第12話

 冷えた体を震わせながら居間に戻ると、一人で食器の片付けをしている春とかち合った。

「あ、やーと帰ってきた。もう、今までどこで何してたの?」

「いやちょとな、それより俊介達は?」

 春は唇をとんがらせて、腑に落ちない様子だったがそれ以上追求することなく建一の質問に答えてくれた。

「今日はもう休むって、さっき客間の方に案内しといた」

「ふーん、そうか早いな」

 時刻を確認してみれば午後十時半ジャスト、大人が眠るには少々早い時間だ。

「ここまでの長旅で疲れてたんじゃないかな。真奈実さんは片付けを手伝うって言ってくれたんだけど、お客様にそこまでして貰うのも悪いでしょ」

「そりゃそうだ。どれ、ここに積んである食器なんかはもう向こう、持って行って良いのか?」

「うん、ありがとう。お願いします」

 後片付けをする春を手伝う。

 もっとも、手伝うと言っても建一がするのは食器を台所の洗面台に運ぶまでだ。

 同棲をはじめてから家事全般、特に台所周りの仕事に関しては春に全て一任している。

 建一自身もともと家事には疎く逆に春はこういったことが昔から好きだった。

 気まぐれで中途半端に手伝ったりすると、あれこれ文句を言ったり言われたりで軽い喧嘩になるので、もういっそのことノータッチにしようと言うのが暗黙の了解だ。

 手持ち無沙汰になって何となく居間でくつろいでいると、片付けを終えた春が戻ってくる。

 一息つくつもりらしく、建一の直ぐ近くに腰を下ろした。

 春の事を信じてあげたらと言われて、そんなことはないと思った。春を信じていないなんてそんな事はないと。

 ……本当にそうだろうか?

 春を信じるという事が、どういうことなのか。改めて一人で考えてみて、体が冷え切ってしまうほどの長い時間考えて。

 そして一つの答えがでた。

「なぁ春」

 ただ名前を呼んだだけなのに、声が震える。 喉がカラカラに渇いてる気がする。

 心臓が早鐘を打って、息が苦しい、変な汗も出る。自分が緊張していることが、嫌って言うほど分かる。

「なぁに?」

「少し話たい事があるんだが」

「うん? いいけど」

 春がの瞳が建一の事を見る。 

 建一は一度、大きく息を深呼吸して。

「ごめんッ!」

 春に向かって、勢いよく頭を下げた。

「え、ちょっと、突然どうしたの? ゴメンって何が?」

「昔、お前が東京の大学に受かったって話をしてきただろう。その時俺――」

 悪いことをしたと思ったなら謝る。

 それは幼稚園児でも分かる、当たり前の事だ。

 それなのに、今までそれをしてこなかったのは怖かったからだ。

 話したら幻滅されると思った。

 失望されて、春が離れていってしまうと思っていた。

 しかしそれは、彼女を信じているといえるのだろうか?

 春の気持ちを勝手に見切りを付けるのは、信じていないのと同じじゃないのか?

 全てを話しても、春が自分の事を嫌うことがないだなんて、うぬぼれる事は出来ないけれど。

 それでもこのまま、ズルズルと今のままの状態が続くくらいなら、春を信じて全てを話して謝ろうと思った。

 前にも後ろにも進めない、自分から脱却するためにやれる限りの事をしたい。

 自分のエゴで春を引き留めたこと、それを今まで後悔していた事とにかく思いつくこと全て話す。

 それが今、春に出来る最大限の誠意なんじゃないのかと思ったのだ。

 さながら懺悔室で懺悔をしている気分だ。

 結局、俺はこうして話すことで楽になりたいだけなのかもしれない。

 またそんな卑屈な考えが頭に浮かぶが、今更、言ったことをなかったことにはできるわけもない。

 全てをぶちまけ、謝り終えると辺りには沈黙が降りていた。

 建一からこれ以上何も言うべきことは思い浮かばず、春の顔を窺うことも怖くて出来ないでいる。

 そんな自分に情け無いなと思っていると、不意に背中からぬくもりに包まれた。

 突然のことに何が起きたのか分からない。

「ほんとケンちゃんは馬鹿だなぁ」

 囁く様な言葉が耳元をくすぐる。

 それを聞いてようやく、春が後ろから抱きついて来たのだという事が分かった。

「ねぇケンちゃん。ケンちゃんは私が、東京に行くかどうか、迷ってたのはどうしてだと思う?」

「どうしてって。家から出なきゃいけないし、金も掛かるからだろ?」

 それはあの時、春自身が言っていた理由だった筈だ。しかし春はおかしそうにクスクスと笑った。

「それも嘘じゃないんだけど。本当の理由はもっと単純で、もっと子供じみてて、もっと馬鹿馬鹿しいこと」

 まるでなぞなぞの様な春の言葉に、健一は怪訝な顔になる。

「何なんだよ、その理由って?」

 そう言って健一が白旗を上げると「それはね」と、首から胸の前へ回されていた春の細い腕がきゅっと軽く締まる。

「ケンちゃんに会えなくなるのが寂しかったから」

 頭の中が真っ白になった。

 自分が今どういう感情なのか、それすらも分からない。

 ただ気が付くと健一は笑っていた。

 なんだかひたすら可笑しくて。

 ああ、なんだ。

 俺はなんて、くだらないことを気にしていたんだろう。

 まったく、とんだ笑い話じゃないか。

「なぁ春」

「なぁに」

「結婚しよう」

 恥も外見も、負い目も不安も全て蹴っ飛ばして、その言葉は自然とこぼれていた。

 本当はずっと前から言いたかった言葉。

 春はまた少し、俊介の事を強く抱きしめて「うん」と答えてくれた。

「ありがとう、すっごく嬉しい」

「良かった。ああでもしまったな、折角のプローポーズなんだから、もっとムードのあるところで言うべきだったな。失敗した」

「大丈夫。ケンちゃんにはそういうことあんまり期待してないから」

「おまえなぁ」

 流石にあんまりな発言に思わず春の方を見ると、思ったよりも近くに彼女の顔をがあった。少し照れているのかその頬は朱に染まっていて。

 どちらからとでもなく、自然と互いの唇が重なった。

 最初はついばむように軽く、一度離れてからもう一度、今度はもう少し深く。

 それから一、二分程経って、

「ゴメン、もうムリ」

 と春の方から終わらせた。

「何だよムリって」

 少し不満げにそう言ってやると、春は「だって……」と伏し目がちになって。

「これ以上は、我慢出来なくなっちゃいそうだったから、今日はシュンちゃん達もいるし」

 恥ずかしそうに言う春から、俊介はさり気なく視線を逸らす。

 ああ、もう! なんでこう――

「……風呂入ってくる」

 別に必要の無い宣言をわざわざ口にしてから健一は立ち上がり、そのまま居間の外へと出た。

 何でこう――こっちの方が色々我慢できなくなるようなことを言うかなおまえは!

 悶々としながら扉を後ろ手に閉めたときふと、今朝方俊介が言っていたことを思い出した。

『どう? かわいいでしょ俺の奥さん』

 なんの。

「俺の奥さんだって負けちゃいねぇぞ」

 呟いてから急激に恥ずかしくなって、健一はそそくさと風呂場へと向かって歩き出す。

 しかしその顔は人知れず、しかし盛大にニヤけていた。

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