200×年 6月のある週 金曜日

この日はなんとか始業より少し早い8時15分に会社に着いた。

仙波さんに、やればできるじゃない、と一応お褒めの言葉をもらった。

叱られずに済んだ。

明日からもっと早く来れるね、と言われた。

勘弁してくれ。


そして、この日から私はスパイということになった。

初対面のお客さんにまで、産業スパイと知り合いの三井さん、産業スパイの三井さん、ヤクザとつながりのある三井さん、学生時代から外国で麻薬取引をしていた三井さんとニコニコ顔で紹介された。

まぁあんたスパイなの~とお客さんもニコニコで返す。

どっちもただただ無邪気なんだ。

もう、自分がされた事に対して何か感じる気力もなくなった。

脳がぼうっとなる。

それだけだ。

どうせこの人達も、まだ20歳の単なる新卒事務員の私が外国で麻薬を売ってただの、昨日会った人が産業スパイだなんて、さすがに本気で言ってる訳ではないんだろう。


そう、思っていた。

この日の午前10時ぐらいまでは。


この時私はいつものように領収書を計算していた。

居酒屋やキャバクラの領収書が多い。

文房具は1円でも高いとガミガミ叱られる。

この間、便利だろうと思って両面テープを買ったら

「両面テープだなんて!普通のセロテープを折り曲げて使えばいいでしょ!そう思わない!?」

と仙波さんに叱られた。

文具や必要経費はいつも爪に火を点す思いで切り詰めているのに、居酒屋や飲み会は何千円オーバーしてもいいんだよね、この会社。

本社から偉いさんが来るともう会社をあげてのどんちゃん騒ぎになる。

この間なんか、専務さんが来たとかなんとかでいわゆる大人のお店に社員全員連れて行かれた。

私は、ああいうお店は総じてキャバクラというのだと思っていたが、あとで調べたら私達が連れて行かれたのはラウンジという種類の店だった。

実は〇〇支店の営業には男性が二人おり、この二人は兄弟だ。

それを知った専務はラウンジのソファでボロ泣きした。

「兄弟で家族で我が社に入ってくれるなんて…わしはそういうのに憧れとったんだあぁあ…」

心底しらけた。

今になって気になるのは、私と同期で入った子達って確か高卒だから未成年だったことだ。

よく考えたらああいうお店に未成年を連れてって良かったんだろうか。



「あ、そうそう三井さん」

仙波さんがUSBメモリを持ってきた。

「これ本社の制作の人達の新作案のデータが入ってるの。ちょっとあずかってて」

はぁ…。

「ちゃんと聞いてる?大丈夫?」

仙波さんはよくこの「大丈夫?」を言う。

不安そうに私を見て不安そうな声で聞く。

なぜかこれがわけもなくつらい。

つらいと思える心はまだ残ってるんだなぁと我ながら感心した。

そんなもの、何の役にも立たないのに。

私はとりあえずUSBメモリをポケットに入れた。


そのとき、またショー子さんが話しかけてきた。

「三井さん、ちょっと」

仙波さんはショー子さんには弱い。

「ショー子ちゃんが呼んでるよ、行きなさい」

私はショー子さんに呼ばれるまま、会社の給湯室に行った。


いつ来てもかび臭い給湯室だ。

茶渋がしみついた湯呑が転がっている。

こんなところでショー子さんと二人きりって最悪だ。

何の用ですかと聞くとショー子さんは口を開いた。

「三井さん…あなたまだ、外国で麻薬を売ってるの?」

…ショー子さんの中では私が外国の麻薬販売員というのは事実になってしまったようだ。

さすがにこれは否定しなければ。

私は、麻薬なんて見た事も触った事もない、と正直に言うとショー子さんは首をゆっくり振った。

「もう隠さなくていいのよ」

「知らないってば」

「三井さん」

ショー子さんは、私を落ち着かせるような口調で言った。

「仙波さんがね……思い切って私だけに話してくれたの。三井さんの通帳に変な振り込みがあったって」

ああ…昨日の郵便局で見られたのか…

人の通帳なんか見るなよ…

「なんか…定期的に何万か振り込まれてたって…だってご実家は貧乏なんでしょ?」

なんであんな一瞬でそんなによく見えたんだ。

これは下手に隠す方がいろいろうるさいだろうと、私はカバンから通帳を取り出してショー子さんに見せた。

通帳を見れば私にやましい点が無いのは一目瞭然だ。

そう思っていた。

この時までは。

ショー子さんは私の通帳をパラパラと見て、途中で「え……え? え…ここ…じゅう…なな…?」とつぶやくように言っていた。

「なに…このお金…なんでこんなに…」

とショー子さんが言うので、それは短大の夏休みのバイト代だよと返答した。

夏休みは忙しい日もあったので多少店長が色を付けてくれた。

私は、服もCDもカラオケ代もランチも友達との旅行代だって、全部自分で働いたお金で楽しんだ。

学費と生活費は流石に親に甘えていたけど払える時は少しずつ払っていた。

奨学金は就職してから少しずつ返していくつもりだった。

この会社の10万足らずの薄給ではそれも到底かなわぬ夢だが。

私は、そういう事を伝えた。

だから貧乏でもないしCD買ったぐらいでそんな心配されなくていい、と結んだ。

ショー子さんはしばらく私の通帳を凝視したあと、重い口を開いた。

「やっぱりお父さんの言う通りだったんだ…。本当に、貧乏なんだね」

相変わらずショー子さんの日本語はわからない。

何言ってんの?と私が言うとショー子さんはとても悲しそうな顔で言った。


「これ…夜の仕事のお給料でしょ」


…一瞬何を言われたかわからなかった。

「女の子でこんなにもらえる仕事なんてそれしかないからね…そうか、大学ってそのお店の事だったんだね…」

ショー子さんの目には涙が潤んでいる。

私は、いや、普通にバイト代だよ、社名書いてあるでしょと通帳を指さして言ったが

「三井さん」

と潤んだ、かつしっかりした目で言われた。

そしてショー子さんは、すごいう気迫のこもった顔で、殺し文句を言った。


「普通の人が、17万円も、何に使うっていうの?」


………………………

………………………………

……………………………………


「この会社の給料ぐらいあれば充分生きていけるじゃん。ねぇ。おかしいでしょこんな金額。どう?言い返せないでしょ」

いや、言い返せないでしょって…

私は、同じ短大の友達は何なら夏休みだけで20万円稼いだ子もいると話したが

「その友達はもっと高い麻薬を売ったのね」

とけんもほろろ。

力自慢の男子で体力系のバイトを掛け持ちしてもっと大金をゲットした子もいたと話したが

「男の人の話はしてないでしょ」

「男と女は違うじゃない」

「男の人はとにかく、女の子が10万円もお金持っててどうすんの」

とまったく話が通じなかった。

私の中学時代の友達には、小学生の頃からお年玉を貯金し続けて中学でもう既に十数万もの貯金を貯めた子がいたと話したが

「中学の頃から麻薬売ってたの!?」

と、もうなんなのかさっぱりわからない返答をされた。

ショー子さんはさらにめまいがしそうな話をつづけた。

「こないだは言いそびれたけどね、お父さんがね、言ってたの」

ショー子さんのお父さんが「うるさい」「バウ」「ん!」以外の日本語を話すところ想像できない。

あ、そうか、トイレでA子ちゃんに話してたっけ。

あれは思い出すだけで身の毛がよだつ。

「三井さん、最初にこの会社来た時、カフェとかコンビニ無いかって言ってたじゃない。あれ、なんであんな変な事言うのかなってずっと気になってたけど、そのことをうちのお父さんに話したらお父さんこう言ったんだよ。そいつ、夜の仕事してたんじゃないかって」

なんで…

なんでそうなる…

「ああいう仕事する人ってお客さんと外食したりするからそいつは外食癖がついてるんじゃないのかって…私は、まさか三井さんみたいな子がって思ったけど」

そんなわけない、違うってば、と言ったら

「でも三井さん、運転免許持ってないじゃない!」

とビシッと言われた。

ミステリドラマで探偵役が犯人に何か決定的な証拠をつきつける時のような口調だった。

確かに私は運転免許を持っていない。

でも、運転免許と夜の仕事がどういう関係が…?

私は、なんでそこで運転免許が出てくるの?と聞いた。

「なんでって…」

ショー子さんは口を丸くして本当にびっくりした顔をした。

「そっか…そこまで知らないんだね。本当に世間知らずなんだね」

何を?

「普通、運転免許って、高校で取得するんだよ」

え…?

そ、そんなの初めて聞いたけど…

「それなのにおかしいな、三井さん、高校で何してたんだろって思ったのよ。でも家が貧乏だったら高校もまともに通えないしましてや自動車学校なんて行けないよね…」

でも…待てよ。

「オンバイケン」も私の友達は何人か知っていた。

知らない私をヤバイと笑った。

もしかして…免許もそうなの?

言われてみれば短大で取得したという子もいたけど…

もしかして…高校で運転免許を取得するのが普通なの?

私が…おかしいの?

ショー子さんは涙声で続けた。

「本当に…本当だったんだね。ああいう仕事はお客さんやお店に送迎してもらえるから免許が必要ないってお父さん言ってて…ああ、それなら三井さんが免許持ってないことと辻褄あうなあって思って…」

ショー子さんの子供のような無邪気な目からぽろぽろと涙がこぼれた。

「外国で麻薬売ったりしてたのもそういう事だったんだね…なにせ畳も無い家だもんね…そりゃ、お金に困ってるよね…自動車学校にも通えないよね…苦労したんだね…かわいそう…」

ショー子さんはしゃくりあげた。

「本当はね…私、ずっと前からおかしいとは思ってたの…ほら、三井さん、前に、風邪で休んだじゃない。あれで、え?って思ったの」

え?

「だって、普通風邪ぐらいで学校や会社休まないでしょ。うちのお母さんだって熱が38度出たって家事するよ。相変わらず変わった人だなーって思ったけど」

そ…そうなの?

うちの母は体調崩したらパート休んで寝てたけど…

「そのあと三井さん、風邪薬飲んでたけど、あれでもう、ああ、間違いないって思ったよ」

え…なんで?

「なんでって…風邪薬ってふつう、粉薬じゃない。錠剤の風邪薬なんて聞いた事無いよ」

そ…そうなの?

錠剤の風邪薬って…ありえないの?

オンバイケンの件といいわからなくなってきた…

うちが…おかしかったの?

私がおかしかったの…?

「そのあと三井さん、連休明けのお弁当の時、変な瓶の薬飲んでたでしょ」

いや、あれはサプリだ。

それは間違いない。

「確かに瓶はドラッグストアのシールが貼ってたね。でも、そんなのよく考えたらいくらでも手に入るよね。あれ、やっぱりそうだったんだね…」

違う。

それは違う。

あれはドラッグストアで買った。

あれは夢じゃない。

「でも三井さん、もう今は昔のあなたじゃないんだよ…あなたはこの〇〇産業に来た。それはつまり、この会社に選ばれたってことだよ。もう、その時点で、人生を変える準備は整ったんだよ!」

この人は何を言ってるんだ。

でも…

オンバイケンを私は知らない。

私の方がおかしいのか?

私が買ったのはサプリではなかったのか?

ショー子さんは両手で私の二の腕をガシっと掴んだ。

「これが、あなたが本気で変わるチャンスなんだよ!貧乏な家に生まれて、悪い親にいいように利用されて、みじめな人生を送って外国で麻薬を売って夜の仕事までして…そんなかわいそうなあなたに、神様が与えてくれたチャンスなんだよ!!」

これは一体誰の何の話なのか。

「神様に申し訳ないと思わないの!?もっともっと、変わりたいって思わなきゃ!思わなきゃあ!!」

一体この人は何を言っているのか。

声が耳に入らない。

脳が動かない。

めまいがひどい。

宇宙語を囁かれてる感じだ。

「三井さん!ねえ、聞いてる?ほら!」

ばしばしと腕を叩かれる。

「聞いて!しっかり聞いて!あなたはもう一人じゃないのよ!!」

背中も叩かれる。

「ほら、ほらあ!」

バシッバシッバシッ。

何も反応できない。

ああ、叩かれてるなあとしか思わない。

なんか、魂だけ身体から抜けちゃって、横からショー子さんに叩かれてる私を見てるような気分だ。

魂だけ…

あれ?

比喩じゃなくて、ほんとに魂が抜けたような…



私は倒れた。

めまいだった。

仙波さんに「昨日あげたコーヒーちゃんと飲んだの!?」と叱られた。

「ほら、聞いてるの!?」

と、仙波さんにまで肩や背中をバシバシと叩かれた。

ほんとにここの人達は人をよく叩く。

そういう文化なのか。

ショー子さんが「私が本当の事を言って問い詰めてしまったんです…今はそっとしておいてあげてください」とかばってるようで全然かばってないかばい方をした。

ショー子ちゃんがそういうなら、と仙波さんは実にあっさり引いた。



午後1時になった。

まだめまいが収まらない。

足元がふらふらする。

「三井さん」

ショー子さんがあらわれた。

なんかゲームで敵キャラに出会ったときの台詞みたいだ。

敵キャラというのは合ってるな、うん。

「支店長と仙波さんに話をつけてきたよ」

話?

「さ、行こ」

私はショー子さんに連れられるまま、会社の二階に連行された。

この会社に二階があったとは初めて知った。

私、二階から突き落とされるのだろうか…。

二階はものすごくホコリっぽく、一階の100倍ぐらいかび臭かった。

そこには何か倉庫のような一室があった。

ショー子さんは私を連れてその倉庫のような部屋に入った。


「今日はここにいていいから」


ショー子さんは私を置いて、外に出た。

ガチャリと鍵がかかった。


と…

閉じこめられた…


暗い。

晴れた日なので窓から入る明かりでかろうじて明かりはあるが、全体的に暗い部屋だ。

ゴキブリや虫がたくさんいる。

ちらっとだけどムカデが見えた。

うちのアパートでもムカデはさすがにいない。

年季が入って黄ばんだ大量の書類やらファイルやらが所狭しとぎっしりとおいてある。

ただ、何より目を引くものは、壁一面に貼られた半紙だ。

習字でこう書いてある。


「思いやりの心を持とう」

「素直な心で友達を作ろう」

「みんなと仲良くしよう」

「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」


書いてある言葉はいい言葉なんだろうけど、室内の雰囲気と相まって一層不気味に見えた。

中でも異様な書道が二枚あった。

まず1枚目。

真っ黒い■の下に「、」が三つと縦棒が1つ、その横に、非常に読みづらいが恐らく「いかい」と書いてある。

なんだこれ。

まるで宇宙語かどこかの外国語だ。

なにかの暗号だろうか。

そんな宇宙語が書かれた紙がいっぱい貼ってある。

私が最も不気味に感じた習字は、まずカタカナの「ヒ」、その隣にカタカナの「力」、その隣の漢字は「右」、その隣にぐしゃぐしゃの何かが書きなぐってあって本当にわからない。

その隣に「豚」と書いてある。

月偏かどうか微妙だがあまりにぐしゃぐしゃで「豚」にしか見えない。

最後に「魔」と書いてあった。

こっちもあまりにぐしゃぐしゃでかろうじて「魔」と読める。

続けて読むと「ヒカ右■豚魔」

なに…?

「ヒカ右■豚魔」って…

私はふと、子供の頃なにかの本で見た外国の悪魔の絵を思い出した。

あれは豚じゃなくてヤギだったか。

「ヒカ右■豚魔」…なんだかおぞましい化け物の名前にしか見えない。

なんでこの会社、そんな化け物の名前を倉庫に貼ってるんだ。

やだ……怖い……怖い…

背筋が震える。

思わず私はドアを叩いた。

ドアは開かない。

鍵がかかってある。

やだ、怖い、怖いよ。

出して、出して。

お仕置きで倉庫に閉じこめられるなんてこと、子供の頃だってされた事無いのに。

こんなところいやだ。

こんなところ、もういたくない。

お母さん、お母さん。

出して、助けて、お母さん。

家に帰りたいよ…お母さん…

次第に目が痛くなってきた。

やがてひどい鼻水とくしゃみと咳が止まらなくなった。

なにこれ…今度は何の怪奇現象?

いや、怪奇現象じゃない。

科学的な現象だ。

この部屋はひどいホコリまみれだ。

うずたかく積まれたファイルや書類にホコリが何cmも積もっている。

窓から漏れる光の中で無数のホコリが舞っている。

まるで何十年も掃除してないようだ。

これじゃ息が出来ない。

鼻水が止まらない。

ポケットティッシュはカバンの中だ。

まさかこんなところに閉じこめられるなんて思ってもみなかった。

鼻水とくしゃみのせいで頭が回らない。

私はスカートのポケットを漁った。

ポケットに入っていたのはハンカチだけだった。

その時、何かがカン、と落ちる音がした。

頭が働かない。

一刻も早く鼻をかみたい。

何か落ちたかなんて構っていられない。

やっとハンカチを引きずり出した。

ハンカチで鼻を噛んだ。

ハンカチはたちまち鼻水まみれになった。

他にティッシュはないのか。

ティッシュを探していると後ろの方にもう一つドアがあった。

手をかけるとこっちは普通に開いた。

なんだ…出口、あったんだ。

あんな大騒ぎしてバカみたい…

ほんと…私、バカみたいだ…

なんでこんなところに来ちゃったんだろ…

私は涙と鼻水まみれで1階に降りた。

息も絶え絶えで降りて来た私を見て仙波さんが「大丈夫?もうちょっと上にいたら?」と世にも恐ろしい事を言った。

私は、いいです、もう充分です、と涙目で言った。

なぜかショー子さんが私を見て「わかってくれたんだね」とにっこり微笑んだ。

わからなすぎて怖い。



夕方4時。

仙波さんに、さっきのUSBメモリはどうしたかと聞かれた。

ポケットに入れた筈なのに、なかった。

思いつく限りのところを必死で見つからなかった。

「何で無くすの!あれは大事なデータなのよ!」

仙波さんにまた叱られた。



夕方7時。

帰宅した私は社宅でお風呂に入っていた。

いつもは節約のために水浴びか濡れたタオルで身体を拭くだけにしているが、さすがに今日は久しぶりにお風呂を沸かした。

あのおぞましい倉庫に入ったせいでホコリまみれだ。

ヒカ右■豚魔。

夢に出そうなおぞましい筆跡だった。

意味が分からなすぎる。

怖い。

いや、怖いのは日曜日だ。

いよいよあさってが日曜日だ。

タイムリミットが迫っている。

私は、風呂からあがって、敷きっぱなしの布団の上に倒れ込んだ。

このまま目覚めなかったらいいのに……


……………

………………………

……………………………………。


その時、携帯電話が鳴った。

またショー子さんかな…

もしまたショー子さんだったら無視だ、無視。

いちおう携帯電話の画面を見ると、なんとそこには「お父さん」と表示されていた。

珍しい。

父が電話をかけてくるなんて。

もしもし…と出ると父は「元気か」と言った。

そして、信じられない事を言った。


「お前、その…仕事、つらいなら、辞めてもいいんだぞ」


聞き間違えか、あまりの事に都合のいい幻聴かと思った。

あの父がこんな事を言うなんて。

一体どうしたの?と聞くと父はこう言った。

「今日な…名古屋さんがわざわざうちの会社に来て、お前の事を教えてくれたんだ…ほら、お前も昨日会ったんだろう?」

あ…展示場で会った名古屋訛りの人か。

父の話はこうだ。

名古屋さんは今日、父の会社にわざわざ足を運び、○○県の展示場で私に会ったことを父に報告してくれたんだそうだ。

なんと名古屋さんも、昔、○○産業の別の支店に勤めていたらしい。

しかし名古屋さんと、名古屋さんの同僚の営業の人たちは、会社の価値観があまりに自分達と合わないのでついていけなくなった。

ノイローゼにかかり、みなで逃げるように会社を辞めたんだそうだ。

そして今は、父の会社の取引先である別の会社に就職し、過去を忘れかけていた。

しかし昨日、展示場で私と仙波さんに出会い、過去が甦ったんだそうだ。

名古屋さんに出会った時の私は、ノイローゼにかかっていた名古屋さんの同僚の営業の人と同じ顔をしていたそうだ。

名古屋さんはこれを全て父に話し、父を説得してくれた。

わかってくれる人がいた…

私はこれだけで安堵した。

しかし父は次に衝撃的な事を言った。

「それとな…母さんが倒れた」

え…!?

まさか私が毎晩愚痴を吐いたから、お母さんにストレスを与えてしまったのかと聞くと

「なに、軽い胃炎だ。命に別状はない。実はお前が就職する前から母さん具合が悪かったんだ」

と言われた。

ちがう…確実に私のせいだ…

私が毎晩母をストレスのはけ口にしたから…

「いや、本当に母さん、そこまで重症じゃないんだ。心配するほどじゃない。でもな、逆に考えたらこれは口実に出来るぞ。会社には、実の親が瀕死の重症で急遽帰らないといけなくなった、今生の別れになるかもしれんとか、適当に大げさに言い訳しなさい。時には嘘も方便だ。なに、父さんだって昔、何人か親戚殺したもんだ、ははは」

ああ、お母さんが具合が悪いのに、私はこれを好機と思い喜んでいる…

私はなんて親不孝なんだろう…

でも…たったそれだけであの会社が素直に聞き入れてくれるだろうか。

さすがに親の命を出せば…いやどうだろう。

「なんなら俺が明日、直接そっちに迎えに行くよ。夕方ごろになるけど、大丈夫か」

お願いそうしてと私は泣き叫んだ。

「じゃあ、明日の夕方6時に〇〇中央駅で待ってる。遅れるようなら連絡するから。な、それまでの我慢だ」

明日…

明日、解放される…。

明日の夕方6時に、私が最初に降りたあの駅に行けば…



電話を切った途端、急にお腹が空いた。

この日は久しぶりに夕飯を作った。

実家から持ってきた古いCDラジカセでUKロックをかけながら見切り品の野菜で簡単な野菜炒めを作った。

おかしいほどテンションが上がった。

脳から変な麻薬がいっぱい出てるような感じだ。

即席野菜炒め定食を急いでかっこんだら急激な眠気が襲って来た。

私は気絶するように寝た。

ああ…こんなに安堵して寝たのはどれだけぶりだろう………。

明日、解放されるんだ………

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る