二日目

 漁港の朝は早い。母に頼まれて水揚げ場に来たら、スーダに鉢合わせてしまった。卸売の活気は好きなのだが、今日は眠い。

 

「女の選挙管理委員が来てるんだってな」


 石斑(魚の一種)の良いのが獲れたというのでそれと花枝(イカ)を購入し、さっさと戻ろうとしたらスーダに声を掛けられた。イェシさんが広めたに違いない。私は嫌々ながら振り向いた。それで何なの。ちゃんと投票来てよね、と潰れた声で言う。昨夜はよく眠れなかったのだ。


「……お前、まだユアンの面倒見てんのか」


 この島には小学校が一つしかないので、同じ年代の住民はみんな同級生みたいなものだ。スーダは二つ上で、昔はユアンともよく遊んでいたのに、なんて言いようだと思う。家業の漁師を継ぐことのできたスーダはいいだろう、ユアンにはもう両親がいないし、シュリばあちゃんを支えなければならない。若い世代の住民はどんどん島外に出ていってしまっている。ここには仕事が無いからだ。漁網の手入れをしながら、スーダは吐き捨てるように言う。


「お前だってき遅れるぞ」


 私は下げていた編みカゴでスーダを叩いた。余計なお世話だ。誰がいつ結婚したいと言ったのだ。関心があるのは両親と村のお節介たちだけで、私は毛頭そんなつもりは無い。抗議するスーダに背を向けて歩き出す。ただでさえ昨日から色々と考えていて、頭がぐちゃぐちゃなのである。きらきらと輝く朝日にスーダの声が響く。後援会の会食、お前も来るんだろ!? もういい加減諦めろ! 今日も暑くなりそうだ。



 朝食後にアリさんのところへ挨拶に行く。アリさんは島長だがこれは肩書きで、行政の最小単位である区の首長も兼ねている。一般行政部はあと書記一名と行政官三名がいるだけで、そのうちの一人が父である。

 バイクで街の中心部を抜けると、道の両脇に紫色と黄色の旗が幾重にも翻っているのが見える。家々の屋根を横断して吊るされた、トラックほど大きな党旗である。大戦後、この国の独立を率いて今だに第一党である自由民族党の党カラーが紫、近年第二党として拡大している民主革新党が黄色なのだ。コヒメ島始め、この小島群海域はずっと自由民族党が優勢であったのだが、今回はちょっと様子が違う。青空に映えるわね、とイージュさんが背後で言う。ジェンナンダはもっと凄いんじゃないですか? と尋ねると、首都は排気ガスがひどくて空が灰色に見えるらしい。一度訪れた記憶を探るが、思い出せない。


 道の反対側から、スピーカーを乗せた古いセダンがやってくる。島の道は狭いので自動車は小回りが効かないのだが、街の周辺をぐるぐると巡りながら、大音響で政党と候補者支持を訴え、音楽を流す。島民は慣れっこなので畑や磯に出かけ、道端の犬や鶏は威嚇して逃げ回る。避けて走らなければならない方は難儀である。路上での宣伝は投票日前の木曜日午後5時までの決まりだから、とイージュさんは言うが、ここで守られているとは到底思えない。そんなルールが有ることすら知らなかった。


 オフィスに着いたものの、アリさんは農場に出ているとのことだった。勤務中の父と顔を合わせるのは気まずいので、私は外で待っていたのだが、イージュさんはメモだけ持って戻ってきた。アリさんの農場には山羊がいて、今朝壊れた柵から逃亡したのらしい。挨拶の後、投票所になる小学校へ行って設営の打ち合わせをする予定だったのだが、先に向かってくれ、校長のセリムには話を通してあるから、ということだった。ことごとく予定が決行されない土地柄である。私は恥ずかしくなったが、イージュさんは気にならないようだった。どこも同じよ、と言う。でも日本は時間に厳しいのではなかったかしら。



 セリム先生は私が小学生の時に校長になったので、もう10年以上になる。コヒメ島や周辺の島で昆虫採集をするのが趣味で、アマチュア研究熱が高じて本まで出してしまった。子供たちには基本的に優しいが、あまり言う事を聞かないと『標本にしちゃうよ』と叱るので恐ろしい。イージュさんを小学校まで送ると、セリム先生が直ぐに現れて、体育館へ案内してくれた。設営手順について話している間、生徒たちがどんどん集まってきて窓から扉から覗くので、私は居た堪れない気持ちになった。私はただ付いてきただけで、イージュさんの任務の百分の一にも責任を負っているわけではない。


「レニは、作文や詩作が上手くてね」


 何の脈絡か、いつの間にか小学生時代の私の話になったらしい。セリム先生、勘弁して下さい! 私の学年で優秀だったのは、なんと言ってもタイラとユアンである。私は子供っぽいストーリーやエッセイを好き勝手書いていただけだ。分かる気がします、とイージュさんが答える。穴が有ったら入りたいとはこのことだ。



 午後はボランティア研修になっていた。いつも誰も志願者がおらず、父や他の行政官たちが駆り出されていたので今回もそうかと思っていたら、ノキさんとジンタさんがやってきたので私は驚いた。私よりも十ほど年上の二人を、島で知らない者はいないと思う。ノキさんは昔悪童で有名だった。それでも家業の大工を継いで落ち着いたかと思いきや、毎日のように親方である父親と派手なケンカをしている。もはやこの親子喧嘩は島民間の名物のようなものだ。ジンタさんは、この島や海域で伝統的に飲まれているタロ芋焼酎の醸造元を継いでいる。一見寡黙な人柄のジンタさんと、何事も大仰なノキさんは正反対で親友だ。ようレニちゃん、別嬪になったなあ、とノキさんが気楽に声をかけてくる。


「投票率が上がるように、微力ながら手伝いますよ」


 胸を張るノキさんの横で、ジンタさんが頷く。胡散臭い。何か裏があるんじゃなかろうか。あ、疑いの目で見てるでしょ、レニちゃん! とノキさんが哀れっぽく首を振る。


「不正なんてしないよ。投票率が上がってくれさえすればいいんだ」


 自由民族党の一党支配はもう終わりだよ。若年世代には民主革新党支持者が増えてきた。政治に関心の無い層だってね、もう自由民族党一択なんてことはない。“投票するなら、民主革新党に入れてみてもいいかな“っていう浮動票が多く存在するんだ。俺たちが宣伝しているんじゃない、それが時代の流れなのさ。にやりと笑うノキさんに、無言で同意するジンタさんを見て、私は舌を巻いた。この二人が、コヒメ島における民主革新党支持者たちの中核にいたのである。

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