1−4 書の迷い路と毒霧の悪意

 ざあ、ざあんと波の音が聞こえてくる。

 突然のことに驚いたらしいルフカレドはざっと砂の上で後ずさり、リヴェレークはその腕を掴んで引き留める。

 波の音が聞こえるのも当然で、ここはどこかの浜辺なのだ。

 誰かの悦楽を映し取ったかのように、波は繰り返し寄せ、引いていく。

 ざあん。ざあん……――

 静謐の魔女は、自分に直接害のない悪意にはひどく鈍いが、そうでないものには非常に敏感だ。華やかに散らばる波飛沫に、まとわりつくような潮風に、こちらを覗く悪意の影を見る。

(あの妖精は、このような場所で自身の悪意を育てたのだ)

 そしてその悪意のかたちがたった一日前に感じたものと同じであれば、突然迷い込んだ場所の経歴さえわかるというもの。

「リヴ――」

「名を呼ばないように」

「…………ああ。書の迷い路に、落ちてしまったんだな?」

 こくりと頷く魔女に、聖人は詰めていた息を吐く。

 物語に込められた魔法によって揺らいだ世界が、亀裂のように生み出してしまうのが書の迷い路だ。決して安全な場所ではなく、それどころか迷い込んだまま抜け出せずに取り込まれてしまうこともあるような恐ろしい場所だが、どこか得体のしれない場所で在り続けるよりは幾分か不安も和らぐのかもしれない。

 じりじりと皮膚を焼く陽射しは、今が夏であれば本物との違いがわからなかっただろう。

 あらためて気を引き締めたらしいルフカレドは、しかし、自身の腕を掴んだままの魔女を見て瞠目した。

「っと、その格好はどうした?」

 彼がそう指摘した魔女の装いは、先ほどまでの簡素なブラウスとスカート姿ではなく、透けるような淡い水色の、遊泳着に似たセットアップだ。

「よい服でしょう? 襟ぐりが広すぎるように見えますが、実際には薄くカットされた珊瑚の竜の鱗で紡いだレースがあしらわれているのです」

「……そうか」

 ここが気に入っているのだと見せたはずの首もとから逸れた視線。

 ならばと見せるのは胸と腰の部分で、たっぷり重ねられた布が波のようなドレープとなっており、それぞれ腹と膝のあたりに向けて薄くなっていく。珊瑚の吐き出す泡がふつりと儚く消える瞬間を思わせるこちらの意匠もリヴェレークのお気に入りだ。

 しかし、そちらを目視したルフカレドは困ったようにため息をついた。

「よく似合っていると思うが、あまり他人には見せないようにしような」

「もとより披露するためのものではありません。この場にふさわしい装いをしているだけです」

 そう胸を張った静謐の魔女に、戦火の聖人はまたしてもため息をつく。

(なにがおかしいのだろうか。たしかに内容を読まないまま落ちてきてしまったけれど、この魔法のようすであれば、そう遠くはないはずなのに)

 本を好む魔女にとって、書の迷い路はその内容を深く知る絶好の機会だ。余すことなく楽しむためには、そしてその世界観を崩さないためには、自身の装いにも気を遣うのである。

 ルフカレドの反応の真意がわからず頭を揺らすリヴェレーク。

 耳より上の髪を左右で小さくまとめたお団子から、星屑のような光が溢れた。

「君はずいぶんと楽しそ――落ち着いているな」

「書物と毎日を過ごしていれば、迷い路にはよく落とされるものです」

「……そういうもの、か?」

(それより……)

 ざあ、と鳴るのは本当に波の音だろうか。このようなとき、魔女はふとした違和感や疑念を明確に意識するようにしている。そうすることで迷い路の表層はめくれ、奥に隠された悪意を見せるものだ。

 気づけば、べとりとした風からはいつのまにか潮の香りが消えている。

「……いいですか。わたしの影を踏んでいてください。離れないように」

 さすがに危険な場というものをよく理解しているからか、戦火の聖人はその言葉にすぐ従った。はたはたと風に揺られるままなびかせていた濃紺のケープマントすら、リヴェレークの影からはみ出ないよう調整している。

「は、頼もしいな」

「あなたが損なわれれば、わたしも困るのです」

 会話を続けるあいだにも、違和感の連鎖はとまらない。音も、匂いも、そして色までもが海から遠ざかり、毒の気配に塗り替えられる。そのわかりやすいほどの変化を、しかし静謐の魔女は杜撰だとは思わない。

 ざあ、とが悪意の音を奏でている。

 彼女からしてみれば、あとはもう巣に入り込んできた獲物を狩るだけなのだ。


 ――んふふふ。みいつけた!


「愚かな本の虫が罠にかかったと思って見てみれば、あなたも一緒だなんて、あたしはなんて幸運なのかしら」

 そうして滲むような霧の隙間から姿を現したのは、紫がかった水色の羽が美しい妖精だ。ぴんと張ったその羽に、損傷の気配は見られない。

(削られたはずの要素が元通りなのは、これが書の迷い路だからなのか、それとも)

 彼女はしとりと濡れた自身の水色の髪を艶やかな手つきで払い、それから頬を辿るようにしてつうっと唇に触れた。

「嫌だわ、本当に繋がってる」

 毒を凝らせたような、それでも紫水晶のように美しい瞳は鋭く魔女を射抜く。時折口の中でなにかを呟いているのは、仲間と連絡を取っているからだろうか。

 少しずつ濃くなっていく霧にさざめきのような光が見え隠れするのを、静謐の魔女はなにもできない煩わしさとともに見つめる。

「ねえ、ルフカレド」

 それは甘い声であった。

 花の蜜のような、果実酒のような、甘い甘い誘惑の声。

「そんな番人なんか捨ててしまって、あたしたちのお城へ来てちょうだいな。歓迎するわ」

 そうして一緒にダンスを踊りましょうよと、狙いを定めた妖精の笑みに、はたして溶かされない男がいるのだろうか。

「そうだな……」

 現に戦火の聖人は、妖精という愛らしい花束を受け取り、その芳しさを楽しむように甘く蕩ける微笑みを浮かべているのだ。結局は昨日の逢瀬が続いていくのだと、巻き込まれで婚姻まで結ばれてしまった自分はなんなのだろうと、魔女は諦念に似た感情を抱く。

「あいにく、俺には牢獄に住むような趣味はなくてな」

 しかし聖人のそれは、ただ甘みを帯びただけの刃であった。

 鋭く研がれたその声は、甘さを含んだまま、容赦なく妖精の心を突き刺していく。

「ついでに言えば、人間の中身を食らうような、下等な真似も趣味じゃないんだ」

 短慮な者であればその刃は効いたのだろう。が、妖精はルフカレドの言葉に怒りを表すでもなく、むしろおぞましいほどにゆっくりと口の端を持ち上げた。

「ふふふ。戦火の聖人ともあろう者が、もう籠絡されてしまったの? あなたが戦火をなによりも愛していることなど、よくよくわかっているのよ。ねえ、ほら。ちゃあんと考えてみて。あたしたちと一緒に眺める戦火は特等よ?」

「……っ」

 濃度を増した霧に、隣に立つルフカレドすらろくに見えないような酩酊が湧き起こる。これはよくないと気づいたリヴェレークは、自身に付着しだしたその要素だけを丁寧に壊していく。

 考えてみて。そう問うた妖精が正直にこちらの返答を待つはずがなく、思考する余裕を与えないようにしていることは明白だった。霧に混じるわずかな毒が、魔女と聖人から正常さを欠こうと牙を剥く。

 剥がしても剥がしてもまとわりつく霧。取りこぼした悪意が定着しそうになれば、まとった珊瑚の泡が、こちらと霧とを分けてくれた。

 そのきらめきに、一瞬、あの夢の水の中と錯覚しそうになり、リヴェレークは慌てて首を振った。

(違う。これは霧だ。恐ろしいけれど、本当に恐ろしいものではない)


 それはもはや、霧なのか、波なのかわからない、轟々と響く音の中。

 リヴェレークはたしかに伴侶の声を聞いた。

『この妖精は、俺のを知ってるようだ。迷い路の登場人物ではないな』

 指示した通りに踏まれた影を伝い、ぬくぬくと揺れる火が言葉を形づくる。

『毒霧は悪意を育てることに長けた妖精だ。ごく普通の会話の小さなかけらからも災いを紡ぐことができる』

 だから大事な話はこの伴侶の連絡手段を使うようにと言われた静謐の魔女は、了解しつつも、この聖人はなぜそのような方法を知っているのだろうと思う。

 すると心を読んだかのように、伴侶からは笑う気配がした。

『魔女や聖人のいる国が戦場になると、よく見かけるからな。さて崩そうというときに使われると厄介なんだが、自分で使ってみると、たしかにこれは便利だ』

 それは決して善良な笑みではなく、人ではない者の高慢さが見えた。しかしその高慢さは、たとえ自分の中だけで抱えているのだとしても、魔女が手にしているものでもある。

(わたしとて、善良ではない)

 人間の国で彼らの描く理想を反映した物語に触れていると勘違いしてしまいそうになるが、リヴェレークは魔女であり、人の常識からはかけ離れた存在である。どうしたとしても、その思考は魔女としての選択を辿るのだ。


 いつのまにか、戦火の聖人がまとう濃紺のケープマントが風にはためいていた。

「海って、開放的でしょう? だからみぃんな、油断をするのだわ」

 ざあん。

 繰り返されるその音に、恐怖しない者がどれだけいるだろうか。

 美しく笑む妖精を守るように砂の上に立ち並ぶのはこの島国の人間たちで、おそらくは王城で働いているであろう彼らの装いを見た魔女が最初に思ったのは「やはりこの装いの方向性は間違っていないではないか」だ。

 しかしすぐにその人間のようすがおかしいことに気づき、また静謐からほど遠い不調和な要素に眉をひそめる。

 隣で戦火の聖人も気づいたのか、やれやれと頭を振った。

「……上層部の大半はすでに妖精の手の内だったか。困ったものだな」

 言葉の割にあまり困ったようすではないのだから、彼はこうなることを予想していたか、あるいはすでに知っていたのだろう。あえて言葉にした理由に思い当たる節はないが、何らかの調整をしているのかもしれないと魔女は適当に返事を繋ぐ。

「だから、この国を滅ぼそうとしているのですか」

「ああ。これ以上あの妖精の好きにさせると、次にこの地域で戦火を見られるのが千年ほど先になってしまうからな。それもぐずぐずと這うような、あまり望ましくない火だ。あの手の妖精に食われた人間を弔った土地は、だいたいそうなってしまう」

 それはかなり戦火の聖人の私情が含まれた答えであったが、たしかに毒霧の妖精がこのままこの地域一帯を手中に収めてしまえば、世界にとってもよくない流れとなるであろうことがリヴェレークにも想像できた。そういう意味で、やはり事象を守るという聖人の存在は世界に欠かせないのだと魔女は思う。

(だから、もうよいだろう)

 足もとからそわりと広がるのは影の音。

 事象を揺らすものではなく、吸い込み、内側から塗り替えていくもの。

 静謐が、広がっていく。

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