第17話 行く末は暗く

 ――憂鬱は消えない。


 日曜日、夕暮れの車内。後部座席から、遠ざかる三宅坂の風景を眺める。

 喧噪も、権力闘争も、うんざりだ。参謀本部や陸軍省の建物を尻目に、こっちの仕事について、確認をしなければならない。


「――首尾は?」

「問題ありません。尾崎はにやられました」

 そうお膳立てしたのだから、結果は上々。


「近衛公は、なんと?」

「残念至極だと、落ち込んでおられました」

 それでいい。彼がゾルゲに連なる国際スパイ団の一因であると、知られずにいてくれたら、それでいい。


「肝心のゾルゲは――」

「現在、監視を付けて説得工作中ですが、多分折れないでしょう。本国に欺瞞情報を載せて無力化する手もありますが」

「ソ連はそんな簡単な相手ではないよ」


 参謀本部にいた頃、いや、それ以前から、ソ連への諜報活動が難しいことは知っていた。

 現在、表立って渡り合っているのは関東軍特種情報部の連中だが、関係者に少し話を聞いただけでも辟易するばかりである。

 NKVD《エヌ・カ・ウエ・デ》、内務人民委員部の連中は、我々よりも一枚も二枚も上手だ。諜報も、傍受もままならぬ。幸い、昔乱数表が手に入ったことや、ソ連赤軍の四数字暗号を解読出来たため、何とか暗号は目途が立ったらしい。


 ただ、人となるとソ連の管理は徹底している。

 去年亡命してきた内務人民委員部極東地区長官リュシコフも、大した情報を持っていなかったようだ。見事に情報を分断し、一人スパイや亡命者がいても、全体像を見せないようにしている。

 ソ連国内に入ったら尾行は徹底。監視も上手い。

 本国でこの調子である。外で命を張るスパイなど、想像に難くなく、恐るべき存在なのだ。


「特高や憲兵に知られていない今なら……。二つしかない。本国に通知するか、ドイツへ送還するかだ」

 本来ならば、本来ならば、検挙するのが正しい。

 だが、今露呈されては困る。

 近衛公に大迷惑が掛かる。だから、特高に突き出して、能事終われり、とはいかない。あくまで無力化しなければならないのだ。

 然れど、通知は危険を伴う。

 本国に存在が通知されれば、スパイは畢竟、亡命か、死ぬしかない。

 そのどちらかであれば良いが、もし暴露されたら――。それこそが、一番恐れているシナリオである。


 残された手は送還である。 

 ナチス党員という仮面で上手く世渡りをしてきたのだから、ドイツ本国に送還するのが、多分一番角が立たない。

 ――全てのごたごたを、背負って出て行ってもらう。

 問題を先送りするだけだが、それだけでも今は十分だ。


「……分かりました。まだ時間はありますので、閣下のご希望が決まりましたら、お知らせください」

 ――本当なら、消したい。

 それこそ上海ならまだしも、国内で簡単に人を消すなど、至難の業だ。尾崎の時のように、現地特務機関に協力を得られるならまだしも、今、私の手の届く範囲でそれはない。


 きっと、いつかは露見する。

 その時までに、別の物語を用意する必要がある。

 また一つ、溜め息の元が増えた訳だ。


「そうだ、新規情報の提供先精査は終わったかね」

「八割方終わっております。後、派遣軍にもう少し接近した方がよろしいかと」

 相変わらず、淡々と仕事をこなす男だ。

 M情報の提供は、慎重に慎重を期す。


 ――当たり前だ。

 当人達も知らぬ機密情報が、当たり前にまとめられているのだ。

 人によっては不可思議、意味不明なものでも、分かる人間が見れば、砂丘の中に埋もれた金塊。


 M情報は、逐一精査され、濾過され、解釈される。

 それこそ諜報の基本。


 雑多な情報、分断されたピースから、多角的に組み上げ、視座を確立し、分析する。現実の公開された新聞情報を集めて、裏の裏まで読み取れるような人間でなくては、国の行く末を任せられぬ。

 この荒唐無稽なM情報なら、尚のこと。

 ただ、広範な、あまりにも広範で不可思議な材料である。

 そんじょそこらの人間は、生情報に胸焼けを通り越し、腹を下してしまう。


 分析には多彩な専門分野の人間が必要になった。そこで冷や飯ぐらいの参謀本部第二部から、伝を頼って二、三人を引き込んだ。

 人員が多すぎても駄目だ。情報が漏洩する。

 だから、信頼の出来る少数の人間だけで、私設の分析班を作った。


 さながら、小さな研究会――。各分野の精鋭。基本は軍人だが、信頼出来る民間人も入っている。使えるか否かも大事であるから、構成人数としては本当に少ない。

 そんなM情報だが、稀にそのまま使える情報もあった。


「仁科博士のその後は?」

「協力的です。加速器の欠陥を指摘したことを感謝しておりましたから、検討に前向きです」

 ――

 M情報には、日本の研究で、そういう爆弾が完成間近という記事があった。ご丁寧に、原理の説明と技術的課題まで記されていた。

 いずれこんな強力無比の新型爆弾が、戦争の形を変える。昔、ウエルズだったかエジソンだったか、こういった原子兵器なるものが、世界の行く末を決める、と言っていたと思う。


 そして、これが石原完爾の言うところの『』で使われる『』なのだろう――。

 もっとも、『最終戦争』後の世界は、本化上行が再臨するだの、永久平和が実現するだの、かなり宗教じみていて、私には興味がなかった。彼の軍事史、作戦立案に関する先見だけは、耳を貸しても良いだろう。


 私には物理学の最高理論など分からぬが――、唾を付けておくことに越したことはない。

 別のM情報では、大型サイクロトロンという機械の完成と、苦労した技術的問題点を語る、仁科芳雄博士の姿――。

 あとは、ただくっつければいい。


 仁科博士には、情報提供の代わりに、M情報の一部について分析して貰うよう依頼した。

 出自は明かせぬが、それでも経過は良好である。記事は単独では意味がない。その記事を読み込んで、現実の世界で活かすのだ。


「あぁ、そうだ。影佐君にも改めてお礼を言わねばな」

 ――尾崎の件。

 現地派遣軍の特務機関の協力。国民政府の藍衣社やCC団に対抗すべく、最近結成された特務工作機関に協力を依頼した。

 支那派遣軍総司令部付き、陸軍少将、影佐禎昭――。謀略と工作に長けた彼に、尾崎の後始末を協力してもらった。三月事件の時といい汪精衛工作といい、彼とは色々立場も思想も異なるが、出自を偽って琴線に触れる情報を提供した見返りに――である。


「それでは、後日調整致します」

 それでいい。尾崎がスパイであること自身がM情報であるが、今後、彼には国民政府が出してくる交渉者の出自あたりも、ちらほら教えても良いだろう。


 M情報を使い、間に入る。

 邪魔者は排除し、使える仲間を増やす。


 ――なんだ、ではないか。

 M情報に関わっていなかった頃から、――何も変わっていない。いつも誰かの間に入って調整し、いつも乗り換えてきたではないか。


「……黒葉君。愚痴になるが、私の考えを聞いてくれ」

 何故か無性に言いたくなった。

「どうぞ、


「……政治家には戦争を見る目がなく、官僚は己の保身のために動き、現地軍は好き勝手に金と戦果を求め、中央は派閥抗争に明け暮れている。今の組織のままで、支那もソ連も倒せると思うか」

「……」


「軍務局長《永田鉄山》はいなくなってしまった――。石原さんの言うことなんて、もう誰も聞いていない。板垣征四郎さんにせよ、寺内寿一さんにせよ、あぁ、武藤章君も駄目だ。英米が分かれる訳ないではないか。碌に国際情勢を見る目がない。それに、経済音痴で政治音痴、軍事以外取り柄のない今の航空総監殿東条英機が、今後どんなに栄転をしようとも、この事変を解決できると思うか?」

 すらすらと愚痴が出る。

 我ながら、溜まったものが多いのだろう。


「……いいえ」

「色々とやってきたが、中々、政とは――、斯くも上手く行かぬものか」

 車窓を流れる赤坂の街路樹。己の半生が木々の間に蘇る――。

 尼港事件の調査。赤化防止と満州の承認を求め蒋介石にも会った。軍務局支那班長、新聞班長、内閣調査局調査官。二・二六事件を契機に左遷させられ、歩兵連隊長、第三軍参謀長。……本当に色々やってきた。


 ――風聞によると、私は法螺吹きだという。

 満州の時以来、大きなことを言ってきた。それは自認している。

 口と根回し、努力のお陰で、近衛さんが私を掬い上げてくれた。ごぼう抜き人事だ。


 もっとも、近衛さんの都合としては、支那事変への統制に関与して欲しいという思いなのだろう。だが私は、――いつもの具合であるが、間に入ることしか出来ない。

 情報という武器を持っていても。山のような情報を収集出来たとしても、それを実際の政治活動に出力出来ねば、何の役にも立たぬ。


 後世の歴史家が喜ぶだけで、今の我々は幸せにはなれぬ。情報を元に出力し、間に入り、調整し、都合の良い方に世を導かねばならぬ。

 だが――、今の私にそれが出来るだろうか。


 ――嗚呼、永田さんが生きていてくれれば。

 返す返す慚愧ざんきに堪えぬ。

 あの人が生きておれば、こんな状況でも、的確な見通しと策を献じる事が出来るかも知れない。陸軍の分裂を抑え、二・二六事件も抑え、今般の事変も解決に導く妙案を、当たり前に出して、強く統率してくれたかも知れない。

 あの人が死んで、が外れたのだ。


「永田軍務局長は、本当に惜しいことをした。まだ生きておったら、この国はどうなっていただろう」

 黒葉に答えは求めていない。

 だから、これは愚痴なのだ。

「……総力戦体制の早期構築を実現し、早期講和と自存自衛体制の確立、ですか」

 それでも、黒葉は答える。生真面目過ぎるきらいがある。


「そうだな。永田さんは、あくまで戦争が起きても、国家が生き残れる力を付ければ良いと考えておった」

 大戦争に耐えるだけの精神と体制。経済を効率的に回し、職業紹介から災害準備、産業規格の統一設定に至るまで、平時よりしっかりと準備していれば、戦争が起きてもすぐに動けるし、最終的に戦費も浮く。

 国民の福利厚生を高めつつ、戦争への備えをする。その構築と生存能力の確保こそが目的だった。


 だが、目的遂行のために、革命も視野に入れていた。五・一五や二・二六の時のように、誰それを担ぎ出して――という、安直なものではない。薄汚れた政党政治ではなく、軍が内閣を支える哲人政治。

 それでも、最終手段として――、政権奪取のための暴力革命も考えていた。

 だが、革命はお《・》が否定した。

 だから、もう似たようなことは出来ぬ。


 流血と混乱の果てに、青年将校と各大臣の屍が横たわる――。その上に、今の無秩序な統制がふんぞり返る。

 政治は萎縮し、陸軍の声は大きい。だが、未だ派閥抗争の波に揺られ、怨嗟の声が木霊する組織が、この国を引っ張っていけるか――。


「永田さんは、何処まで見ていたのか。今となっては、確かめようがないがね」

 総力戦体制の構築――。内閣調査局時代には、諸氏協力の下、保健省設立案や、電力国家管理案を作成した。その後、引き継ぎや内務省とのごたごたはあったものの、最終的に『厚生省』という名で、幸い昨年設置と相成った。


 着々と、革命未遂の犠牲を踏み台に、目的の総力戦体制は構築されつつある。

 しかし、これもまだ動き出したばかりだ。福利厚生と戦争の備えの目的達成には、まだまだ遠い。

 ――そう、まだまだ遠いのだ。


「M情報が示す未来を、……君はどう思う?」

 黒葉は、静かに首を振る。

「暗い、……ですね」


 荒唐無稽なM情報。

 大変有益な情報が眠るパンドラの箱――。

 先進的技術情報、露見前の謀略情報、決して明かされぬ人的情報。それが密度が濃い生情報に近い形で存在する。

 だが、有益な情報は、まさしく劇薬に転じる。


 ――敗戦情報。


 読んだ瞬間、肝を冷やした。


 あろうことか、聯合艦隊が壊滅する。

 あろうことか、米国が九州、千葉と、大規模上陸する。

 あろうことか、ソ連が北海道に侵攻する。

 あろうことか、悲惨な本土決戦の末、我が国は降伏する。


 ――これは、M情報の一部でしかない。だが、他の情報も概ね同じ方を向いている。

 米国の工業生産力を、現実の情報とM情報を照合しつつ詳細に推計する。

 明らかになった彼我生産力比には、目を覆いたくなった。


 いずれ――僅か数年で、べらぼうな数の戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、輸送艦が竣工する。途方もない数の戦車、航空機、重火器、車両が製造される。

 紛うことなき、ゴリアテ――。石原さんの言うような『戦争で戦争を賄う』、――支那本土からの税収や資本を得る程度でなんとかなるような相手ではないのだ、米国は。


 無論、戦時体制に入ったソ連でも、――特に陸戦力において、同じ事が起きた。

 海からは、航空機と艦船が雲霞の如く押し寄せる。陸からは、大砲の大雷が、戦車の津波がやってくる。

「複数のゴリアテ相手に、ダビデはどうすればいい、のか」

 我が国は脆弱だ。弱いのではない、脆弱なのだ。歪な強さ、足らぬ火力を


 だが所詮は匹夫の勇――。ゴリアテ達を相手に、短期戦など望めるはずもない。

 長期戦になったら、群れとなって押し寄せる船と飛行機。経済効果を算盤弾きしても、無意味だ。

 


 ――日が、静かに暮れる。

 暮れ泥む帝都東京に、敗戦という影が忍び寄る――。


 目に映る誰も、その可能性を知らない。

 具体像も、臭いも、恐怖も、皆知らない。


 ――知っているのは、私だけだ。


 勝っているはずの戦争で、誰が敗戦を信じるだろうか。

 だが、このままでは確実にそうなる。


 今喫緊の課題は、大陸の撤兵問題。

 撤兵問題さえ解決出来れば、米制裁もなくなり、英米と事を構える必要もなくなり、我が国は生き延びられる。


 だが、――この陸軍内をまとめられるだろうか。

 和平工作は、私の知らないものを含めると、恐らく膨大な数になる。そのどれもが、相手側の事情など無視したものなのだから、実を結ぶはずがない。


 ――。

 その驕りが、何れ積み重ねた勝利を簡単に敗北のどん底へ蹴落とす。

 小手先の勝利や出世を重ねても、その国が滅んでは意味がないのだ。


 そうさせないための、M情報。溜まりに溜まった、M情報。少数精鋭の分析班に支えられた、珠玉の機密情報。

 M情報の全体像を握るのは、私だけなのだ。私だけが、この情報を握っていれば良い。


 ――


「黒葉君、車を少し停めてくれ」

 黒葉はすかさず、車を道路脇へ停車させた。

 薄暗い車内。街灯の明かりが、静かに差し込んでいる。


「……黒葉君、君に一つ確認したいことがある」

 私の声色が変わったことを、すぐに察したのだろう。彼の肩が僅かに竦む。

「なんでしょうか」


「君は、をどうしたいんだね」

 ――沈黙。熟考。而して、呟く。


「閣下の、御意志に従うだけです」

 ――いや、違うはずだ。

 絶対そんなことはない。


「本音を言い給え。彼女に近づく、あの男を、君はどうしたいのだね」

 僅かに、黒葉の首が、天を向いた。


「……消えて欲しい、です」

 ――だが、彼女がそれを否定した。

 彷徨うろつく蠅ほど、煩わしい物は無い。

 だから、私が払ってやったのだが、彼女は拒絶した。


「消せはしない。ならば、離れさせれば良いのだろう?」

 ――親心である。


「しかし、どうやって……?」

「簡単なことだ。を与えれば良い」

「それでは、……M情報が!」

「構わん。もう十分な量は集まった」


 ――いや、まだまだ欲しい。

 なんなら、永続的に欲しい。

 だが、彼女は体調不良を訴えている。

 もうそろそろ、潮時なのだ。


「君と、同じ事を、彼女にさせれば良いのだ」

「……」

 それは、弱さの証明。

 バトンを渡す意志と、渡される意志の結合。


「彼女が倒れても良いのかね?」

「……いいえ」

 黒葉が、静かに振り向くと、僅かに涙を浮かべている。


「明日早々に、彼女に伝えたまえ。準備はしておいてやる」

 新しい役職に就いて、驚くほどの機密費が付いた。

 人の一人や二人、造作もない。


「ありがとうございます。……ただ、彼は納得するでしょうか」

「納得など必要ない。合意さえ出来れば、後はどうとでもなる」

 それでも――、案内ガイドは必要であろう。良からぬ方向に暴走せぬよう、伝えなければならない。


「彼にも、を教えてやろうではないか」

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