14 腹が減りすぎる

 黒川くろかわが乗り継いだ電車は市内を離れ、隣の町に入っていた。


 ――あのオッサンの身元がわかったのは、望外の収穫だった。最初に見たときは尾行することも考えたが、松下まつした先生があそこまで詳しく教えてくれたなら、当面尾行の必要はない。乗っていた車もおそらく公用車だろう。


 黒川は降りた。松下に教えてもらった、幣原しではらルイの住まいの最寄り駅だ。そこそこ大きく、駅の片側に繁華街が、もう片方に住宅地が広がる。

「最近は、個人情報の扱いがいろいろ言われるからね」

 松下が気にしたので、黒川の方で、詳しい住所については型どおり謝絶した。あのとき見かけたのがルイ本人かどうか気になっただけだから、と。根掘り葉掘り聞くことは、松下の疑念を刺激することにしかならない。松下によると、ルイはこの駅の近くのアパートにひとり暮らししながら、町内の工場で働いているということだった。


 ――とはいえ、その後転居している可能性もある。黒川はあまり期待せず、それでもゼロではない可能性をさぐって、ぶらぶらと駅のそばを歩いた。昼を過ぎている。腹が減ったが、駅のそばの飲食店はたいがい満席だった。後でコンビニの飯でも食うかと考え、ガムで腹をごまかしながら、めぼしいアパートを見て回る。駅のそばだけあって、けっこう多い。

 本当にこの近くに住んでいるのだとしたら、市内で起こった事件への関与は……まだ否定できない。


「高校行かずに働いてる女のひとり暮らしだから、家賃はあまり高くなさそうなところだな」

 などとつぶやく黒川の足が、一瞬だけ乱れた。駅前から1本入った、狭く日当たりのよくない通りを物色しているうち、いかにも家賃の安そうなアパートを見つけたのだ。だが黒川の注意を引いたのは、アパートそのものよりも、駐車場に停まった1台の白い車だった。ナンバーからして明らかに、広田ひろたの乗っていた公用車だった。

 時間的に、市内にあるはずの児童相談所に一度戻ったとは思えない。つまり、ここまで乗って来た人物は……。


 ――当たりか?


 黒川はポケットからスマホを取り出した。操作するふりをしながら歩調を落とし、身を隠す場所を探す。アパートは廊下が建物の外側についている構造で、広田がどの部屋から出てくるのかがわかりやすいが、こちらも見つかりやすい。真ん前にはいない方がいいだろう。どうやら道を挟んだ向かい側は見つかりやすく、隠れる場所もなさそうだということで、アパートの数軒となりの路地に入り、そこからときどき首を突き出して様子を見ることにした。道が微妙なカーブを描いているので、外構廊下がどうにか見える。スマホをいじっていれば、どこで立ち止まっても不自然には見えないから便利なものだ。


 人通りはあまりない。お年を召した女性、お母さんと就学前の子ども、大学生らしい男の二人連れ、見かけたのはその程度だ。車通りも少ない。


 黒川がここに立ち止まって10分も経っていないだろう。ガラのよくなさそうな、黒川より少し年上に見える男が通りかかったところで、アパート2階の廊下に、広田が姿を現した。階段を下りてくる。黒川は、引っ込めかけた頭を、ぎりぎりのところまで出し直した。というのも、通りかかった男が、明らかに急角度で階段に歩み寄り、広田の目の前で立ち止まったからである。男と広田が何か話し始めた。口調が荒い。どうやら男が広田につっかかっているようだ。やがて広田はそそくさと男から離れ、男は何か捨て台詞を吐いて階段を上っていく。

「おいおい、情報が交通渋滞起こしてるぜ。ラッキーなのか、作者の都合か」

 意味不明なことを頭の中でつぶやき、黒川は目で男を追った。チャイムを押したのは明らかに、広田が出てきた部屋だ。黒川は道路に背を向けてスマホの操作を続け、広田が通過する際に万が一でも顔を見られないよう備えた。が、広田の車は向こうへ行ってしまったらしく、黒川の背後を通ることはなかった。

 もし、黒川がこのときアパートを観察することができたなら、さっきの男が広田の車をじっとにらみつけているのを目撃することができたかもしれない。


 しばらく間をおいてから、黒川は再度、アパートを盗み見た。男の姿はなかった。

 ――さっきの待ち時間と合算して15分が限界、と設定する。それでも出て来なかったらあきらめる。いくらなんでも、それ以上ここに立ち止まっていたら、近所の人から不審者扱いされるだろう。


 この日、彼はとことんツイていた。数分したところで、部屋から男が出てきたのだ。何やら、室内の女性と言い争う声がわずかに聞こえる。その結果、つまみ出されたらしい。

 やはりルイがそこにいるのか。

「ルイのやつ、仕事サボって何やってんだかよ」

 自身のことを高く遠い棚の上に放り上げて、黒川はボヤいた。いや、姿を見たわけではないから、本当にルイかどうかの断定には早い。男は舌打ちしながら足早に下りてきて、もと来た道を引き返して行った。

 あの道は駅だな、と確信した黒川は、迂回するように細道を足早に歩いて、駅に戻った。ルイのことも気になるが、あのアパートはひとまずの手掛かりになりそうだとわかったことだし、今はこの男が優先だ。どこまで電車に乗ろうと支障のないよう、現金をチャージしておく。


 ほどなくあの男が現れた。しかし、彼は改札に近づくこともなく、構内を横切って別の出入口へと歩いていく。黒川は人通りに紛れ、ぶらぶらとした足取りで追った。バイクのヘルメットをかかえていなくてよかったと思う。もしあれを抱えていたら、明らかに不自然で尾行には向くまい。だがそれはともかく、腹が減った。ごちゃついた繁華街を通り抜け、男は裏通りへ入って行く。黒川はスマホを耳に当て、「おう、今着いた」などと架空の相手と会話しながら、数十メートル離れて後を追う。


 埃っぽい道。ガードのそばに小さなバーらしき店があり、男は躊躇することなく中へ入って行った。時刻からして当然準備中だが、知り合いの店なのだろうか。黒川は周囲をざっと見回した。人も車もほとんど通らない。ガード下は駐車場になっているが、一角は空地で、煙草の吸殻や空き缶、菓子の空き袋などが散らかっている。車がどうにか入れるかという細い道は、男が入って行ったバーの前を通ってしばらく行くと、高架の下の壁に当たって行き止まりになっていた。そこまで見届けると、黒川は引き返した。いい加減空腹も限界だった。

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