200×年 6月のある週 水曜日

この日は社員全員営業という行事の日だった。

「制作も総理も、みな、営業の苦労を知れ!」

支店長がいつも以上に鼻の穴を膨らませて言った。

みんなで遠くの知らない町の別の支店に行き、知らない町で飛び込み営業する。

営業が成功すれば1万円のボーナスがつくという。

つまり歩合制である。

かつて仙波さんとショー子さんは、この行事で何件か営業を成功させてけっこうなボーナスをもらっていたと話していた。

今思えば二人ともこの〇〇県で生まれ育ったんだから人脈もあって当然だ。

支店長の車に乗せられて見知らぬ街に連れて行かれながら、私はもう何十回、何百回目かわからない後悔をした。

こんな行事があるとわかっていたら絶対にこの会社だけは履歴書を送らなかったのに。

私は接客は得意だが営業は大の苦手だ。

いらっしゃいませは短大時代のファミマで鍛えて店長お墨付きだけど、ごめんくださいは大の苦手だ。

それも飛び込みときている。

そもそも自分が営業職に向いていないのが分かっているから事務を希望したのに。

だいたい、事務も制作も営業の苦労を知れというなら、営業だって制作や事務の苦労を知らなきゃいけないんじゃなかろうか。

それを言ったら支店長ならおそらく屁理屈を言うなと叱るだろう。

今のところ、営業の人達が制作や経理の業務内容の研修を受けたという話は聞かない。


その別支店は、うちの支店から車で1時間ほどの距離にあった。

農家さんが多い事は食料自給率の話を論ずるなら良い事なんだろうけど、今の私にはげんなりのタネでしかない。

その支店の初対面の知らない人とコンビを組まされ、一日中飛び込み営業をすることになった。

私はコンビを組んだ知らないさんに、営業の人ですか?と聞いたら、あたしは制作よとあっさり言われた。

何だかよくわからない「思いやりの十か条」とかいう文言の書かれたティッシュやメモ帳などのノベルティ、それと会社の名刺を手提げの紙袋にたくさん入れられてみんなは外に出された。

とにかく暑い日だった。

炎天下の道路を歩き続けた。

右も左も田んぼと山しかない。

水分に関する事は言われなかったしペットボトルも持ってきていなかった。

よく熱中症にならなかったもんだと思う。

本当はペットボトルでも持ってきたかったけど〇〇産業は仕事中は飲食禁止だ。

ある日、やっと遠くのコンビニで買えた新発売のペットボトルのジュースをこっそり会社で飲んでいたらこっぴどく叱られた。

仕事中に、しかも変なものを飲むんじゃないと。

今日も何か言われそうなので飲み物は持ってきていない。


どれだけ歩いただろう。

この町も歩けども歩けども田んぼしかない。

誤解しないでほしいのだが、私は別に田園風景が嫌いな訳ではないしましてや蔑んでるわけでもない。

目には美しいとてもきれいな風景だと思う。

私が小さい頃は実家の周囲に田んぼもたくさんあったし、子供の頃は夏は虫取り網、冬は流行のアニメの絵柄が描かれた凧を振り回した。

今思えば田んぼで遊んで良かったのかなと思うけど、地主さんは特に何も言わなかった。

優しかったんだと思う。

今でこそその田んぼは地主さんが手放して、全部戸建てになってしまった。

そう。

問題は、田園風景ではない。


30分以上歩いて、やっと何かの年季の入った個人商店を見つけた。

二人で挨拶をしてお店に入ってみると、店主と思われるおばさんとお客さんと思われる同年代ぐらいのおばさんたちが一斉に振り向いた。

異物を見るような目だった。

仙波さんや支店長が一見のお客様に見せる目と同じだと思った。

営業の口上を言うと、おばさんたちは、へえあんたたち営業やってんのーと口の端を吊り上げた。

異物を見る目が、弱い珍獣を見る目に変わった気がした。

店主らしきおばさんが

「このティッシュに書いてあるのって社訓でしょ、ちょっと暗唱してみなさいよ~」

と言った。

途端に周囲のおばさんがどっと笑いだした。

私もファミマでバイトしてたときは何かの営業の人が来ることもあった。

でもこんな対応をした事は一度もないし、こんな対応をする先輩もいなかった。

こっちはとりあえずティッシュとメモと名刺を置いて何か御入用がありましたらと言って店を出た。

たぶん名刺はゴミ箱行きだろう。

次に見つけたのは、田んぼの中にポツンと建てられた車の工場らしきところだった。

私が挨拶しながらティッシュを差し出したら

「おいおいおいあんたなんでそんな泣きそうな顔してんだよ~」

「そんな顔で営業になるか。いいか営業と言うのは…」

とそこの社長というおじいさんの武勇伝と人生訓を1時間聞かされる羽目になった。

1時間も引き留められた割りにお茶の一杯も出なかった。

今となっては1時間聞かされた内容はミジンコほども覚えてない。

やっと解放されたときは疲弊しかなかった。

知らないさんは死んだ目をして待っていた。


少し歩くとやっと街っぽい風景になってきた。

やっとこじゃれた美容院を見つけた時は文明社会に戻ったような気持がした。

中には若い美容師さんが何人か働いていた。

残念ながら断られたが、若い美容師さんの方が断り方も丁寧だった。

優しい個人商店のおばさんという感じのおばさんがあんな対応をして、一見怖そうな金髪の若い美容師さんの方が断るときも丁寧で優しいんだなあと変な事を考えた。

午前中はまったく成果は無かった。


午後はスーパーに入ってお昼でも買おうと言う事になった。

知らないさんはトイレに行った。

やっとエアコンの効いたところに来た。

涼しさで脳が生き返る。

もう汗だくで服もぐしょぐしょだった。

スーパーの生鮮の値段を見てみる。

全体的にまあまあ安い。

このところ、見切り品ばかり買っている。

5月の給料は11万円だった。

基本給の13万円から家賃や年金、旅費の積立金などを天引きした金額だろう。

学生バイトより低い給料が自然に私の心を削っていった。

このところ、少しでも高い物、割引されていないものを買う事にものすごく罪悪感を感じるようになってきた。

あ、そうだ、ショー子さんがビール買っとけって言ってたな。

お酒のコーナーに行ってみてヱビスビールの値段を見た。

私は下戸なので知らなかったが、ヱビスビールは缶ビールの中でも相当高い部類だ。

こんな高いの、ショー子さんなんかの身内の為に買いたくない…

しかも私を殴ろうとした人なんかになんで贈り物なんか…ああ…嫌だなぁ…

と、幻滅していた時だった。


「ん!」


目の前に、知らないおじさんが来た。

そして私に右手を差し出した。

誰だっけ?

それにしてもすごいおなかだ。

腰も足もずっしり脂肪がついてる。

差し出す右手も、さっきまでハンバーグでも作ってたの?ってぐらいねっちょりと脂ぎってる。

言っちゃなんだけど太った芋虫みたいな指だ。

全然覚えがないけど、たぶん会社の顧客の誰かだろう。

会社に来る年配の男性の顧客は、用事があっても用件を言わない。

「おい!わしやぞ!いつものネェちゃん(ニィちゃん)はどこや!」

こんな風に「丁寧な対応」をしてくれるお客さんはごくごくまれだ。

たいていはは「ん!」しか言わない。

そして手を出すだけだ。

それだけでこっちは全てを察して「ああホニャララ社のナンタラ様!いつもお世話になっております~」と平身低頭で出迎えるのがここでの「常識」だ。

ここではその儀式が無いと話が始まらない。

私はつねづねこの「ん!」にモヤモヤしていた。

手を差し出すのは握手を求めているかららしく、これをこっちの方言で「出会いを求める」と言うらしい。

以前会社に来て私に「ん!」と手を差し出すやたらガタイのいいおじさんがいたので、頭がハテナになってきょとんとしていたらショー子さんが来て

「んもー三井さん何やってんの!せっかく本社の上司のオレサマエライゾさんが出会いを求めていらっしゃるのに!」

と叱ったのでああそういう言い方をするんだなと知った。

このとき来た上司が研修の時のマッチョ上司だったと後で知って、冗談抜きで吐いた。

松葉杖を持っていなかったので、生まれつきの障碍ではなく怪我だったと知った。

顔なんか覚えてないし、だいたい、あの研修で覚えていたいことなど一つもない。

あの子の事も――…


話はそれたが、いくら顧客とはいえせめて向こうから「やぁ」とか「元気? 俺だよ、俺。 忘れた? あれこれの用事で来たんだけど~」ぐらい言ってくれればこっちも歓迎したい気持ちになる。

でも「ん!」じゃ会話する気にもならない。

赤ちゃんや子供の「ん!」なら可愛げもあるがこれをするのは年配の人ばっかりだ。

話が更にそれるが、これが年配の女性の顧客だと「ん!」すらしない。

挨拶なんかそっちのけで襟が曲がってるだのスカートがシワだの身だしなみをとがめる。

元総務さんやショー子さんのお母さんがこれだ。

ある時なんか取引先のおばさんがツカツカと私の所に来て、いきなり私の胸倉に手を突っ込み「ん!ん!」と下着を直された事もあった。

そのおばさんに、あんた襟元がおかしいわよ、社会人ならちゃんとしなさい!とおしりを叩かれ仙波さんに頭を掴まれ「申し訳ございません、ほら三井さん、お礼!」と頭を下げられた。

自分がされた事に対して何かを感じる気力も無くなった。

短大のときバイトしてたファミマでは、いや、私の町ではこんな年配のお客さん、一人もいなかった。


店内で流れてる歌は、なぜか私が中学ぐらいの時に流行った曲だった。

そのせいで、懐かしいとかじゃなくて昔の世界にタイムスリップしたような気がする。

いっそここが何かの間違いで迷い込んだ別の異次元世界だったらよかったのに。

どうしたら元の世界に戻れるのかなぁ。

アイドル…

アイドル…

アイドルの握手会…

そのとき、急に私の頭に、あの研修の事がフラッシュバックした。

研修の最後の日、上司達が研修室の上座の前の方に横一列に並んだ。

私達は上司達の前に縦一列で並ばされた。

そして、一人一人、固い握手を交わされた。

後ろの同じ同期の男の子が「アイドルの握手会かよ」とため息をついていた。

アイドルにしてはひなびた、しかも怒鳴り散らすおじさんばっかりだ。

あの時の上司達は自分達がアイドルにでもなったつもりだったのか。

気のせいか、女子はやたら長い時間握手させられていた気がする。

あの子も……

求人票の事を聞いただけで嘘つき呼ばわりされてふっとばされた男子は

「おい、嘘つき野郎、頑張れよ!思いやりの心を忘れるなよ!」

と頭をグリグリされていた。

なぜか私の頭がグリグリ、いや、グルグルする。

フラッシュバックと現実が混ざる。

「ん!んー!」

目の前のおじさんが怖い顔で右手をぐいっと差し出す。

怒っている。

早くしろと言う事か。

頭が…

握手会…

「ん!ん!」


私は逃げた。

この地の風習の言いなりになりたくない。

こんな対応に対して挨拶なんか返したくないし、ましてや知らない人といきなり握手なんかしたくない!!

後ろから「ん!んー!」という声がぶつかってきたが、やがて昔のアイドルソングに飲まれていった。



私はトイレに逃げた。

知らないさんを呼んで早く逃げようと言うために。

でも逃げているうちにおなかが痛くなってきた。

スーパーのトイレは外にあった。

はっきり言って汚いトイレだ。

しかも男女共用である。

短大の時のファミマのトイレはいつも綺麗に掃除してたのに。

トイレの清潔度でお客さんの入りが全然ちがうんだけどな。

トイレに行くと偶然、先に入った知らないさんさんと入れ替わりになった。

今度は私が入りますと私は個室にこもった。


さっきの顧客、会社にクレーム入れに来たらどうしよう…

また仙波さんに叱られるだろうな…

知らぬ存ぜぬを貫き通すしかないな…

そう考えているとまた胃とおなかが痛くなってきた。

いつからだろう。

最近、いつもおなかこわしてる。

胃が痛くなる事も増えた。

確かに私はもともとあの日が近づくとおなかがゆるくなる体質だ。

けど今はそれがずっと続いてる。

そういえば最後にあの日が来たのいつだっけ?

そもそも先月来たっけ?

そういえば仙波さんやショー子さんはあの日はどうしてるんだろ。

うちは男女問わずみんな皆勤だ。

誰1人1日たりとも休まない。

みんなそれを誇っている。

体調不良で1日休んでも前に書いたように休日を返上させられる。

今思えばあれは欠勤のペナルティだったんだろう。

短大時代のファミマは体調不良の時はちゃんとシフトを代わってもらえたのに。

これで今の給料はファミマの半分以下ときている。

…ほんと、なんのために生きてるんだろう…

トイレの外から何か聞こえてくる。

男の人の声だ。

やだなぁ、よりによって男の人がいるなんて。

だから男女共用トイレは嫌なんだ。

ドアを開けて出て行こうとして私は思わずドアを閉めた。

女子トイレの外には見覚えのあるでっぷりした巨体があった。

さっきの「ん!」のおじさんだ。

いや、おじさん一人だけじゃない。

ランドセルを背負った小学生ぐらいの女の子もいる。

女の子はトイレを出ようとしているのに前にでっぷりおじさんが立っていて邪魔しているのだ。

なにしてるんだろう…?

――おいA子(おじさんが呼びかけていた女の子の名前。これも仮名)

――A子なんでおまえはそんなにデブっちょなんだ、それじゃA子じゃなくてデブ子じゃないか。

――おまえみたいのを何て言うか知ってるか、肥満児っていうんだ。

おじさんはニタニタ笑いながら小さい小学生の女の子にそんなことを囁いている。

女の子は背中しか見えないけどうつむいて固まっているようだ。

女の子は少しふっくらしてるようだけど決して肥満児ではないし、そんな事言うならおじさんの身体の方なんかお相撲さん三人分ぐらいはある。

なにこれ。

なにこれ。

なにこれ。

胸がつまる。

胸がつまる。

胸がつまる。

私はこっそりドアを開けて様子を見た。

おじさんはさらに、女の子が持っている布製の手作りぽいバッグに手をかけた。

女の子は抵抗したがしょせんは子供の力、大人の男性にかなう訳がない。

これ強盗だよね…

バッグの中からは、表紙大きなキラキラ目の女の子が描いてある表紙の、少女漫画とおぼしき本が出て来た。

漫画の単行本サイズにしては大きいので、いわゆる子供向けの小説だったのかもしれない。

あの布製のバッグはいわゆる図書バッグか。

おじさんは、震えている女の子に、おまえは眼鏡なんかかけてるということは目が見えないんだろうと、めちゃくちゃな事を言った。

本当は目が見えない事を、もっとひどい差別的な言い方で、方言で言っていた。

目が見えないくせに本なんか読めないだろ、それなのになんでこんなもの持ってるんだ、どうせ万引きしたんだろう、と。

めちゃくちゃすぎる。

何を言ってるんだこのおじさん。

女の子は、返してください、学校の本だから、と言った。

おじさんは、こんなマンガが学校にあるわけないだろとせせら笑いながら言った。

せせら笑うという日本語は知っていたが、こんなにその言葉にぴったりな笑い方をする人、現実で初めて見た。

ドラマやマンガや映画でもここまで「せせら笑う」のが上手い人はそうそう見た記憶がない。

おじさんは更に、嘘をつくということは万引きしたって認めたと言うことだな、お前は万引き犯だ、泥棒は逮捕されるぞとさらにもうめちゃくちゃを通り越してなんて表現していいかわからない事を言った。

私が小学生の頃だって学校の図書室にマンガみたいな本というかマンガそのものが置いてあったけどな…

勉強になるマンガだってあるし。

いや問題はそこじゃない。

おじさんは本をめくった。

そしてゆっくりと

「あたしの名前は〇〇△美、恋占いが大好きな小学四年生の女の子…」

なんと、声に出して読みだした。

予想外過ぎて私は思わずあっけにとられた。

なんなんだ、これは。

おじさんは、返して返してとか細く泣く女の子をあざ笑うように、音読を進めた。

「三日月の日は、お砂糖を入れた紅茶を飲みながらトランプで占いをするの…」

さも、くっだらない、といったような侮蔑を込めた口調でせせら笑いながら、やけにゆーっくりと、ニヤニヤと笑いながら読み進めるのだ。

なんて嫌な、そして気色悪い奴だ。

こんな嫌な、かつ気色悪い奴、20年生きて初めて見た。

「返してください、返して…」

私は。

私は。

私は…



「火事だーーーー燃えてるーーーーー人が死んでるーーー死ぬーーーーー!!!!」



私は思いっきり叫んだ。

ダッダッダッ、という地響きのような音がした。

私はこっそり個室から出て、おじさんを確認した。

おじさんがどすどすと鈍足で走って行くのが見えた。

後ろ姿もでっぷりと肉がついてて凄いなと思った。

あの巨体なのにずいぶん速く走れるな。

女の子は腰が抜けたのかへたりこんでがくがく震えている。

そばにはさっきの本が転がっていた。

背表紙に学校の図書館のシールが貼ってあった。

良かった、奪われなかったようだ。

私はこっそり女の子のそばに行った。

いきなり出て来た私を見て、女の子は、ひっ、と小さい悲鳴を上げた。

私は、女の子を安心させるために、なるべく穏やかな声で言った。

「火事なんか嘘だよ、人も死んでないよ、もう大丈夫だからね、早く逃げて」

女の子はきょとんとして、本を拾ってそのまま走り去って行った。


そのあとどうしたか覚えてない。

あの強烈な体験のせいで午後の営業も散々だった。

〇〇支店に帰ったら仙波さんとショー子さんが、今回も契約ゲットしたよと喜んでいた。


帰宅してすぐ水浴びした。

本当はゆっくりお風呂につかりたいけど光熱費がもったいない。

高くつくことをしたら仙波さんに叱られるしまたショー子さんに何か言われる。

社宅にはシャワーなんかないから水浴びぐらいしか出来ないのだ。

実家のシャワーを浴びたい…

せめて近くに銭湯でもあればまだ違うのに。

いや、もし近くに銭湯があったとしても、銭湯なんかに通ってるのがバレたらまた何か言われそうだ。

ただでさえこの町は狭いからすぐ噂が広がる。

ああ…

私はこの先、銭湯すら行けないのか…

昔はスパやプールなんて普通に行ってたのに…

思わず涙が出そうになる。

疲れた。

空腹だけど食欲は無い。

このまま寝たい。

足が棒だ。

布団に倒れ込もうとした瞬間、携帯電話が鳴った。

ショー子さんからの着信だ。

こんなに疲れてるのにあんな人の声聞きたくない。

でも無視したらまたうるさいだろう。

仕方なく電話に出た。

「三井さん!ひどいよ!」

ショー子さんの声はただでさえ声変わりしてない子供みたいで耳に刺さるのに今回は金切り声だった。

後ろから、ドスンバタン、だの、アー、だの、なんか物音と悲鳴が聞こえる。

なにかの騒ぎが起きているようだ。

心底関わりたくない。

「聞いたよ!今日うちのお父さんを無視したでしょ!」

は?

お父さん?

ショー子さんの後ろからまたドスンバタンという暴れているような物音と「かあちゃんかあちゃあん」という恐らくおばあさんの声と「やめてねぇやめてってば、日曜日には仮名が来るから!」という泣き叫ぶようなおばさんの声がした。

私、いつの間にかナチュラルに呼び捨てにされてる…

「お父さんが今日、△△スーパーで三井さんを見かけたから出会いを求めたのに、三井さんてば、お父さんを無視して行っちゃったって…」

!!!

「お父さんねぇ!帰ってからそのことでずーっと怒ってるんだよ!! 三井さんがお酒のビールコーナーにいたから、てっきり日曜日にうちに持ってきてくれるビールを選んでるんだと思って、お父さん喜んで出会いを求めたのに無視するなんて!!」

携帯から、ひどいよーどうしてそんなことするのーと小学生みたいな泣き声が漏れる。

だけど私の耳はもうそれをまともに聞いていなかった。

意識が飛びそうだった。

あのすごいでっぷりしたおなか。

あの巨体。

あの声。


…バウの…人だ…


えー全然気付かなかった、人違いじゃない?今日はすごい疲れたから寝る、と適当に言って私は携帯を切った。

また電話がかかってきたので今度は携帯の電源ごと切った。

昨日と同じだ。

足がすくんで震えた。

布団にもぐりこんだが、身体はへとへとなのに全然眠れなかった。


私は、今週の日曜日…

小学生の女の子にあんなことをする人がいる家に、行かなきゃいけないんだ……

どうしよう…

絶対行きたくない…

このまま外に出て道路を走って車に轢かれたら行かなくて済むだろうか。

それとも会社の裏の山にで迷い込んでそのまま遭難すれば…

それとも海で溺れた方が…

最近、こういう洒落にならない事を、自然に考えるようになった。

いや、それは問題を先送りにしているだけだ。

怪我をしようが何をしようが、治ったら絶対来いって言われる。

私はまた携帯電話の電源を入れて、急いで母に電話した。

昨日と同じく状況を説明して、泣きながら帰りたいと訴えたが、だからそういうのは軽くいなしなさいって言ったでしょ、と言われた。

それと、なぜか犬の話をされた。

私はごねたが、お母さんきついから、で切られてしまった。

母がこれでは父も同じだろう。

でも、なんで犬?

そうか、私がいなくなったので代わりに犬でも飼うんだ…。

そういえばお母さん、昔から犬を飼うのが夢だって言ってた。

でも今住んでるマンションはペット禁止だ。

まさか…引っ越すつもり?

実家がなくなる!?

私の居場所はなくなるということか。

逃げ場がない。

じゃあ家出でもする?

どこか匿ってくれるところはないか。

友達はみんな電車の距離だ。

みんなカツカツで大変だと言っていたし私を匿う余裕はないだろう。

呆然としているとまたショー子さんからの着信が入った。

電源ごと切った。

私は電話すら自由にかけられない。

お風呂も入れない。

好きなドラマも見れない。

好きなバンドのCDも買えない。

それなのに日曜日にはあんなところへ行かなきゃいけない…


ああ…

どうしたら…

どうしたら…

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