03 セブンスター

 僕と七瀬さんはエレベーターで六階まで来た。六〇三号室には「樫野かしの」と表札があった。


「ここが、七瀬さんの部屋なんですか?」

「あー、七瀬っていうのは下の名前。俺、樫野七瀬かしのななせ


 六〇二号室には、当然「中野」の表札をかけていた。そのまま鍵を開けて帰っても良かったのだが、そうできない空気が僕たちには流れていた。七瀬さんが言った。


「うち、寄ってく? ビールで良ければあるよ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」


 七瀬さんの部屋は、僕のと同じワンルームだった。トイレ、風呂、洗面所は別。キッチンは少し広めだ。しかし、彼のキッチンは使った跡がほとんどなく、スッキリとしていた。窓際にベッドがあり、中央にソファとローテーブルが置かれていた。


「冷蔵庫から好きなの、取っていいよ」

「はい」


 僕は冷蔵庫を開けた。パンパンに缶ビールが詰まっていた。具材や調味料の類は一切なかった。


「好きなの……ってスーパードライしか無いじゃないですか」

「ははっ、そうだった」


 缶ビールを二つ掴んでローテーブルに置いた。七瀬さんは隙間を開けてソファに座った。僕は大人しく彼の隣に腰かけた。


「乾杯」


 僕たちは缶をぶつけた。流れるようにして部屋まで上がりこんでしまったのだが、これからどうすればいいのだろう。今日だけじゃない。これからお隣さんとしてどう付き合えば。僕の心配をよそに、七瀬さんは呑気な声をあげた。


「いやぁ、こんなこともあるもんなんだなぁ。俺、長いこと飲み歩いてるけど、こんなこと初めてだよ」

「僕もびっくりです」


 失礼にならない程度に、僕は部屋を見回した。物が少ない。テレビもない。クローゼットはまあまあの収納があるはずだから、そこに押しこんでいるのだろうか。

 七瀬さんは缶ビールをぐいぐい開けた。それにつられて、僕も早いペースで飲んだ。彼が言った。


「二十歳になったんだし、タバコ、吸ってみる?」

「はぁ……」


 僕の間抜けな返事を聞くが早いか、七瀬さんはベランダへと出た。僕も慌てて着いていった。


「はい、これ。息吸い込みながら火をつけるんだよ」


 渡されたのは、セブンスターというタバコだった。正直、興味はあった。僕はそれをくわえた。火は七瀬さんがつけてくれた。


「けふっ……」


 初めての喫煙は、とてもじゃないが美味いとかそういう次元ではなかった。ただただ煙たかった。涙目の僕の頭を、七瀬さんが撫でてきた。


「まあ、最初はそうなるよな」


 僕はなんとか一本吸いきった。しっかりと肺に入れて。誕生日当日に、タバコの味まで知らされることになるなんて思ってもみなかった。

 部屋に戻り、僕たちはビールの続きを飲んだ。何の話をすればいいのだろう。わからない。それより、酔いが回ってきた。まぶたが次第に重くなってきた。七瀬さんが言った。


「そのままソファで寝ていいよ。ブランケット、かけとくから」

「ふぁい……」


 七瀬さんは身体をずらし、僕を横たえさせた。いつの間にか、僕の頭は彼の太ももの上になった。もう何も考えられない。僕はそのまま目を瞑った。

 カーテンから朝日が差し込んで目が覚めた。七瀬さんが言っていた通り、僕にはブランケットがかけられていた。起き上がると、彼がベッドで寝ているのが見えた。

 僕はしばし、七瀬さんを起こそうかどうか迷った。しかし、黙って出ていくのもおかしいだろう。ためらいがちに、僕は彼を揺り起こした。


「七瀬さん。七瀬さん」

「ん……あ……おはよう……」


 ボサボサの髪の七瀬さんは、それでもとてもカッコよく見えた。夜だったからよくわかっていなかったが、彼はとても整った顔立ちをしていた。一重だが大きく黒い目。すっと通った鼻筋。こんな人と一夜を過ごしたなんて、未だに信じられない気持ちだった。

 七瀬さんは上半身を起こして言った。


「コーヒーでも飲む? ドリップしかないけど」

「えっと、じゃあ……頂きます」


 僕たちはソファに並んでドリップコーヒーを飲んだ。砂糖やミルクは無い。でも、僕は元々ブラックが好きだから問題なかった。

 途中で、七瀬さんはタバコを吸いに出た。僕もそうすることにした。二回目の喫煙は、やっぱりまだ慣れなかった。僕は聞いた。


「今日はお仕事休みですか?」

「うん、休み。特に予定もない。どうしよっかなー」


 天に両腕を突き出し、伸びをした七瀬さんは、僕の顔をまじまじと見てきた。


「葵くん、綺麗な顔してるな。二重だし、羨ましい」

「そんなことありません。幼く見えるので気にしてるんですよ」

「いやぁごめん。でもやっぱり綺麗だな。あははっ」


 笑うと目が一本の線になってしまう七瀬さんの顔を、僕も見返した。しばらくそうやって見つめあっていると、おかしくなってきて、二人とも吹き出した。彼が言った。


「まあ、お隣さん同士これからもよろしくな」

「はい。ありがとうございます」


 僕たちはとりあえず部屋に戻った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る