第48話

 ショックと絶望感で朦朧とする頭を持て余しながら家に帰ると、公一の姿はどこにもなく、テーブルの上に乱れた字で書き置きがしてあった。


『父さんが、死んだ。家に帰ります』


(公一……)


 書き置きの横には、開いたままのハムレットと、書きかけのレポート用紙が放り出してある。


(ハムレット、か)


 俺は本を手にとった。


(しばらく読んでないな)


 ページをめくり、文字を目で追う。


【ハムレット】

 シェークスピアの四大悲劇の一つ。

 主人公のハムレットは無くなった父王の亡霊から死の真相を知らされ、父王を毒殺した叔父への復讐を誓う。

 誤って、恋人の父親を殺してしまいながらも、最後には父王を毒殺した叔父への復讐を遂げて、死ぬ。

 誤りや誤解で色々な人が傷つき亡くなる悲劇の物語。

 確か、そんな話だった。


(復讐、か)


 その言葉に、俺はふいに寒気を憶えた。

 嫌な予感。


(そうだ。この本、届けてやるか)


 とりあえず、それなりの服装に着替え、バッグを手に家を出る。

 公一のハムレットは、手に持った。

 公一の家に着き、呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばすと……扉がわずかに開いている。


(公一だな、きっと)


 その扉を開いて中へ入ると、脱いだままの形で放ってある公一の靴が俺を出迎えた。


(よっぽど気が動転してたんだろうなぁ、公一)


 公一の心情を推し量ると胸が痛む。

 その胸の痛みを抱えたまま、俺は家の中へを足を踏み入れた。


「お邪魔します。おい、公一……唯志……いないのか?」


 呼びかけたが、返事は返って来ない。


(おかしいな。唯志はともかく、公一はいるはずなんだけど)


「おい、公一!いないのか?」


 呼びかけながら、居間や座敷などを探したが、公一の姿は見当たらない。


(どこ行ったんだ、あいつ?カギもかけないで)


 いろいろ覗いて歩くのも気がひけて、俺はここで終わりにしようと唯志の部屋を覗いた。思った通り、真っ暗な部屋。


(いるわけ、ないか)


 ドアを閉めようとした時、視界の隅で何かが動いた。

 息を殺し、暗闇に目が慣れるのを待つ……と、そこにいたのは、


「公一……」


 電気をつけると、公一は驚いたように顔を上げた。


 その頬には涙の筋がいくつもつき、目が真っ赤に充血している。


「純平……」


 公一は、手に持っていたものを放り出し俺に駆け寄る。

 俺は公一をしっかりと受け止めた。


「父さんが……父さんがっ!」


 俺は何も言えず、ただ黙って公一が落ち着くまで抱きしめていることしかできなかった。公一を悲しませることになるのは、最初からわかっていたことだ。

 しかし、実際にこんな公一を目にすると、やはり胸が痛い。

 しかも、全ての事実を知ってしまった今となっては、その痛みはもう……


「純平が来てくれて、良かったよ」


 ようやく落ち着いた公一が、腕の中でつぶやいた。


「最後に会えて、良かった」

「え?」


 公一は俺から体を離し、あの、いつもの笑顔を見せた。

 邪気のない、子供のような笑顔。


「お前、今何て」

「ねぇ、純平。人間の急所って、どこにあるか知ってる?」

「はぁ?……っ!」


 一瞬にして、意識が遠のく。

 何が起こったのか全くわからないまま、俺はその場に膝をついた。

 前に倒れそうになる体が、柔らかく抱きとめられる。


「ごめん、純平……今までありがとう」


 意識が無くなる直前、唇に暖かいものが触れた。


「さよなら」


(おい、待て公一っ。どこ、行くんだ……よ……)


 俺の意識は完全に、途切れた。

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