鏑木 9

 魁一郎は帰宅し、一応興人の様子を見た。

 怪我の方はすっかりいいようで、完全ではないが体力も戻りつつある。

 ただ目はまだ使えない。

 治ったら決着を着けるぞと息巻くが、今無理をすれば傷が開いてまた療養期間が延びるかもしれない。

 それに傷を気遣っては納得のいく闘いもできないのだから、と言うと興人も渋々だが引き下がった。

 魁一郎は客間の卓袱ちゃぶ台を前に一息ついた。

 しばしじっと考え込んでいたが、思い出したように懐から一本の鉛筆を取り出す。

 白く塗装された鉛筆を立て、人差し指一本で支える。

 全神経を集中し、呼吸を止め、僅かな動きも無いようにしながら、指を鉛筆の尻から一ミリほど離した。

 外から見ていても分からないほどの動き。

 部屋の空間ごと固定されているのかと思うほど、空気の動きもなかったが、鉛筆はゆっくりと傾いて倒れる。

 魁一郎は転がる鉛筆を冷めた目で見つめた。

「蕪古流はの修練ですか?」

 澄んだ声に我に返ると、桃子が見ているのに気が付いた。

 こちらも音もなく障子を開けていたようだ。

 桃子は静かに部屋に入ると対面に座る。

「随分と考え込んでいるようですね」

 魁一郎は黙ったままだが、それが肯定を意味しているのは桃子にも分っただろう。

「興人の怪我のことならあなたが気に病むことではありません。元々はわたくしが発端ですしね」

 言うまでもないことだと思いますけど、と付け加える。

「むしろ厄介事を持ち込んでしまって申し訳ないと思っています」

 いえ……、と魁一郎も口を開く。

「理由はどうあれ、自分に降りかかる以上、自分で対応しなくてはなりません」

 あの刺客――、桐蔵はまた襲ってくるだろう。

 もちろん魁一郎はまともに相手をするつもりはない。

 刀を忍ばせているのは身を守るためであり、襲ってくれば全力で引き、後は警察に任せる。

 自分は身を守るだけだ。

 だがそれはあくまで机上の理論であり、あの使い手が本気で襲い掛かってくるものを受け身だけで対処できるのか?

 不意打ち、闇討ちを仕掛けてくることはないだろうが、不意を打たれてやられるようなら所詮それまでの相手だと、挨拶代りに不意打ちを仕掛けてくることは考えられる。

 現に興人も擦れ違い様に斬りつけられたのだ。

 もっとも興人も対面した時に雰囲気で感じ取っていただろうが。

「敗北を恐れているとは思っていませんよ。剣士たる者、それは常に覚悟しておかなければなりませんからね」

 魁一郎は黙って立ち上がり、闇の広がる庭を見る。

 その背中に桃子は言葉を投げかけた。

「相手を殺めてしまうかもしれないことを悩んでいるのですね」

 魁一郎は桃子を見る。

 やはりそうなのだろうか、と思う。

 魁一郎は自身も、自分の中に渦巻く言い知れぬ不安のような物の正体は分からなかった。

 相手は凶器を持っているのだから普通なら正当防衛だが、それは魁一郎も同じだ。

 だが素手ならば確実に殺されるだろう。

 桐蔵は丸腰だからと容赦しない。

 この局面で刀を身から離すのは単なる奢り。自分は死なない、あるいは相手が手心を加えてくれるという平和に呆けた思想に過ぎない。

 またの機会にと言おうものなら失望し、見切りをつけてあっさり斬り捨てられるだろう。

 正当な対応をするのなら視界に桐蔵の姿を捉えると同時に逃げることだ。

 桐蔵とて魁一郎との対戦に全てをかけるつもりはないだろう。街中で、周りの人間に構わず剣を振り回すことは考えにくい。

 しかしいずれは決着を着けなくてはならないのかもしれない。

 その時、殺さずに退けることなどできるのだろうか。

 指、あるいは手を切り落とすことで殺さずに決着をつけることはできる。

 だが相手も使い手の場合、その限られたまとに確実に当てるのは難しい。少し対峙すれば相手の思惑は分かるものだ。

 殺す気がないと悟られればそれだけ不利になる。

 殺さないことに気を配りながら戦うなど、桐蔵相手にできるとは思えなかった。

 そしてそんな気持ちで戦いに臨むのも危険なのだ。

「人は何かを守りたい時に強くなると言いますよ」

 桃子はからかうような笑みを含めて言う。

 魁一郎は桃子を見据える。

 自分のために生きて欲しいと言うのだろうか。

 いやまさか、とも思う。

 まだ会ってそれほど経ってはいない。

 確かに美しい少女だとは思うが、魁一郎にとって桃子はそれ以上の存在ではない。

 桃子も魁一郎のことは深く知らないはずだ。

 自分には、華はまだ早いのだろう。

「私には無理かもしれない」

「無理なことなどありませんよ。それは自分に限界を設けているだけです」

 魁一郎はふっと静かに笑う。

「不可能なことというのも世の中にはあるものです。時にはそれを知ることも必要だ。試しにその鉛筆を立ててごらんなさい。私の言っていることの意味が分かる」

 桃子は卓袱台の上に転がる鉛筆を見つめ、そっと手に取る。

 試すのかと思ったが、桃子はじっと見つめるだけだ。

 まあやってみるまでもないことか……、と魁一郎はそのまま部屋を後にした。

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