第20話 皇子の療養休暇 ⑫イ・サンス
マルノザ帝国が密かにアマリアーナ王女、現サリナス辺境伯夫人を狙っていると言うのは、結局、ガセネタだったようだ。
エントランス付近で満足げに帰っていく令嬢たちに頭を下げながら、彼は密かに胸を撫でおろしていた。
皇都に滞在中のマルノザ帝国皇太子一行に潜ませた部下からも、茶話会会場に配置している者たちからも、今のところ、特に気になる報告はない。
これほどの手間暇をかけて、彼女まで欺くような真似をする必要はなかったのかもしれない。
年甲斐もなくバカなことをしているのは、彼にも十分わかっていた。けれど、彼女が奪われるかもしれないと思うと、居ても立ってもおられなかった。
マルノザ帝国の皇子がずっと彼女を正妃に迎えたがっていたことは、帝国が伝説の勇者の血を引く王女は自国にこそふさわしいと主張してきたことは、彼とてよく知っていた。
今なお、皇国の一部の貴族が、由緒正しき帝国の皇子こそが、彼女の伴侶になるべきだったと考えていることも。
現王の
それほど気になるなら、本当に手に入れたいなら、力づくでも奪ってしまえばいいと、
弱肉強食を信奉する一族らしい考え方だ。
半端者の彼にはできない。
彼と彼女は違う。
彼女は、本来、彼が触れてはならない高貴な存在。素晴らしい女性だ。このまま、辺境伯夫人でいるべき人ではない。
望むべきではないのだ。あの人のためを思うなら。たとえ、自分の公の立場がどうであれ。
自分を抑えるために、物理的に彼女と距離を置いた。なのに、自分の『立場』を手放したくなくて、ずるずると曖昧なこの関係を続けている。
彼女のふるまいを誤解してはならない。都合よく解釈してはならない。
得体のしれない辺境伯に彼女が嫁いだのは、ひとえに王命だったからだ。婚姻は、辺境伯と王家との絆を確固とするための手段。彼女は王家に生まれた者としての責任を果たしたに過ぎない。
辺境伯は、彼女をもっと自由にしてやるべきだ。こんな場所に閉じ込めるのではなく。彼女の安全を、幸福を考えるなら。
頭では十分にわかってはいる。二度とあの悲劇を繰り返してはならないと。彼女を、絶対に、あんな目に遭わせてはならない。そのためには、自分の想いなど押し殺してしまうべきだ。
早く彼女が愛想をつかしてくれればいいのに、と願う。
辺境伯がいかに酷い夫であるかを知れば、王だって、実の娘の願いを踏みにじりはすまい。この4年間の夫婦関係が、俗に言う『白い結婚』~実質的な肉体関係のない結婚~であることを公表しさえすれば、彼女は何の
そう、何が最善かはわかったいる。なのに・・・
招かれた令嬢のほぼすべてが引き上げ、残る客はアルフォンソ皇子の想い人だと噂される令嬢のみになり、堂々巡りから何とか気を取り直しかけた頃・・・
大気を切り裂く高周波音が、イ・サンスの鼓膜を打った。
これは人の耳には聞こえない警笛。直属部下からの緊急連絡だ。
アマリアーナの身に何か!
イ・サンスは、会場を目指し、脱兎のごとく走った。
* * * * *
刃が交わされる音が間断なく響き、矢が大気を走る音がする。
自ら腰の剣を抜き放ち、階段を飛ぶように駆け上がった。
「若様!」
メイド長として潜り込ませていた部下が、彼の姿に表情を緩めた。
「夫人は?」
「奥様はあちらです。護衛が応戦中です」
応えながらも、手にした弓の弦を再び大きく引き絞る。
勢いよく放たれ矢が目指すその先。
大テーブルの向こう側で、一点に向かって剣を振り下ろす数人の護衛騎士らしき姿が見えた。
護衛たちの後ろで、木製の柵を背に立っているのは、間違いなくアマリアーナ。身を乗り出そうとしている彼女を護衛の一人が引き留めているようだ。
その横で彼女の手に縋りついている女には見覚えがある。確か彼女のそば仕えの一人だ。
イ・サンスは一瞥で状況を見て取ると、守るべき女主人の下へ全速力で走った。
剣を弾く軽い金属音が幾度も響き、護衛たちがよろめいた。断ち切られた矢が勢いを失って床に落ちた。
更に別の騎士が剣を振り上げ、切りかかり、難なく剣を振り飛ばされた。
「どけ!」
イ・サンスは護衛たちの合間を縫って躍り出た。
たった一人で応戦している影を眼前にして、刹那、瞠目する。
踊るように床を蹴り、宙を飛ぶピンクのドレス。ふわりとなびく金色の長い髪。
右手に握った羽扇で飛び来る矢を払い、左手で護衛から奪ったらしい剣を振るう。
流れるような剣技でじりじりと包囲網を押しやり、崩しているのは、異国から来た令嬢だった。
ピンクの仮面を付けた顔が、表情もなく、イ・サンスの方を振り向く。
大きく踏み込むと、イ・サンスはその首筋に剣を袈裟懸けに振り下ろした。
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