33 罠

「うっ……」

「地獄だったろうぜ」

 転がった黒川くろかわを追うように、マサキは歩み寄る。


「自分の両親と同じようなろくでなしに、思い知らせてやろうぜ、とさ。広田ひろたにそう言われて、ルイはついつい、話に引き込まれちまった。ところがそれが、妻子を捨てて離婚した男を襲撃するっていう、れっきとした犯罪行為にほかならないってわかったら、そりゃルイだって驚くわな。そんなことできないって拒否したら、今度は脅しにかかってきた。ここまできてやめられると思ってるのか、どうしても嫌だってんなら、お前の家庭環境をネットでも職場でもバラしてやるってよ。ルイがどんだけの絶望に突き落とされたか、想像してみたことあんのかよ!」

 マサキは、黒川の襟を握ると、頬に一撃くらわせ、放り棄てた。


「それだけひどい目に遭ってきて、ルイはすげえいい子なんだ。そのぶん、どれだけつらかったかと思うぜ。泣きながら俺に相談してきたんだ。味方になってやんなきゃ嘘だろうよ。けど、あっちは弱っちい臆病者だけど、ルイを脅迫するネタ握ってんだ。うかつなマネできねえ。俺頭よくねえしな。だから俺はタカに相談したんだよ。大丈夫だまかせろ、広田って奴にお灸をすえてやる、ルイの味方だって知られないためにオメエは来ない方がいいってえから、タカたちにまかせたんだよ。万事うまくやってくれるぜ」


「ルイは……タカのこと、知ってんのか……」

「気安く名前呼ぶんじゃねえったろが!」

 どすっ。マサキは再度、黒川の体を踏みつけた。


「いっぺん紹介したことがあるよ。タカも手下もちょっとコワモテだから、ルイはぎょっとしてたみてえだけどな。けど頼りになる奴なんだよ」

 ぐり、ぐり、とマサキは、力を失った黒川の体を踏みにじる。

「しゃしゃり出てくんじゃねえ。ルイが解放されるのを邪魔する奴は、俺が許さねえぞ。絶対に」

 マサキは足に力をこめた。優越感と怒りにまかせて。


 ……何が起こったのか、マサキには理解が追いつかなかった。突然、足首をつかまれたかと思うと、天地がひっくり返ったのだ。後頭部をぶつけ、ふらつく意識をどうにかおさえながら上体を起こしたとき、泥まみれの男が悠然とこちらに背を向けて、バイクに歩み寄るのが見えた。


 何があった?


 ――アイツにやられたのか? たった今まで、オレにずたぼろにたたきのめされて、地面に這いつくばっていたあの男に? ……嘘だろう。


 黒川はバイクのそばで、半ばマサキに体を向けながら、シートの上に置かれたスマホに話しかけた。


「おい、聞こえたか?」

『しっかり聞こえたよん』


 スピーカーをオンにしているのだろう、場違いなほど明るい、流麗で美しいテナーが流れてきた。スマホの画面に表示されている名前など、まだ座りこんだままのマサキには見えるわけがない。


「じゃ、そっち頼むわ。おれも、こいつ片づけたら動く。なんかわかったら追って知らせる」

 マサキに聞かれているので、なるべく抽象的な表現に徹する。

『オッケー。けど、無理しないで、休んだら?』


 ……黒川は、マサキをながめると、にっと唇を上げた。


「ちっとも、無理してねえよ」


 奇妙な電流が、マサキの全身を貫いた。


 まさか。……まさかこいつは…………。


 彼の目の前で黒川は、「じゃ後でな」とかなんとか話すと、画面の一部に触れた。通話を終わらせたらしい。


「さて、おれは急用ができたんでな。そろそろ終わりにさせてもらう」

 こともなげな口調で、再びバイクから離れてこちらに歩いて来た黒川に、マサキはかすれた声を押し出した。


「おめえ、まさか、今まで……わざと…………」

「名演技だったろ?」


 髪をくしゃくしゃに乱し、土とあざに汚れていながら、黒川の顔色はさっきまでと打って変わって、落ち着き払って平然としたものになっていた。勝ち誇った様子ですらない。むしろ面倒くさそうな、興味のなさそうな、醒めた感情とさえ見える。


 力を振り絞ってもほんの一歩及ばず、敗北してしまう――そうふるまって、優越感にどっぷり浸し込んでやった相手に、あわれっぽく懇願すれば、相手はいい気分になって、よけいな情報まで嬉々としてしゃべってくれる。経験則で、黒川はそれを知っていた。だから活用したのである。少々回りくどいものの、聞きたいことがいくつもある場合にはかえって効果的だ。あれもこれも質問しなくても、向こうが大喜びで、自発的にいくらでもべらべらしゃべってくれるのだから。それに、嘘をつかれる確率が低い。……こちらも適度に反撃したり、ある程度のダメージは負ったり、かろうじて急所は守ったりと、楽をしているとは謙遜でも言えないのだが。

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