1章 会えないあなた

1話 死体と遺体

 トニーが変死の遺体搬送を終えたのは、夜の八時になろうかという時刻だった。

 勤務する葬儀社<テオス・サービス>にもどり、担当者に遺体を引き継いでもらう。役目をおわらせると早々にシャワー室にはいった。

 十二月の寒い時期、発見が早かったこともあり、遺体の傷み方は酷くはなかった。

 それでもやはり形容しがたい臭いがある。大量のシャワーの勢いで、髪や皮膚にしみついた死臭を剥ぎとろうとした。簡単に落ちてはくれないが、少なくとも気分はましになる。

 警察にコネをもつ<テオス・サービス>では、検死に問題がない身元不明遺体なども扱っている。

 そういった遺体も含めた搬送業務が、トニーの表向きの仕事のひとつだった。

 亡骸を扱うことに、たいていの人はネガティブな反応をする。トニーにしても楽しいものではないが、恐れるようなものでもなかった。

 病院で亡くなった人でも、自分の手で殺した商売敵でも、そこに特別な感情が入らなければ、動物の死骸と同じだった。

 腐敗過程にある有機物にすぎない。

 尊厳を守るためと聞かされた死後処理作業の一端を淡々とこなしていた。



 シャワーをすませ、濡れた髪を乱雑に拭きながら、トニーはロッカーを開けた。

 まずは扉の裏、顔の高さにはってある写真と視線をあわせる。これがトニーのルーティーンになっていた。

 写真には、まだ十代半ばにも届いていない女の子が写っている。

 妹だ。いつ見ても、何度見ても可愛いかった。

 カメラ目線ではないし、少しピンボケもしているところが物足りないが、隠し撮りにしてはよく撮れている。こちらを見ていないフロラでも、トニーは満足だった。

 写真の下につけなおした鏡をのぞきこみ、手櫛で髪を整える。腰をかがめないといけないが、フロラの写真の上に鏡をおきたくなかった。

 ミディアム・ショートで切り落としてある髪は、こういうとき便利だ。

 本来はもっと短いショートなのだが、カットをよくさぼるせいで、結果的にミディアムショートが普段のスタイルなのだと思われている。いいかげん切らないと……と思うだけになるのは毎度のことだった。

 フロラが小さかった頃、やたら「髪を伸ばしたところが見たい」と言ってきたことがあった。

 フロラのお願いには、いつもイエスで応えていたが、これだけは聞き入れなかった。

 フロラが言うには、

 ——女でも男でも、長い髪でカッコいい人がいる。トニーものばしたら、絶対カッコいいに違いないよ。

 何を根拠に言っていたのか、いまだに謎だ。

 ——髪をのばすと、ケンカのときに掴まれて不利になるから。

 十歳にも届いていない妹に、こんな理由を大真面目で返した当時十五歳の自分は、どうしようもない阿呆アホウだった。

 


 トニーは仕事上がりでも、同僚と呑みにいくことはまずない。まっすぐ帰ろうとスタッフ用出入り口に向かう途中、呼び止められた。

「ウィダ! 総務に内線いれろ」

 搬送用の作業着から私服に着替えた類沢るいさわ〝ルブリ〟ルーシャンが、右手で電話のジェスチャーをした。

 やや痩せ型の中背、デスクワーク要員な見目のルブリだが、トニーと同じ現場スタッフだった。表裏どちらの仕事でも、よくコンビを組んでいる。

「誰から? それにしてもウエダって、そんなに言いにくい?」

「電話の相手は直接とった総務に訊いてくれ。ウィダが気になるんなら、トニーでいい——」

「却下」

 言下に拒否した。

 名前をうまく発音できない幼かったフロラに、「トニー」という一般的な短縮形をおしえた。それ以来「トニー」が自分と妹をつなぐ象徴になった気がして、ほかの人間には使わせなくなった。

 頭が上がらないひとりをのぞいて。

「いちばん呼びやすいのに……付き合いもそこそもあるのに」

 ルブリがまだぶつぶつ言う。

「それなら『ウィダ』のほうがまだいい。宇江田うえだに近づくよう努力を続けて。あ、そうだ」

「晩飯にでも誘ってくれるのか? スイーツでもいいぞ」

 総務のフロアにむかうトニーを追いながら、ルブリが訊いてきた。

「明日、プレゼント買いに二時間ほど抜ける。ボスのお許しはとってあるから。あと、食事ぐらいだったら付き合ってもいい」

「抜ける詫びの前払いか。妹さんにはブックマーカーを贈ったって言ってなかったか? ブックマーカーなんかメモ用紙で事足りるだろうに」

「雑誌しか読まないあんたなら紙ナプキンで十分だけど、フロラにはデザインも使い勝手もいいものじゃないと。それにブックマーカーはクリスマスプレゼント用で、明日買いにいくのは誕生日用」

 照明が半分におとされたフロアには、一人だけ総務の若手が残っていた。

「電話があったって?」

 トニーの姿を認めてメモを差し出してくる。

「こちらにかけてほしいそうです。わたしはもう帰りますから、ここの電話使ってください。最後に明かりを消すのだけ、よろしく」

「ボスは無駄遣いを許さんもんな」

 残業をしていた若者に、ルブリが愛想よく別れの挨拶をしている。そのほがらかな声をバックに、トニーはメモにあった名前を見て眉をしかめた。

 フロラの養親、チャンだった。

 張とはひそかに連絡先を交換していた。自宅だけでなく<テオス・サービス>の番号も預けたのは、フロラに何かあれば、すぐ聞けるようにしたかったからだ。

 表向きの理由として、不規則な葬儀業でアパートにいる時間も定まっていないと言ってあった。電話だけなら、裏の仕事で出かけていても気づかれない。

 張が会社にまで電話をかけてきたのは、その何かがあったということなのか。

 トニーは受話器をとった。番号メモを見ないまま、張の自宅のダイヤルを慌ただしくまわす。



 後輩社員の背中を見送っていたルブリは、受話器を叩きつける音に顔をむけた。

 血相を変えたトニーが飛び出してくる。

 コートが事務椅子に置き去りにされている様子に、

「待て! おれも一緒にいく!」

 ルブリが知る限り、トニーが冷静でなくなるのは、妹が関係してくるときぐらいだ。律儀にフロアの照明をおとしてから追いかけた。

 フロラのこととなるとストッパーが外れるトニーが不安だった。

 トニーと組むようになったのは、こういうことを見越したボスの指示からだ。もっともルブリとしては指示など関係ない。仲間の心配事に無関心でいられなかった。

 頭をよぎったのは、もうほとんど忘れかけている父方の母国語でだった。

〝have a finger in every pie〟ってやつだよなあ……。

 全部のパイに指を突っ込む、すなわちプライベートに首を突っ込む。

 おせっかいは承知。すぐさま後を追いかけた。



<テオス・サービス>を飛び出したトニーは、そのまま走った。

 フロラのバイト先は、ここからさほど遠くはない繁華街、ミナミのそばにある。渋滞や一方通行で思うように進めない車より、足を使うほうが速かった。

 ——フロラがまだ帰ってこないんだ。

 電話で聞いた張の話では、フロラはすでに店を出ていた。

 夜遊びする子ではない。興味をひかれるのも、本や文具のたぐい。バイト先の近くに、そういった店はないし、養父母との約束をやぶって道草を食うとも思えなかった。

 目的地に近づくにつれ、個人経営の飲食店舗が増えてきた。市場周辺に点在する白衣の製造販売店や、調理器具や調味料のの専門店はすでに閉店している。うかれた酔客がまじる通りを急いだ。

 ——わたしたちが悪かったんだ。店が困ってると聞いて、今日だけならと許してしまった。

 養父母のせいではない。

 バイトなんだから、店の都合まで聞かなくていい。

 そうトニーが言ったとしても、やさしいフロラなら仕事に出かけただろう。

 終電までの時間を羽を伸ばして楽しむ人が行き交うなかから、フロラの姿を見つけ出そうとした。

 人波をぬうコツは心得ている。よそ見をしながら走っても、人にぶつかることはなかった。観光客の集団の陰からいきなり現れるイレギュラーがいなければ。

「痛ぇだろうが! おい、黙っていく気か⁉︎」

 やり方があからさまだ。故意にぶつかってきた男など無視して行こうとした肩が乱暴につかまれた。厚い胸板を見せつけるように反らせて凄む。

「謝れよ! おまえの態度によっちゃ……」

 もっともトニーが目を合わせると、すぐに勢いが尻すぼみになった。振りむいた凶悪な目つきに、文句を消失させた。

 トニーは父親似だと言われる。嬉しいと思う気持ちは微塵もないが、目つきの悪さは、こういう場面で役に立った。

 くだらない喧嘩に時間をとられたくない。視線を周囲に戻したとき。

 トニーの耳が、街頭の騒がしさの中から、なじんだ音を聞きとった。

「爆竹?」

「開店祝いにしてはしょぼいよね。誰かの誕生祝いだよ」

 見当違いのまま話す者もいれば、気に留めていない者もいる。

 いくら喧噪のミナミでも、こんな時刻に爆竹を鳴らしたりしない。呑気な人間たちをかきわけ、音が聞こえた方へと走った。

 市内でいちばんの繁華街は、家族連れや観光客も多くて一見安全に思える。しかし人間の密度の高さは、それだけ違法な人間も集まりやすいことでもある。裏道に深くまで入らなくても、場所によっては危険なエリアが混在していた。

 このタイミングで聞いた〝音〟に、厭な汗が流れる。

 すぐに異状を見つけた。

 通りにいる人間の視線が、一方向に流れていた。小路に入る手前で、覗き込むように足をとめたステンカラーコートの男がいる。好奇心が騒ぐくせに、その先に行こうとしないのは、厄介ごとへの関わりを警戒しているせいだ。

 トニーはその横をすり抜けて踏み込んだ。何もないことを確かめるつもりだった。

 何でもないことを願っていたのに——

 飲食店や呑み屋のゴミ箱が並んでいるその先に、小柄な人影が倒れていた。

 女の子だ。まだ十代にみえる。

 動悸の音がうるさくなった。

 自分の暗い髪色とは正反対の、薄闇でもはえる明るい髪色。日に焼けることなど知らないような、白い肌。

 そして、生気が抜けたその顔は——

 人間に向けた銃のトリガーを躊躇なく引いていた手が、痺れる。

 変死の腐乱遺体も、銃弾や刃物で破壊されたむごたらしい死体でも、淡々と片付けていたくせに、膝の力が抜けそうになる。

 息が苦しい。

 世の中に、自分の未来に、絶望したことは何度もある。そんな絶望の世界が楽園に思える。

 トニーの身体から体温が抜け落ちた。

 膚の下に虚無がひろがる。

 見ているものが現実である実感がなかった。

 なぜ、こんなところでフロラがいるのだ。

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