大谷池

那智 風太郎

 1

 あれは小学三年生になる直前の春休み。

 日曜日のことだったと記憶している。


 その日は汗ばむほどの陽気だった。

 空には燦々と太陽が輝き、ときおり穏やかな風が吹いていた。


 そのせいだったのだろう。

 普段は出不精な父がめずらしく花見に出掛けようと言い出した。 


 行き先は愛媛県伊予市南伊予にある県下最大のため池、大谷池。

 森林公園になっているその池岸には多くの種類の樹木が植栽されていて、特に春には桜をはじめとする様々な樹々や野草の花々が盛大に咲き乱れる。

 そして松山市中心部から小一時間ほど車を走らせれば、その風光明媚な景色を拝めることから近隣では花見スポットとして有名である。

 けれど腕白盛りの僕からすれば花見など至極退屈に思えて渋い顔をしていると、森林公園にはアスレチックコースがあると三つ年上の兄が教えてくれたので単純な僕はそれだけで俄然乗り気になった。

 

 到着してみると臨時駐車場には乗用車が寿司詰めにされ、公園内はどこも花見客で溢れかえっていた。

 その人の群れに両親はげんなりとした表情を浮かべたが、逆に気分を高揚させた僕と兄は与えられた場所取りのミッションを遂行するべく岸辺を囲う遊歩道を走り回った。とはいえ手近な場所はすでに埋まっており、僕たちは両親から離れて遊歩道を先へ先へと進んでいった。

 すると池を半周足らずしたところに小さな岬のような場所があった。

 そのたもとには太い幹を持つ一本の桜が立ち、水面へと寄りかかるように突き出した枝にはたっぷりとした薄紅色の花弁が揺れていて、子供の目にもまさに花見には最適な場所に思えた。

 そしてそのあたりまで来ると人波はまばらであり、遊歩道沿いにレジャーシートを敷く十分なスペースが空いていて、また傍にはおあつらえ向きに木製のベンチまであった。

 そこで兄はすかさず僕を適当な場所に立たせると「他の人に取られんように見張っとけよ」と指示を出し、一目散に遊歩道を駆け戻って行った。


 言われた通りに僕は雑木林の一角で仁王立ちになった。大人たちはその鯱張しゃちほこばった自分を横目にクスクスと笑声を漏らしながら通り過ぎていったけれど、僕はそれを気にすることもなく道行く人々に誰彼なく胡乱げな目線を向けて警戒した。

 しばらくはそうして使命を果たすがために頑張っていた僕だったが、いくら待てども兄と両親はなかなか姿を見せず、次第に飽きてきた僕はあちこちに目を配り始めた。

 振り返るといくつもの樹間を超えた先に鬱蒼とした陰が暗く沈んでいた。

 見上げるとさんざめく木漏れ日がさわさわと風に揺れ、足下からは腐葉の匂いが湧き立っていた。

 人通りが切れると途端に静寂が立ち込めて言い知れぬ不安に陥り、すぐにでも兄を追って走り出したくなった。

 けれどもしそれで誰かに場所を取られてしまったら、兄は容赦無く僕を咎めるだろう。兄は閻魔帳にでも書き留めてあるようにいつまでも僕のしくじりを覚えていて、口喧嘩の都度それを持ち出しては責める武器にしてしまう。

 口撃のやじりをこれ以上増やすわけにはいかない。

 幼いながらにそう考えた僕は心細さを我慢してその場に居続けた。

 さらに数分が過ぎた頃だったと思う。

 しゃがみ込んで蟻の観察をしていた僕がふと目を前方にやると、桜の幹に寄り添うように立つ女性の後ろ姿が目に入った。

 その人は白っぽいワンピースのような衣服を身に着けていて、豊かな黒髪をその腰のあたりまで伸ばしていた。

 僕からはほんの七、八メートル手前。

 不審に感じた。

 桜は遊歩道の内側、つまり池のほとりに植っているので、柵を超えない限りはその場所に行き着けない。

 この人はいつのまに柵を越えたのだろうと訝しんでいると、そのとき老夫婦が通り過ぎて一瞬だけそちらに目を奪われた。

 そしてふたたび視線を戻すと、女の人は消えていた。

 僕はおもわず柵に走り寄った。

 ひょっとすると池に落ちてしまったのかもしれないと思ったのだ。

 けれど見下ろした水面は静かなもので人が落ちた形跡などどこにもなく、また周囲を見渡してもそれらしき姿はなかった。

 そうして枕木を組み合わせたような柵に寄りかかってキョロキョロしていると肩を叩かれ、驚いた僕はその場で数センチ跳ねた。


「サトル、なにやっとるん」


 振り向くと兄が怪訝な表情を僕に向け、その後ろに両親がやや疲れたような笑みを浮かべて立っていた。


「あのね、あのね、女の人がね……」


 いましがた目の当たりにしたその不思議な光景を焦り口調で打ち明けると父は笑い飛ばし、兄はいかにも胡散臭いといった風に顔をしかめた。


「なんか見間違えたんやろ」

「そうや、いい加減なことばっかり言うなや」

「けど、ほんとやけん」


 それでも僕は懸命に言い募ろうとしたけれど二人にはそれ以上相手にされず、母にまで「おかしなことがあるもんやね」と笑って済まされてしまった。


「ほんとやのに……」


 ひとしきり不貞腐れていた僕だったが、母親が大きなトートバッグをベンチに載せ、父親がレジャーシートを広げ始めた時にはもう案外どうでもよくなってしまい、その後は兄と連れ立って楽しみにしていたアスレチックコースに向かった。

 丸太登り、バランス棒、ターザンロープ……。

 アスレチックコースには様々なトライアル遊具があり、途中の小高い丘には伊予灘を一望できる眺望台などもあった。

 僕たちはそこで互いを追いかけ息を切らせて走り回り、またひとつひとつの遊具で兄とタイムや成功率を競い合ったりして存分に遊んだ。

 そして汗だくになって戻るとちょうど正午を過ぎたところで、切りも良く昼食ということになった。

 

 母が大急ぎで作ったお弁当は冷凍の唐揚げとウインナー、あとは夕食の残り物がタッパーに詰められているだけのものだったけれど、桜と池の水面を眺めながら家族みんなで食べるそれはたまに行くファミレスのハンバーグよりもずっと美味しく感じた。

 お腹がいっぱいになり、しばらくすると急に強い眠気が襲ってきた。

 本当は途中までしか達成していないアスレチックコースの制覇に向かいたかったけれど、その睡魔にはどうしても抗えず、僕はほとんど気を失うように母の膝枕で眠ってしまった。

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