第19話 凛花の自白、木崎失墜への期待

 後夜祭に参加することはなかった。


 木崎のところに乗り込んで、「こいつは浮気をしてもなんら罪悪感を抱かない最低女だ」なんていってやろうと思ったこともあった。


 あくまで思っただけだ。


 ふたつの理由から断念した。


 ひとつは、成功する道筋が見えなかったことである。


 年に一度の文化祭、そして後夜祭だ。ぶち壊すような真似はしたくない。やったときはさぞ心地がよかろうが、終わった後の処理が面倒だ。


 木崎が浮気している物証を、こちらが完全に掴んでいるわけではない。あくまで写真を見せられただけである。ほとんど黒に近くとも、断言はできない。


 もうひとつは、そんな小さいことをしても無駄だと悟ったからだ。


 空き教室で寝てから、随分と頭の中がクリアになった。身体と心の疲れが取れたのだろう、衝動的な思考は抑えられたようだ。


「こうして文化祭を途中で抜けちゃうなんて、私たちは悪い子だね?」


 いつもの帰り道を歩く。高校の方面から、音楽が聞こえてくる。まだ後夜祭は終わっていない。


 抜けるような者は、このような時間には出歩いていないらしく、同じ高校の者は見かけられなかった。


「とっても悪い子だ」

「でも、こうして一緒にいられるだけで十分だよね。だって、凛花は味方だもん」


 ビクッと反応してしまった。ただ「味方」といっただけなのに。


「正俊どうしたの? おかしなところでもあった?」

「いや、どうも理屈はわからないんだが、妙な感触があったんだ。凛花の言葉が、深いところをついたような……」

「おかしなこともあるんだね。ふふふ。いずれにしても、悪いことじゃないよ。なんたっていまは、ふたりだけの時間だもん」

「微妙に理由になっていない気がするなぁ」

「いいの。とにかく歩きましょう?」

「あぁ」


 違和感の正体を深掘りできることはなかった。隣の凛花が、ぎゅっと手を握ってきたのだ。


「積極的だな」

「前からこういうこともやってたでしょ?」

「そりゃ昔の話だろう」

「昔できてたのに、いまさら恥ずかしがることもないの。じゃあ、これはどう?」


 ただ繋ぐだけだったのが、今度は指を絡めてきた。


 恋人繋ぎだ。


「おいおい、攻めすぎだって」

「誰かに見られたらどうするんだ」

「見られて減るものでもないし、見るような人は、ここら辺にいるはずがないもの」

「だからって恋人繋ぎは……」

「ただの女友達ならまだしも、幼馴染なら許されると思うよ?」


 さすがに納得できなかった。こうやって否定しているのは、ドキドキが止まらないからだった。このままだと、凛花に惚れ込んでしまいそうだった。


「なぁ、凛花もいい加減に……」


 いうが早いか、凛花は頭を優しく叩いた。


 ポン、ポン、ポン。三回だ。


 ぐらりと視界が揺れた。強く頭を殴られたとでもいうように。余計な思考が中断される。


「どうしたの?」

「いや、恋人繋ぎなんておかしくないよ。凛花は俺の味方だもんな」

「その通り。正俊は、なにも間違っていないの」


 凛花の言葉がすっと浸透する。違和感がゼロだった、というわけではない。凛花は俺の味方、という言葉は、自分の意思ならざらぬところから発せられていた。


 勘違いかもしれない。しかし、たとえ本心を表したものだとしても、借り物の言葉に思えてしまった。


「私って、ひどい女ね」

「どうしたんだよ急に。凛花らしくないよ」

「らしくない? 正俊にとってはそうかもしれない。でも、私だって人間。見せていない一面、気づいていない一面、いろいろあるの。自分勝手で、どす黒いし」

「人間、誰しも自分勝手なものだよ。利他の心だけで生きているとしたら、神かそれに近しいなにかだよ」


 あの凛花でさえ、自分勝手な一面を嘆くのだ。だとすれば、俺こそなるべきだ。


 木崎咲に振られた原因は、なにも彼女によるものだけではない。


 振られた後の言動も、他責思考の塊だった。こうして未練を引きずっているうえに、凛花に甘えている。


 あぁ、「現在いま」という現実から目を逸らし、「過去」にすがっている姿は、滑稽そのものだ。笑ってくれ。


 誰しも自分勝手だが、いまの俺はその最たるものかもしれない。自省してみると、脱しようのないやるせなさの渦に飲まれていく。


「たとえ醜い内面を有していても、正俊だけは落胆しすぎないで」

「俺だけ、ってどういうことだよ」

「私は違う。犯した、背負った罪の数々で、心は漆黒に染まっている。いまさら真っ白な洗濯ものみたいには、できない」

「できるさ。自分でやろうと決めさえすれば」

「正俊は優しいね。その優しさがある限り、皮肉なことだけど、私は白くなれない」


 意味深な発言だった。罪とはなんだ。俺の優しさが、凛花を白くさせない?


「わからない、って顔をしてるね。あってる。正俊はわからなくていいの。もしわかったとしたら――」

「したら?」

「夢から覚めてしまう。かりそめの、本物より美しい夢から」

「なんだかきょうの凛花はポエミーだね」

「葛藤は人を詩人にするの」


 話しているうちに、後夜祭の音楽が消えた。プログラムは終わったのだ。


「おそらく、木崎咲だけが、最高の時間を過ごしたでしょうね」

「凛花?」

「正俊、人が絶望を感じる瞬間っていつだかわかる?」


 凛花の口調は冷たくなっていた。あさっての方向を向いている。自分だけの世界に入っているのがわかった。


「どん底を、見たとき?」

「惜しい。正解は、頂上からどん底に落とされている最中なの。落ちるところまで落ちてしまえば、頂上の記憶は薄れる。つらいことが当たり前になる。苦しいのは、砂上の楼閣が手のひらから崩れ落ちるのを、まざまざと目に焼き付けているときなの」


 おそらく、これが凛花の哲学の一端だ。


 言葉には重みがあった。実感をともなったものであるようだった。


「わかったかな、正俊。木崎咲がざまぁない醜態を晒すのは、これからなの」

「凛花、楽しそうに語るね」

「見たくないの?」

「ない、といったら嘘になる」

「自分に正直ね。いいことよ。正俊も、あいつがを迎えること、首を洗って待ってろ、ね?」

「首を長くして待っていろ、じゃないんだ」

「あ、間違えた」 


 緊迫した空気が緩むようないい間違えだった。


 果たして、あの女が地に落ちるところを本当に見られるのだろうか?


 俺にはわからないが、すくなくとも凛花の言葉には説得力があった。

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