に置かれたホッケ塩焼きを箸で器用に分解する久遠を前に、龍斗達は顔を見合わせた。

「旅人さん……ッスか?」

 陽子が疑問いっぱいな顔で久遠の表情をうかがう。

「ああ。見聞を広げる為に旅をしていてね。世界各国を行き先を決めずにふらふらと、さ。路銀が尽きたらその国で一稼ぎして、また別の国へ。そんな生活を――高校を卒業してすぐからだから……もう十年ほど続けているよ」

 久遠の、その奇抜な風体を体現しているかのような経歴に、プロレス研の面々は各々大きく頷いた。

 久遠が注文した生中が届くと、龍斗が音頭をとって、再び乾杯する流れになった。

「それでは、久遠さんに……かんぱーい!」

「「「かんぱーい!」」」

 からん、からんとジョッキの口が触れ合い、涼やかな音を立てる。久遠はジョッキのビールを一息に半分ほど飲み干した。

「ぷふぁ。やはり、日本の居酒屋のビールは良いね。世界でも、この水準のビールを出す国はそうそうないよ」

 日本は世界でも有数のビール好きの国家だ。キンキンに冷やしたドライビールという独自の文化を持ち、ビールの本場のドイツとはまた違ったビール市場を形成している。世界中を旅して回っているというだけあって、久遠は世界の居酒屋事情にも詳しいのかもしれない。

「ところで、久遠さんはなんでこの池袋に? 実家がこの辺だとか?」

 龍斗はビールを呑みながら、なんとなく訊いた。世界中を旅して回っている彼女が、なぜこの街に現れたのか、少し気になったからだ。

「いや、実家は埼玉だよ。この街に昔、世話になった人がいるという話を小耳に挟んでね。訪ねてみようと来てみたところよ」

「へぇ。そうなんですか」

「名前も、どこに居るのかも知らないのだけどね。まぁ、しばらく池袋には滞在している予定だから、運が良ければどこかで出会えるかもしれないね」

 同じ街に居るとはいえ、名前も知らない人物に出会える可能性など天文学的確率で低いだろう。だが、久遠はそんな低い可能性に賭けて、わざわざ帰国したらしい。

「それって、出会えるのかね?」

 賢治がストレートな言葉で問いかける。

「さて、どうかな。出会える、出会えないは、私にとってはさほど重要な事ではないのよ。知人がいると知ってその場所を訪れた。その行動に重きを置いている……ってところかな」

 プロレス研の三人は、その常人離れした価値観に驚かされた。だが、その生き方に惹かれるところがあったのも事実だった。

「私はそんな感じけど、君達はどういう集まりなのかな? ぱっと見では、それほど統一感が感じられないんだけども……」

 プロレス研のそれぞれの格好は、てんでバラバラだった。スポーツメーカー製のTシャツにジーンズで、こざっぱりした格好の龍斗、仕立ての良いブランド物のスーツに身を包んだ賢治、セルリアンブルーに染めた頭にプロレスTシャツ、ホットパンツの陽子。確かに一見しただけではどういう集まりだか推測するには難しいだろう。

「僕らは四学大のプロレス研究会なんです。これから先の活動を景気付けるための一席ってとこですかね、今日は」

「プロレス研究会といえば文化部だね。なにか、大きな大会でもあるのかな?」

 意外なことに久遠はプロレス研究会が文化部であることを言い当てた。大学の食堂で鍋を振るっている頼獏ですら勘違いしていた事実なのに、だ。

「およ。プロレス研が文化部だって、よくわかったな」

 賢治は驚いた顔をした。龍斗も陽子も同じような表情をしている。

「私が通っていた高校にもプロレス研究会があってね。その部は文化部だったからね」

 大学には学生プロレスがあるが、高校でプロレスの実戦をする部はそうそうはないだろう。あるとすれば、柔道部やレスリング部が余興で行う程度か。そう考えると、高校のプロレス研究会は大概、文化部であるといえるだろう。

「こんど、四学大の最強を決める、異種格闘技戦トーナメントがあるんですよ。その大会に、うちの部でも一枚噛もうというわけでして」

 ビールを呑みながら、龍斗は久遠に今後のプロレス研の活動方針を伝えた。ジョッキを空にした久遠は、手近な店員におかわりを頼んだ。

「ふむ。観戦記のひとつでも発表するのかな。出場は――しないか。文化部だものね」

 手早く届けられたビールを呷りながら、久遠が問う。

「あはは、そうっス! あたしたちは文化部でっス!」

 出来上がってきた陽子が明るく宣言した。

「俺らは格闘技観戦の専門家ですからね。最高の観戦ガイドを制作して、自治会長の鼻を明かしてやりますわ」

 いつの間にか注文していたウィスキーを舐めながら、賢治が息巻いた。

「ま、僕らは僕らなりの活動をしていくというわけですよ。久遠さんにも完成した観戦ガイドを見せたいですね」

「それまで日本にいたら、異種戦トーナメントも観戦に行きたいね。私も格闘技は好きだから」

 久遠もまんざらでもないようだった。

「さっきの酔っぱらいの腕を極めたのは見事でしたね。あんな技をとっさに出せるということは、さぞ修練を積んでいるんでしょうね。中国拳法ですか?」

 先ほどの見事な関節技を思い返して、龍斗は目を細めた。形としてはプロレス技のアームロックに近かったが、入り方は別の技のようであった。久遠はカンフー着を着ているので、中国拳法の技なのではないかと龍斗は想像した。

「ええ。中国にいた時に、世話になった人に習ってね。今でも健康のために続けているのよ」

 久遠は笑った。健康のために――というのは、嘘だろう。一瞬で酔っぱらいとはいえ大の男の腕を取って、身動きできないぐらいに極めるという芸当は、健康運動の域を遥かに超えている。

「どうかな、志貴くん。君も拳法をやってみない?」

「え、僕ですか?」

「見たところ、良い筋肉の付き方をしている。何かスポーツをやっていたでしょ? で、今でもトレーニングは欠かしていない。違うかな?」

 指摘され、龍斗は曖昧な笑みを浮かべた。トレーニングをしているのは事実だが、だからといって拳法をやる気にはなれなかった。

「やめておきます。僕には格闘技の素養はないと思いますし」

「そう。ま、無理にとは言わないわ」

 久遠も無理強いする気まではないらしく、話はそこで終わった。

 それからは呑みつつ談笑し、いい具合に酩酊して店を後にした。

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