第3話

 四月四日 池袋 四神学園大学中庭付近 十時三十分


 昨日の龍斗の判断が甘かった事はすぐに知れた。というのも、入学式の翌日ともなれば、新入生は普通にカジュアルな服装で登校してくる。誰が新入生で、誰が在校生なのか、判断に困るのだ。

「あ、君。ちょっといいかな?」

「私、二年ですので」

「あ、ちょっといいですか?」

「俺? 俺は新入生じゃないよ」

 そんな会話が繰り返される。

「かいちょー。あたしの心はポッキリと折れそうっス……」

 運悪く在校生に連続して声を掛けてしまった陽子は、明らかに精神的なダメージを負い、とうとうその場にしゃがみこんでしまった。そもそも、部室を持っているサークルだけでも百八サークル。部室を持たない同好会レベルのサークルになれば、その数は数え切れない。今、この中庭に集結しているのは、もしかすると新入生を勧誘しようとしているサークル所属の者のほうが多いのかもしれないのだ。

 そのとき、中庭の真ん中で「ワーッ!」と、歓声が上がった。

「あちらさんは、随分と盛り上がってるのにな」

 その歓声を横に見ながら、校舎の方にまでビラ配りにいっていた賢治が戻ってくる。

「賢治、首尾は?」

「さっぱりだ。何人かにはビラを渡せたけど、興味なさそうだったな」

 中庭の真ん中の方を見ながら、賢治は肩を竦めた。その視線の先には――リングがあった。

「いくぞー!」

 トップコーナーに駆け上がった男が天を指差す。リング内に背を向けて立ち、バク宙するようにテイクオフ。横方向に百八十度回転しながら、縦方向に一回転半して、リング上にいる相手にプレスを加える――フェニックス・スプラッシュと呼ばれるプロレスの空中技だ。そのままの体勢でフォールをかけ、フェニックスを放った選手は三カウントを奪った。

 SGWE――Shizin Gakuen Wrestling Entertainment――の新歓興行だ。SGWEはいわゆる、学生プロレスと呼ばれる団体で、定期的に興行を打っている。新歓期間は毎日、数試合を新入生の多く通りかかる時間を見計らって行っている。リングを持っている学プロ団体は少ないが、SGWEは自前でそれを確保している。普段からリングを使った練習を行っているので、興行の完成度は学生レベルを上回って、かなり高い。

「よう、研究会。ついに廃部の危機だってな」

 先ほどフェニックスで勝利した男がやってきた。黒字に赤い稲妻の描かれたロングタイツにレスリングブーツ、上にはパーカーを羽織っている。

「どこで聞いてきたんだよ、そんな話。そっちは相変わらず景気が良さそうだね、久我山」

 龍斗は憮然とした表情で応える。その男――久我山幸はSGWEの部長でエース。高い身体能力を有し、空中殺法を得意としている。大学を卒業したらウチに来ないか――インディ、メジャーを問わずにスカウトのくるような逸材である。

「おかげさまでな。それよりも志貴。お前さんも観戦だけの研究会なんてさっさと見切りをつけて、ウチに来いよ。ブランクはあるだろうけど、お前さんなら今からでもいいトコ行けると思うぜ」

「やなこったね。プロレスは観るのが一番面白い。痛い思いはするのもさせるのもゴメンだよ」

「はっ、情けないな。高校時代のライバルがこんなに腑抜けちまうなんて、俺は悲しいぜ」

 龍斗と久我山は実のところ、高校時代からの知り合いだ。ふたりとも高校は違ったがそれぞれ体操部に所属し、インターハイで技を競い合った仲だ。久我山の常人離れしたバネは、体操で基礎が作られた。インターハイの戦績は龍斗がわずかに勝り、そんな龍斗が体操を続けるでもなく、プロレス研究会で安穏としているのが久我山には許せないらしい。だが、龍斗も理由もなしにSGWEの勧誘を断っている訳ではない。一応れっきとした理由があるのだが、それは久我山には話してはいない。もっともプロレスは観るのが面白い、痛いのは嫌というのも、本心ではある。

「プロレスに興味があるけど、実戦はきついって連中がいたら、こっちに回してくれてもいいんだよ」

「冗談。うちに来たら、みっちり基礎トレをして、リングに上げるぜ。どうしても駄目だってやつも中にはいるけど、裏方を楽しんでくれている。わざわざ、堕落しに行くようなサークルを勧めるものかよ」

 プロレス研究会とSGWEはもともとはひとつのサークルだった。最初はサークル内でのプロレスごっこから始まり、それが徐々に規模が大きくなり、リングを購入した時点でプロレス研究会とSGWEは袂を分かった。十五年前の話で、それ以来、プロレス研究会とSGWEは折り合いが今一つ良くない。というのも、実際にプロレスをやろうという者と観ているだけで満足な者、プロレス好きというのは共通であれど、価値観の差は否めないからだ。

「部長。本日の試合、全て終了しました。新入生に向けてのマイクアピール、よろしくお願いします」

 龍斗と久我山が話し込んでいるところに、SGWEの女子マネージャーがやってきた。

「ああ、わかった――それじゃあ、志貴。考えとけよ」

 言い残して、久我山は去っていく。

「志貴さん、すみません……。いつも部長が無茶なことを」

「藤山ちゃんが気にすることじゃないさ。さ、久我山に文句つけられる前に、君も行ったほうが良いよ」

 SGWE女子マネージャー、藤山凪と龍斗は面識があった。凪は去年の新歓期間に、プロレス研究会の見学に来た。彼女は同時にSGWEにも足を伸ばしていて、その時に久我山に猛アプローチされ、結局、SGWEに入部した。久我山がなぜそこまで凪に執心したのかは定かではないが、好みのタイプなのではないかという説がまことしやかに流布している。

 失礼します、と頭を下げて凪は戻っていった。

「藤山ちゃんはいい子だよなぁ」

 三人のやりとりを眺めていた賢治が呟いた。それには大いに同意する、と龍斗もうなづく。

「しっかし、むこうはあんな派手なのに、あたし達は地味っスね……」

 B5サイズのコピーで作られたビラを改めて眺めながら、陽子が悲しそうに言った。サークル内に絵心のある人間がいなかったため、プロレス研究会のビラは手書きの文字だけのものだ。インパクトには欠けるし、正直なところ見る者に訴えかけるものが何一つない。「来たれ、新人!」の文字が、逆に物悲しさを煽っていると言っても過言ではなかった。

「仕方ない。もう少しビラ配ったら、お昼行こう。この時間は混むしね」

 龍斗は早々に諦めかけていた。見切りが早いのは長所であると同時に短所でもある。龍斗は粘り強く最後まで物事を進めるということはあまりなく、ダメかな、と思ったらそこで諦めてしまう。去年の凪の場合でも、久我山が猛アプローチし始めたのを知ると同時に「向こうに行ったら良いよ」と凪を手放してしまった。凪はSGWEにずいぶんと馴染んでいるようなので、彼女にとっては良かったのだろうが、プロレス研究会としてはだいぶ痛手であった。

 プロレス研究会三十年の歴史に終止符を打ったとあっては先輩方に申し訳がたたないな、と龍斗も思うのだが、そうなる公算はだいぶ現実味を帯びていた。

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