第3話 白猫―SIRONEKO―


 どろっとした、感情の坩堝。寄せては返す、返しては寄せる。夢女に美玖を攫われた時に相似していた。気付けば、いつのまにか、まるで海の底に引き摺り込まれるように。


「気を張って!」

 音無さんから叱咤が飛んで、目が覚める。淀んだ空気が弛緩した。


 ――ことたまなり。

 ――器はなり。

 ――言葉は言霊ことだま鳴り。


 音無さんが、念じる。それだけで、粘着質な感情が逃れようと、のたうち回るのを感じた。


 ――上川君……す。

 ――す、すき。すき。すき。すき。好き。


 長谷川さんの、苦悶に満ちた感情がまた充満していく。こんな時、本当にイヤになる。どうして、僕は【受信】してしまうんだろう。


 魂魄レベルで、その言霊を感知してしまう。


 怪異に魅入られたヒトは、外殻から魂魄が一時的に離脱する。その境界線が薄くなるのだ。その時のメッセージを、僕は受信してしまう。


 極限状態じゃないと感知できないし、感知したところで僕には高度の霊力は持ち合わせていないから対処できない。僕に使えるのは、生活レベルの呪符。もしくは祭祀用の呪符しかない。


 ――崇。お前だからこその才能なんだって想うよ。大切にのばせよ?


 兄貴の言葉が、ココにきて耳につく。

 麒麟児っていう言葉が、あの人にはよく似合う。


 じゃりじゃり砂を噛むように口の中が苦い。

 どれだけ、比べられだろうか。


 励ます素振りで、優越感に浸る。兄貴の笑いが、耳にこびりつく。

 もう、自分のなかでも染みついてしまった。

 ここに来て、自分の手の護符は、こんなにも平々凡々で。

 



「――蛍光けいこう


 呪符を読み上げる。

 一瞬の燐光。


 だが、闇が光を飲みこもうとして――まるで、蝋燭の光のように萎んでいく。


 その瞬間だった。

 どろどろ。


 泥が、女の人たちの手が。

 美玖が。

 長谷川さんを取り囲んで、その頬を撫でているのが垣間見えた。


「やっぱり、ダメか。こんなんじゃ――」

「いえ、十分です」


 音無さんが微笑む。


さち壱番いちばん。恵比寿天様、感謝申し上げます。幸、なな番。布袋尊様、お願い申し上げます」


 腕に縛り付けられていた釣り糸が消えた。

 と思えば、音無さんが手にしていたのは、可愛らしい金魚柄の巾着袋。蛍光の護符が照らすのが見えた。


(ちょっと、ふざけている場合じゃ――)


 思わず出かかった言葉を飲み込む。そこは陰陽寮四家の一つ、音無家の子女。戯れとは決して思えない。


 思考を巡らす。恵比寿天に、布袋。それは、七福神の名前だ。

 妖や怪異そのものを使役する陰陽師はいる。だけど、神域となれば、それはまた別問題だ。


 布袋の袋は、堪忍袋と言われている。その袋には、善徳がつまっていると言う。それが、どうか。今は、まとわりつく闇を、吸い込んでいる。【蛍光】の呪符が、また輝きを取り戻し――増していく。


 ――

 長谷川さんに語りかける声。


 じりじりじり。

 ノイズがまじって。


 また、だ。

 また、受信してしまった。


 ――やっほー、上川君。

 長谷川さんが、手を擦る。


 何気無い素振りで、彼を待っている。


 彼は、長谷川さんの実家がやっているカフェの、アルバイトを務めていた。近くて。でも、学校の後輩だから


 ちょっと距離がある。そんなかれにちょっとでも近づきたくて。素直になれなくて。素っ気ない素振りを見せて。でも、ちょっとでも、近づきたくて。


 それなのに。

 それなのに――。


 後輩の女の子。

 長谷川さんもよく知る子。


 幼馴染みの子が、彼を好きだという。彼も、その子しか見ていない。二人が歩く後ろ姿を見ながら、長谷川さんは、スカートの裾を掴む。


 苦い。

 噛みしめる。


 血の味がする。

 こぽこぽ。


 水の泡が弾ける。

 暗闇が、また包み込んでいく。


 そして――沈んで。

 藻掻く。

 水の中に落ちていく。


「かはっ――」


 長谷川さんは言葉にならない。

 その喉元に、水が流れ込んで。

 その手を取るのは。


 ――瑛真。

 そう囁く。


 彼が、そう名前を呼んだ。

 でも長谷川さん、目を覚ませ。


 夢女に取り込まれるな。


 夢を見る。夢だけを見る。夢だけ見て生きる。自分を主人公にして、都合良く生きる。これほど、苦しいことがあってたまるか。ずっと、囚われて生きるなんて。あなたが想い続けることを、どうこう言うつもりもない。美玖にしてもそうだ。


 でも、誰か。

 彼じゃない誰かが、甘い言葉をエンドレスで囁く。


 それは違う。

 君の上川君は、になんかしないんだろう?


 こぽこぽっ。

 ぼこっ。


 気泡が漏れる。


 暗闇に閉ざされる。

 猫が鳴く。


(へ?)


 僕は目をパチクリさせた。

 暗闇の中、長谷川さんが藻掻く。


 その闇。

 その海に、白猫が飛び込んでいく。


「おあーっ!」


 白猫?

 とんでもない、それは白虎だった。猛る虎が、闇に食らいつく。


 誰とも判別できない、叫声。それが、二重三重、幾十にも残響した。僕は、焼け石に水と知りながら、用意していた護符を、全てたたき込む。


 光が突く。とても【蛍光】とは思えない、そんな輝きを破裂させて。

 と、白虎に跨がったまま、長谷川さんが飛び出てきた。


「サンキュー。目が覚めたよ、安倍君」


 虎に跨がったまま、長谷川さんは拳を固める。


「社長も、音無ちゃんもありがとう」

「おあっ」

「どういたしまして」


 虎が嬉しそうに、喉を鳴らして。音無さんはクスリと笑む。

 一方――闇に隠れた、何かが怯えるように蠢く。


 初恋の彼は、ドコにもいない。


 崩れ

 爛れ

 溶けて、

 歪んだ。

 そんな、置き残した感情だけが、そこにあった。


「瑛真ちゃん、絶対に逃がさないでください。ヤツが丹來です!」

「ニキでもミケでも良いけれど、覚悟してよ」


 虎は跳躍する。

 その集合する暗闇をめがけて。


 ちゃぷちゃぷ。

 その波間を――潮が香る、生臭い感情を目指して。


 幾つもの手がのびて。

 白虎を、長谷川さんを、僕を、音無さんを足止めしようと、必死で。


「悔しいけれど、ドキドキしちゃったじゃんか。上川君に、呼び捨てされるとか、さ。どれだけ夢見たって思ってるの? 本当に酷いよ」


 ぶんっ。

 長谷川さんが、拳を振った。




「叶わない初恋を、ずっと追い続けるほど、乙女は弱くないんだって。バカにすんなしっ!」


 水飛沫。

 波紋。


 拳がくいこむ。


 輪が広がって。

 歪んで。


 割れる。

 ひび割れて。


 闇を吸い込むのは、音無さんの布袋尊。堪忍部袋が、散らばった嫉妬も悲しみも憎しみも、吸い取って――。


 じゅっ。

 呪符が燃え尽きた。

 【蛍光】の光は絶たれて――。






■■■






 弱々しい灯籠の光に照らされて。

 静謐な空気が、ココにある。


 観音像の前で、浅く呼吸をしたまま、這いつくばる男が一人。音無さんが言う【丹來ニキ】は彼のことなんだろうか。


 受信しない。

 怪異とは思えない。


 その他に、女の子達が意識を失って観音像の前で倒れているという、異様な光景が目の前に広がっていた。


 でも、それよりも。

 何よりも。

 息を呑む。


(どうして……なんで?)


 ぴちょん。

 滴が落ちて、鼻先をくすぐる。

 なんとか――ようやく、声を絞り出す。






「兄貴……?」

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