サクラ 4

 サクラは人通りの少ない並木道をやや不機嫌な面持ちで歩く。

 大股で歩いているつもりなのだが、どちらかと言うといかつい歩き方になっている。

 肩を大きく揺らしているため、同級生と比べるとかなり大きい胸が千切れんばかりに揺れていた。

 当然、ただでさえかろうじて留まっているだけのボタンが耐えられるはずもなく、ぶちっという音と共に弾け飛ぶ。

 はっと我に返ったサクラは、ボタンの転がる音を聞きながら次第に冷静さを取り戻す。

 いったいどうしてこんなにもイラついていたのか。

 それは人に害を成す変異種がいるという噂が流れ、叔父である花織に変異種ではないかと思わせるような兆しがあるからだ。

 もちろんそんなはずはない――とサクラは思っている。

 花織の性質は今に始まったことではなく、昔から怒ると手が付けられない所があった。

 そしてその時のことは覚えていないのだ。

 何度か人に大怪我を負わせ、それもあってサクラの両親も手を焼いていた。

 筋肉が異常なまでに膨れ上がり、信じられない力を出す。

 だがそれはスポーツなどに見られるパンプアップ――筋肉に流れる血流が一時的に増大する――という現象で、特別異常なことではない。

 そう両親には説明されたし、それはかなり前……つまりは変異種騒ぎが起きる前からなのだ。

 なにより花織は自身のことで怒ることはない。

 当人がバカにされたり、傷つけられたりして相手に怪我をさせたことはない。彼の大事なものを傷付けられたり、踏みにじられた時に彼は豹変するのだ。

 サクラも一度目撃した。

 サクラにいやらしい目的で近づいてきた――と花織が思っている男を殴り殺しかけたのだ。

 気の優しい、華奢で力も弱いと思っていた叔父の変貌ぶりに驚いたが、相手が教師で現場がサクラの家だったこともあり、学校側も事を荒立てることはしなかった。

 本来であれば教師が特別な理由もなく一生徒の家にいるのは説明が難しいのだ。

 治療費や慰謝料などはサクラの父が負担し、花織は警察のお世話になることは無かったが、問題の教師はしばらく入院し、教員を辞めることとなった。

 サクラとしては親身になってくれた先生でもあるので複雑な気持ちだった。

 正直その教師の視線が気になることはあったが、それは男なら少なからずそういう所があるもので、サクラにしてみれば特別なことではない。

 むしろ魁がそういう所を感じさせないのが特別なくらいなのだ。

 そんなことを考えていたが、シャツをはだけさせたままの姿でいるわけにもいかず、転がって行ったボタンの後を追う。

 走ると大変なことになりそうだったので、ボタンを見つめゆっくりと歩み寄っていたが、そのボタンが誰かの手によって取り上げられた。

「あれ? サクラちゃん? 随分久しぶりだねぇ」

「先生!?」

 今しがた思い起こしていた中学時代の担任教師――古川 さとるが突然目の前に現れたことに驚いたが、サクラは普段の帰路とは違う道を歩いていたのだ。

 教員職は追われたが引っ越したわけではない。

 それなら有り得る偶然なのかもしれない。

 古川は眼鏡を上げるとバツが悪そうに眼を逸らして手を伸ばす。

 その動作にハッとなって慌てて胸を隠した。

 サクラも意味もなく目を逸らして近づき、申し訳なさそうにボタンを受け取った。

「いやあ驚いたよ。すこし見ないうちに随分大きくなったんだね」

 と言った所で慌てた様に手を振り回す。

「背丈だよ背丈」

 ああ……と納得した素振りを見せつつも、サクラは中学時代にもそれなりに身長はあったはずだとも思う。

 胸を押さえ、改めて古川を見ると少しやつれた感じはあるものの、すっかり回復しているようだった。

 かなり重傷だったと聞いていたが、元々花織は武道などの経験も無くただ力任せに殴り続けただけなので表面的な怪我が多かったのかもしれない。

 ただ原因はサクラのことによるものなので罪悪感はあった。

 昔のことについて触れるのも気が引けて、今何をしているのかなどもサクラのせいで職を追われたのだから聞き辛い。

 かと言ってそそくさと立ち去るのも憚られる。

 仕方なく俯いて黙っていると、それを察してか古川が口を開く。

「僕は今、不登校や引き籠りの生徒を元気づけるボランティアをやっていてね。生活のことなら大丈夫。結構なお金を君のお父さんからもらっているから。それはとても感謝してる」

 元々は花織と古川の問題。親族とは言え無関係を決め込むこともできたのだ。

 花織に然るべき法的手段訴え、賠償を求めた所で支払い能力などあるはずもなく。刑に処した所で古川の生活には何も足されない。

 退院後、リハビリを兼ねて教師職に近いボランティアをやりつつ信用を取り戻していこうというのだろう。

「じゃあ、僕は行くよ。君に近づかないことがお金を出す条件だったからね」

 早々に話題も尽きてしまって沈黙の空気が流れる中に古川が切り出した。

 サクラも多少罪悪感が残りつつも引き留めることもできないので黙って頷く。

 じゃ……、と少し寂しそうに立ち去る古川の背を見送っていたサクラだが、やがて溜まりかねた様に声を上げた。

「あ、あの!」

 ん? と古川は少し驚いたように振り向く。

「ごめんなさい。私のせいで」

 と腰を折ってお辞儀するサクラに、古川は少し呆気に取られた様子だったが、手を振ると再び背を向けた。

 特に何も言わなかったが、実際何も思う所が無いなんてことはない。

 サクラの胸に視線を留めることは多々あったが、それは男性なら多くに見られる傾向。

 古川は両親と折り合いのつかないサクラを心配してくれただけで、怪しいことは何もしていない。

 にもかかわらずあんな目に遭ったのだ。

 サクラに対して恨み事の一つもあってもいいくらいなのだ。

 言われなくても近づきたくはないだろう。

 仕方ない、と嘆息した所にガサッという音と共に獣の唸り声。

 サクラは警戒心をあらわにしてその方向を見る。

 野良犬などではない。サクラが少し前によく聞いた声だ。

 音の方向――木の上にいたのは人間より少し大きな、猿のような変異種だった。

 逃げ出した動物ではない。明らかにテレビや図鑑で見る猿とは違うし、何より体には破れた衣服のような物が巻き付いている。

 全体的に大きいものの、細身で動きが素早そうだ。手足も長い。

 だが多少牙はあるものの爪はそれほど鋭くない。

 サクラが今までに見た変異種に比べれば危険は少なさそうだ。

 だが素手で相手にできるようには思えないし、走って逃げることもできないだろう。

 サクラは咄嗟に古川を見る。

 古川はただ茫然と獣のような変異種を見上げていた。

 何度か変異種を目の当たりにしたサクラと違い、何が起きているのか理解が追い付いていないのだろう。

 かつてサクラがそうだったように。

 大抵は自分の身に何が起きたのかも分からないままにあの世行きだ。

 獲物が複数だった場合、動いた者から襲い掛かる。

 だからできるだけ動かず、状況が変わるのを待つのが最善の策だ。場合によっては通行人が現れ、人目が多くなることを嫌う変異種は諦めることもある。

 サクラは何度も危険な目に遭い、真一達とそういった自己防衛の方法を共有しているが、古川は違うだろう。

 時間が経つにつれ現実感を取り戻し、声を上げるか走って逃げ出す。

 だが注意するために声を掛ければその動きに反応して襲ってくるかもしれない。

 サクラは目だけを動かして変異種を見るが、変異種は笑ったように歯を剥き出すと古川に向かって飛び出した。

 誰かが襲われたら、その間に走って逃げる。

 助かるにはそれしかない。

 助けに向かっても無駄。両方殺されてしまうだけだ。

 だがサクラは反射的に、真一達と散々申し合わせた対処法の中で、一番愚かしいと言われていた行動を取った。

 サクラは古川の前に飛び出し、手を広げて変異種との間に立ち塞がった。

 普通の猿も人間より遥かに強い筋力を持っている。同じ質量の筋肉で出せる力が異なる。

 目の前の変異種も手足が長いから細く見えるだけで、一般的な成人男性よりは太い筋肉だ。

 当たればサクラの骨など簡単にへし折るだろう。

 完全に思考が停止し、頭の中が真っ白になったサクラは目を閉じることもできずに迫りくる変異種を見ていたが、変異種は眼前でその動きを止めた。

 サクラの行動に驚いたのか、明らかに動揺する素振りをすると、身を翻して飛び去って行った。

 残された二人はしばらくそのまま動かなかったが、やがてへなへなと地面にへたり込む。

「い、い、今のは?」

 古川が絞り出すように問うが、サクラもよく知るわけではない。

 近辺に変異種が出るという噂が立っていて、どうやら今のがそれのようだ、ということをしどろもどろに説明する。

 古川は当初唖然とただ聞いていたが、やがて事態が飲み込めたのか何度か頷き、そして少し険しい顔をサクラに向けた。

「あんな危険なこと、もうしてはいけないよ」

 狙われていたのは古川だ。

 その間に逃げていれば、少なくともサクラは助かる可能性は高かった。

 サクラの予想外の行動に変異種が驚いて逃げたからいいものの、下手をすれば二人とも死んでいる所だった。

 と真一に散々聞かされたのと同じことを言う。

 正直耳にタコだったが、サクラは素直に頷いていた。

 とにかくまずはここを離れようと人通りの多い所へ出る。

 ここまでくれば大丈夫だろう、という所まで送ってもらい「あまり君と居る所を人に見られるのもよくないから」とそこで別れた。

 自宅に近くなるにつれ思考が正常に戻ると、改めてなんと恐ろしいことをしたのかと体が震えた。

 なぜあんなことをしてしまったのか。

 古川に対する後ろめたさはあるだろう。

 あるいはかつての恋人が変異種を前に自分だけ逃げだしたことによるものか。

 その時もその行動は正しいのだと頭では理解したが、ショックが無かったと言えば嘘になる。

 それと同じ気持ちにさせたくなかったからなのか。

 考えればそれらしい理由はいくつか挙げられる。

 だがサクラはどの理由にも釈然としないものを感じていた。

 古川に敵意をむき出しに襲い掛かる姿に、以前の記憶が脳裏に浮かんだ。

 花織の姿が重なったのだ。

 だから咄嗟に間に入った。

 あの時は予想だにしなかったし、止める間も無かった。

 その後悔があったからなのかもしれない。

 もしかしたらあれは本当に花織だったのではないか。

 そんな恐ろしい考えも離れない。

 大抵の場合、変異種は女子供にも容赦はない。

 だがあの変異種はサクラの姿を見て驚き、思い留まったようだった。

 人としての意識はなくとも、本能的な何かを感じたからなのか。

 そんな考えも浮かぶがそんなはずはない。

 冥界の門を塞いでからは新たな変異種は現れていないし、マホメドもいない。

 今まで一緒に暮らしていてそんな様子はなかったのだ。

 花織が変異するのならとっくにそうなっているはずだ。

 だからその心配はない、と自分を納得させて家に入った。

 少し恐ろしい目に遭ったので大きく深呼吸して気持ちを切り替える。

「やあ、お帰り。今日も早かったんだね」

 いつものように返事をして鞄を置く。

「最近は街も物騒みたいだから、その方が安心だよ」

「へぇ。花織さんも世情のことを聞いたりするんだ」

 多少嫌味っぽく笑うと花織も苦笑いで答える。

「そりゃあね。僕だって買い物にくらい出るからね。あ、ボトルシップの部品を買いにだけど。今はネットで買い物できるみたいだけど、僕はどうもそういう機械は苦手でね」

 花織はパソコンはおろか携帯も持ってはいない。

 そんな身分でもないというのもあるが、そもそも連絡を取る相手もいないのだ。

 ただ年齢に相応しいかはともかく小遣いはそれなりに貰っているので、趣味であるボトルシップの材料や道具を揃えるのに苦労はないようだ。

 サクラの両親としても下手に切り詰めさせて余計なことをされるよりは、適度に金を与えておいた方が大人くしているという気持ちもあるだろう。

 ただサクラへの教育上、金銭管理はきちんと分けることは条件とされていた。

 サクラも花織からせびろうというような気持ちは無い。

 その代わり花織の使い方に口出しもしない。

 そこはそれとなく暗黙のルールができ上がっていた。

「ふう、ようやくここまでできた。これでやっと前に買っておいた飾りを付けることができるよ」

 と花織は立ち上がって腰を叩く。

 サクラはへぇと感心したように返事をするが、正直大して興味はない。

 だが今まで見た中では力作なんだろうというのは分かる。

 ボトルが一回り大きく、使われている部品も細かく数が多い。

 船の後ろ半分ができ上がって、そこにマストが建てられている状態だ。

 作りかけなので、輪切りにしたように中身が見えているのだが、結構内部まで細かく作られている。

「ねぇ、これって外側も作るんでしょ? 中身をこんなにリアルに作って意味あんの?」

「ああ、完全に見えない所は流石に作らないよ。窓とか大砲の口とか結構穴が開いてるからね。そういう所から見える部分を作るのが楽しいんだよ」

 ふうーんと答えるものの、やはりサクラには分からない世界だ。

「不思議な力を持った海賊船っていう設定だからね。船長室には力の源でもある神秘の羅針盤があるんだ」

「なんかの映画に出てくる船だったの?」

「いや、僕のオリジナルだよ」

 ますますもって分からない。

「船長室は外からも見えるからね。その羅針盤にはどうしても本物の宝石を使いたかったんだ」

 花織はがさごそと材料を仕舞ってある棚を漁る。

「あったあった。失くしたら大変だ」

 と取り出した物を見てサクラは硬直した。

「どうだい綺麗だろ。本物の宝石だよ。なんていう石なのかはよく知らないんだけど」

 あ、あ、あ……、とサクラは一粒大の赤い宝石を指さして口をパクパクさせる。

「ん? ああ、大丈夫。そんな高価な物じゃないよ……って言っても二万円したから僕にとっては大金かな?」

 と声を上げて笑う花織だったが、サクラはただあわあわと後退りするだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る