第10話

「トイレに行ったっきり、なかなかな帰ってこないから、どこで何してるのかと思ったら」

 言いながら、俊介がはしごを登り切るとその手には徳利とおちょこが二つ。

「春ちゃんに熱燗にしてもらった。偶には外で月見酒、て言うのも乙なもんでしょう」

「隣良い?」と聞いてきたが答えを聞くよりも早く、俊介は健一の隣に腰を下ろした。

「子供の頃、雪の日にこうやって屋根に上って遊んだことあったよね」

「あったなそんなことも」

 確かあれは、俊介と知り合ってから最初の冬だった。

 積もった雪の上に屋根から飛び降りたり、雪を固めた滑り台で滑り降りたりなんてこの辺の人間なら一度はやる遊びだったが、よそから越してきた俊介は経験したことがなく、一度やってみたいと言い出したのだ。

 当時は中学生にもなって雪遊びなんてと思っていたがやってみると、童心に戻って案外楽しかったのを憶えている。

「楽しかったなぁ、あの時は」

「そうだな」

 そこで、会話が途切れた。

 喋らないでいるとこの場所は本当に静かになる。

「今日はごめん」

 突然きた謝罪に謝られた建一の方が困惑する。

「急にどうしたよ? 別にお前から謝られなきゃならんことされた覚えはないぞ」

 そう言うが、俊介はゆっくりと首を横に振った。

「急に押しかけてその上、泊まることにまでなっちゃっただろう」

「何を今更。それに泊まって行けって言ったのはこっちの方だ、別にお前が気にするこっちゃあないだろ」

「いやぁ実はそうでもなかったりするんだよね、これが」

 言いながら俊介お猪口に酒を注ぐ。

「別に春ちゃんが言い出さなくても、今日はどうにかここに泊めてもらうつもりだったんだよ。だから正直、春ちゃんの方から誘ってもらえたのはラッキーだった」

「泊めてもらうつもりだったって、どうしてまた?」

「それはね――」

 言いながら俊介は建一へ酒を注いだお猪口を差し出す。

「こうして建一とお酒を飲みたかったからさ。以外となかっただろうこういう機会」

 言われてみれば確かに、今まで俊介が帰ってくるのは精々が正月に申し訳程度に顔を出す程度だった。

 正月となると建一の方も親族との集まりばかりで、互いに顔を見せることはあってもこうして落ち着いて酒を飲むという機会は確かになかったように思える。

「たく、なんだよ改まって。気色の悪い」

 悪態をつきながら差し出された酒を受け取ると、建一は湯気を立てているそれを一思いに煽った。

 熱いほどに暖められた日本酒が冷えてきていた体を、内側からじんわりと心地よく染みて暖めてくれる。

「……建一はあんまり気乗りしてなかっただろう? 俺がここに顔出すことにさ」

 突然、さっくりと図星をつかれて思わず、横に座る俊介の顔を見る。

 その表情は涼しげで、視線は夜空に浮かぶ月へと向けられている。

 一瞬どう言い訳をしようかと考え……やめた。

 今更、取り繕ったところでみっともないだけだ。

「……どうして分かった?」

「健一のそう言う潔いところ、俺は好きだよ」

「茶化すんじゃねぇよ。ちゃんと答えろ」

 俊介が笑いながらおちょこに酒を注ぐ。

「分かるさ、何となくだけどね」

 穏やかなその声には気を害したような気配はなく、そのことが逆に健一の良心を疼かせた。

「……すまなかったな。別にお前が悪いわけじゃねぇんだ」

「いいよ別に、気を悪くしてる訳じゃないし。ただ、もしさ」

 そう前置きをしてから、俊介はニッと笑って。

「もし何か悩み事とかあるなら話してみない? 楽になるかもよ。余計なお世話かもだけどさ」

 さわやかにそう言ってみせる。

 そうかそこまでお見通しか。

 自分がウジウジ悩んでいることも悟られていたと思うと恥ずかしいような、いっそ清々しいような。

 まったく――

「すげぇヤツだよなぁ、昔からお前は」

 酔っていたのだろうか、ポロッとそんな言葉が滑り出た。

「……また随分と酔ってるみたいだね。健一が俺のこと褒めるなんて」

「そうだな。確かに素面だったらこんなこと言わねぇな。多分、後で死にたくなる」

 それでも今は気分が良かった。詰まったてたものが取れていく様な、そんな爽快感があった。

「……聞いたからには、責任もって最後まで聞けよ」

 そう前置くと俊介は「よっしゃ来い」と身構える。

 相撲のぶつかり稽古かなにかかこれは。

「……高校の頃、春が東京の大学に受かってったって事、知ってたか?」

「いや、初めて聞いた」

「お前が上京するちょっと前、春に東京行くべきかどうか相談されてな。そんで、行くの止めるように言っちまったんだよ。それっぽい理由付けて、遠回しに」

「大学に受かったからって、そこに進学しなきゃいけないわけじゃないし。地元に残るのだって選択の一つじゃないか」

「違うんだよ」

「何が?」

「そん時、俺は春の事を考えてたわけじゃない。俺がそうしたいから、春を東京に行かせないようにしたんだ」

 あの時。

 建一は春の将来の事なんてこれっぽっちも考えておらず、ただただ焦りだけが心の中にあった。

 春が東京の大学に行くかもしれないと、もしそうなってしまったら――

「そうなってしまったら、お前に春を取られちまうって何でかあの時はそう思っちまった」

 そんな根拠のない強迫観念に駆られて進路に悩んでいた春の背中を、自分の都合の良い方に建一は押した。

「だから俺、思っちまったんだよ。お前が上京したあの日」

 別れに涙を流す春の横で、俊介を乗せた電車が離れていくのを眺めながら。

「よかったって。春が残ってお前がいなくなることに安心して喜んでた」

 そうして、事はまんまと建一の思惑通りに進んでしまった。

 俊介がいなくなって寂しがる春を慰めながら、自分は彼女の隣の席にちゃっかり座った。

 そうなるように、仕向けたのは自分のくせに。

 酒のつがれたおちょこの中を覗いてみれば、そこには親に怒られている子供のような、情け無い表情の自分がいる。

「どうして春と結婚しないのかって、お前聞いたな。周りからも耳にタコができるくらい言われたよ」

 いつまでもくっつこうとしない二人にやきもきしていることを最近、周りの人間は隠さなくなってきていた。

 特に両親からは顔を合わせる度に「いつまで中途半端なことを続けるつもりだ」と小言を言われる。

 中途半端なことをしているのは自覚しているし、その台詞が春やその家族への申し訳なさや心配から来ている事が察せられるだけに何も言い返せず、いつも曖昧な事を言って逃げを打つ。

 こういうとき、近所付き合いの深い田舎であることが鬱陶しく感じる。

 指輪の相場だとか、結婚式のやり方だとかをこっそり調べたことはある、でも――

「考える度、あの時の事を責めるんだよ。こう胸の中にいる誰かがさ」

 人の将来を自分にとって、都合が良いかどうかで決める様な身勝手な人間が。

 友人との別れのときに、よかったとその事を喜ぶ様な薄情な人間が。

 彼女と一緒になって、幸せになって良いと思ってるのか?

 そんな聞こえる筈のない声が、どこからか聞こえてくる。

 こんなのただの被害妄想だ。

 そう分かっていながらも、一度考えてしまうと、思考はマイナス方向に突っ走って止まらなくなる。

 だから次第に、結婚について努めて考えない様になって、春との関係もズルズルと続けた。

 まるで鎖に絡め取られたように、その場から前にも後ろにも動けない。

「……後悔してるの? 春ちゃんをひきとめたこと」

「後悔? ……そうだな、後悔してるんだろうな俺は」

 あの時、春のことを想うのなら背中を押してやるべきだった。

 東京は大変だろうけど、お前なら大丈夫だ、頑張れよって言ってやるべきだった。

「お前がこっち来るって聞いたとき、乗り気じゃなかのは、なんつうか、気まずかったんだよ。あん時の事を思い出しちまうから。こういうの、会わせる顔がないって言うんだろうな」

 苦笑を浮かべて「最低だよな」と自嘲をもらす。

 俊介はただ静かに空に浮かぶ月を見あげ建一の話を聞いていた。

 その横顔から今、何を思っているのか窺う事は出来ない。

「あの時に戻れたらな。そしたら――」

「なにも変わりはしないよ」

 その時、建一の独白に突然、俊介の言葉が割って入った。

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