アブラゼミの鳴かない夏

鍔木小春

ある夏のこと

「へぇ、やるじゃん」

 ぱちぱちと響く拍手に驚いて、俺は思わず振り返った。

 虫取り網のなかでは、珍しい大きなセミがしゃわしゃわと抗議のように鳴いている。

「誰だよお前」

 初対面のくせに妙に馴れ馴れしいヤツ。

 テレビに出てくる都会の人みたいなワンピース姿が、こんな田舎の中でやけに浮いている。

「ごめんね、驚かせちゃった。やっぱり健くんはすごいなって思って」

「なんで、俺の名前を」

 おかしい。この女と俺は初対面のはずなのに。

 そもそも、うちの村にこんな――お姉さん? みたいな歳の女、山本んちの姉ちゃんくらいしかいないはずだ。

「俺、お姉さんのこと知らないんだけど」

「お姉さんって呼んでくれるの? 嬉しいなぁ」

 なんか会話噛み合わねーし。無駄にニコニコしてるし。

「お姉さんはね、上手い虫取りを見るのが好きなんだよ」

「……変なヤツ」

 つい口に出てしまった。

「そうだね、お姉さんは変な人だね」

 否定しないのかよ。

「でもね、健くんの邪魔はしないよ。見てるだけでいい」

 ますます変なヤツ。

 でもまぁ、邪魔になんないなら、別にいいか。

「黙ってそこにいろよ。あと馴れ馴れしく名前を呼ぶな」

 わかった、と口元だけで返事をして、お姉さんが頷く。

 こんなヤツのこと気にしないで、さっさとアブラゼミを捕まえて帰ろう。

 自由研究の標本作りが終われば、後は遊びまくるだけだー!


 次の日。

 お姉さんが、またいた。

「なんなんだよお前は」

「態度悪いぞー? 年上に向かって」

 飄々とはぐらかされた。

「健くんこそ、今日もまた虫取り?」

「誰のせいだと思ってるんだよ」

 つい悪態が口をつく。

 昨日は結局、標本にするためのアブラゼミが捕まらなかったのだ。

 運がないといえばそうだろうけど、こいつのせいで気が散ってたのもあると思う。

 挽回すべく、俺はセミの鳴き声にじっと耳をすました。

「なんか……懐かしいなぁ」

 声を潜めて、お姉さんが呟く。

 何が楽しいのやらよく分からない、とにかく満足げな笑顔を浮かべて。

「お姉さんもね、虫取りはちょっとだけやってたんだよ」

 独り言のような呟きが、蝉時雨の間に溶けていく。

 ミンミンと鳴くセミの声の中に、かすかに違う響きが混ざったのがそのときだった。

「そこか……」

 じっと網を構え、声の主を探す。

 目線を上げた先にいるセミにアタリをつけて……。

「えいっ」

 うまくタイミングをとり、網を被せる。

 手応えアリ。一発成功だ。

「わわ、すごいすごーい! 見せて?」

 お姉さんに促されるまでもなく、俺は網の中のセミをつまみ上げた。

 指の間で暴れまわるセミは――ガラスのように透き通る翅を、じたばたとばたつかせていた。

「……これじゃない」

 指を離す。ミンミンゼミが逃げていく。

 耳をすませても、さっきの鳴き声は聞こえない。

「そっか。やっぱりね」

 何かに納得したように、お姉さんが頷く。

 その表情に、陰りが見えたような気がした。

「この村ではもう、アブラゼミは鳴かなくなったよ」

 唐突に、お姉さんが言う。

 あのヘラヘラしたふざけた様子は、そこにはない。

「鳴かなくなった……って、なんでだよ」

 そんなわけ、ないだろう。

 昨日まで、あんなに――。

「……あれ?」

 そういえば、昨日は一匹も見つからなかったんだった。

「もう、鳴けなくなったんだよ」

 結局その日もアブラゼミを捕ることはできなかった。


「ねぇ、知ってる? この雑木林のウワサ」

 次の日、セミを探し始めて少し経った頃。

 お姉さんが、そんな話を始めた。

「出るんだってさ。幽霊」

「幽霊……?」

 冗談やめろよ、と言いかけて、その瞳が真剣なことに気付く。

「8月に3日間だけ、この村に絶対いないような人が雑木林にふらりと現れるんだって。お盆の時期に、ね」

 潜めた声が、やけに真に迫っていて。

 こんなクソ暑い日だってのに、肌が粟立つのを感じた。

「誰なんだろうねぇって。そんな年頃の子、いたら覚えてるはずなのにねぇって。大人たちが言ってる」

 不意に、風がお姉さんの髪を揺らす。

 村じゃ見たことないような、お天気お姉さんがしてるような髪型。

 色を揃えた上品なブラウスとスカートは、隣町のイオンにも売ってなさそうなことくらい俺でも分かる。

「村にいない人間……まさか」

 まさか、お姉さんは。

 そう思ったそのとき、いきなり頭をぽんぽんと撫でられた。

「あーもう冗談だって!ほら、お姉さん生きてるから!」

 頭をわしゃわしゃされる。やめてくれ。

「分かった! 分かったってば!」

 と、そのとき。

 お姉さんの背後の木の幹に、ふと違和感を覚えた。

「……アブラゼミ?」

 ジージーとした鳴き声は聞こえない。翅の色は、確かにアブラゼミのそれだった。

「ちょっと、離して」

 お姉さんの手をすり抜けて、静かに木へ近付く。

 逸る気持ちを堪えて、狙いを定めて……。

「――よしっ!」

 逃げる瞬間を捉え、網で素早くキャッチ。

 急いで虫かごへ放り込む。

「やった! これで標本が――」

 振り返ると、お姉さんはいなかった。

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