ウサギのパン屋さん

「君のことを待っていたよ」


ㅤそう言って受け入れられたのは、温かな世界だった。太陽の光を意識したのなんて、いつぶりだろうか。いつも下を向いて歩いているので、曇天も、晴天も、変わらない。

ㅤ目を焼く暑さに俯くと、芽吹いたばかりの若葉が目に入った。


「ここは暑いだろう? 中に入ろう」


ㅤ柔らかな声に導かれるまま、目の前にある小屋に入る。中はほの暗く、涼しい。閉じられたカーテンを背景に、目の前の男を見た。どこかで会ったことがあるような男は、銀髪を揺らし、柔和に微笑んでいる。


「もうそろそろ、来るはずだ」


ㅤ何が? と問うよりも早く、扉を叩く音が聞こえた。性急さを感じさせるそれに、男は緩慢な動きで扉に向かう。

ㅤ開いた先には、ウサギがいた。俺の腰ほどの身長のウサギは、ぴょん、と跳ねる。


「やあ、こんにちは。今日も配達ありがとう」


ㅤ男は朗らかにウサギに話しかける。ウサギは男に何かを手渡すと、またひと跳ねして、去っていった。後ろ姿にふわふわの尻尾が揺れる。


「は? 何、え、着ぐるみ……?」


ㅤ着ぐるみにしては小さく、本物にしては大きすぎるウサギに壁際まで後ずさった俺を見て、男は、あははと笑った。笑うなよ。


「ウサギだよ。見たことない?」

「あるに決まってるだろ」

「UMAでも見たような顔してるから」


ㅤそりゃ、そんな顔にもなる。男は詳しく語るつもりは無いようで、先程ウサギから受け取った紙袋を、テーブルに置いた。


「パン屋さんなんだよ。彼は」


ㅤオスなのか。


「君のために焼いたんだと言っていただろう。引越し祝いだ」

「いや、何も言ってなかったと思うけど」


ㅤ男は首を傾げた。


「あれ、まだ聞こえないんだ」

「聞こえない?」

「だーいじょうぶ。すぐにおしゃべり出来るようになるよ」


ㅤ冷めないうちに食べようね、と、どこかへ去っていった男は、真っ白な皿を二枚持って戻ってきた。紙袋から出した丸いパンをそれぞれの皿に一つずつ置く。表面がザラザラとしているので、フランスパンだろうか。


「さあ、座って」


ㅤ促され、壁際からテーブルに寄る。恐る恐る椅子を引いて、座った。同じく男も席に着き、両手を合わせる。


「いただきます」

「い、いただきます」


ㅤここまでお膳立てされたら、食べないわけにもいかないだろう。そういえば、お腹が空いていたような気もする。素手で掴んだパンの感触はやはり固く、香ばしい匂いがする。おずおずと口に運び、ひと口。


「……美味しい」

「でしょう? 村一番のパン屋さんだよ。村にパン屋さんは一個しかないけどね」


ㅤまだ微かに温かいパンは、噛むと甘い。小麦の香りが口に広がる。もうひと口、今度は少し大きく齧った。美味しい。パン屋さんのパンなんて、食べるのはいつぶりだろう。普段俺は何を食べていただろうか。思い出そうとするが、記憶はぼんやりとしている。昨日食べたものすら思い出せないなんて、記憶の劣化が激しすぎやしないか。


「まだあるよ」


ㅤそう言って男は、紙袋から、ソーセージがキツネ色の生地にくるまれたパンを取り出す。キツネ色といえば、先程のウサギのように、キツネもいるのだろうか。何屋さんなのだろう。郵便屋さんなんて、似合うかもしれない。なんだか頭がふわふわする。


「これはね、ソーセージエピ」

「ソーセージエピ」

「可愛い名前だよね」


ㅤソーセージ三つ分ほどちぎって渡される。男が口いっぱいに頬張るので、つられて大きく口を開ける。噛む。固い皮を破るとじゅわりと油が出てくる。肉の旨み。肉だなんて、パン屋さんのパンよりももっと食べていないような気がする。


「美味しいね」


ㅤ頷く。


「まだまだあるからね」


ㅤそれほど大きく見えない紙袋に、いったい何個入っているのだろう。メロンパンや、クロワッサン。ベーグルのようなものを次々取り出す男を見ながら、ごくりと喉を鳴らした。

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