パイロットを辞めて一ヶ月以上が経っても、俺はそれまでの癖で、睡眠、体重、アルコール摂取量に気を配ることをやめなかった。

 なんの意味もないライセンスを、外出のたびについ持ち歩いてしまう。

 古巣のエアラインが退職金に色をつけてくれたお陰で、夫婦二人で暮らしていけるだけの貯えは十分にあるから、もう働く必要はない。

 ジョギングをしたり、映画を観たり、料理の真似事でキミカに呆れられたり。

 傍から見れば悠々自適な毎日を、俺は過ごしていたのだろう。


 段々と日差しが強くなり、気付けば年末が近づいている。

 季節はもう夏の盛りだ。

 たまにマークが訪ねてくると、パブに連れ立ちビールを飲んだ。


「少なくとも六十五歳までは、飛び続けてもらうつもりだったんだ」

 酒好きの割に酔いが回るのが早いマークは、ここのところ同じ話ばかりする。


「お前は夏生まれだったな。今は、ええと……」

「あと数日で六十だよ」

「すまねえな、五年も早く空から降ろす羽目になっちまって」

「あんたのせいじゃないさ。時代が変わったんだ」

 俺は俺で、同じ返事ばかりしている。


 マークは志半ばで大病を患い、パイロットになれなかった過去を持つ男だ。

 各国政府が足並み揃えて商用の有人飛行に対する税金を導入した時、マークは負けずにパイロットを守ってくれた。だが保険会社が、事業者の有人飛行に関わる保険を一斉に廃止し始めた現状には負けた。

 万一のことがあれば人命に関わる業務内容だ。保険もなしに事業継続などという博打はできない。


「家族はどうだ」

「元気にやってるよ。キミカも、ジョージも」


 本当はジョージのことはよくわからなかったが、俺はそう答えた。

 キミカによれば、三十歳になったジョージは、クイーンズランド工科大学の博士課程に籍を置きながら、仲間たちと起業するために頑張っているらしい。

 今年のクリスマスは忙しくて帰れないと、随分前に連絡があったそうだ。


 オーストラリアでは十二月から一月が学校の夏休みで、つまりバカンスシーズンになる。今までもジョージはクリスマスに合わせて数日帰ってきたかと思えば、すぐに友人たちと旅行に出かけてしまうのが普通だった。


 観光業界は国内外からの客で忙しい。去年まで俺はこの時期になると仕事に明け暮れ、帰省中のあいつと顔を合わせる機会などろくになかった。


 今年は俺が仕事を辞めて家にいると、あいつはキミカから聞いていたはずだ。

 人間暇になると、悪い方にばかり考えるようになる。


     *


 十二月二十三日、俺は六十歳の誕生日を迎えた。

 特別なことはしない。ちょっと洒落たレストランにキミカと足を運ぶ程度だ。


「日本で六十歳は還暦と言って、特別なお祝いをするのよ。赤ちゃんに戻ったつもりで、二度目の人生を始めるの」


 そう言ってキミカは、ワインレッドのカジュアルな半袖シャツをプレゼントしてくれた。なんでも赤ん坊から連想して、赤い服を贈る風習があるらしい。

 やたら高級感のある色味に少したじろいだが、大事に着ると約束した。


「そういえば、荷造りは終わってる?」

 食前酒で乾杯した後、前菜を口に運びながら、キミカがそんなことを言い出す。


「明日の午前の便だからね。今夜は飲み過ぎない方がいいわ」

 唐突な話題についていけず、俺は口ごもった。


「どこかに行く予定があったか……」

「あら? 私、言ってなかったかしら? ブリスベンよ。ジョージのところ」


 思わずフォークを握る手を下ろした。

 聞いていないはずだ。


「やだ、うっかりしていてごめんなさい。今年はほら、あの子、帰ってこないでしょう? だったらあなたも暇になることだし、こっちが行ったらどうかって……まさか予定、入ってないわよね? 私ったら、てっきり知っているとばかり」


 ジョージが今年は帰ってこない話なら知っている。もしかしたらキミカはその時、ブリスベン行きの話もしていたのかもしれない。

 俺は瞬間的に、あいつが俺の顔を見たくなくて、わざと帰らないのではないかと勘繰っていた。だから、空返事をしていて聞き逃した可能性はある。


「あいつは、いいと言ったのか」

「当たり前でしょう? 喜んでたわよ、ちょうど良かったって」


 何がちょうどいいのだろう。

 俺の疑問を察したように、キミカは微笑んだ。


「友達と起業しようと頑張ってるって話は覚えてる? クリスマスの日に、事業の初お披露目会をするんですって。なんでも、クラウドファンディングで資金を集めたらしくって、その協力者へのお礼の一つだとか。

 そのお披露目会に、私たちも招待してくれるつもりだったみたいよ」


 あいつ、そんなことをしていたのか。

 顔には出さなかったが、俺は内心で驚いた。


 クラウドファンディングとは資金調達方法の一つだ。インターネット上で事業を告知して協力者や賛同者を募り、資金提供という形でサポートしてもらう。お礼に特典をつける場合が多く、その内容が魅力的であるほど協力者が増える。


 忙しくて帰ってこられないのは、どうやら本当だったらしい。

 そのお披露目会とやらに招待したいのは、本当は母親だけかもしれないが。


     *


 十二月二十四日、クリスマスイブの日。

 俺は数カ月ぶりに、大混雑するケアンズ空港へと足を運んでいた。


 俺たちの住むケアンズとジョージのいるブリスベンは、同じクイーンズランド州に属しているものの、場所は北と南でかなり離れている。

 列車だと二十四時間はかかる距離だから、行き来するなら普通は空路だ。


 実を言うと、完全自動操縦フルオートパイロットの旅客機に搭乗するのは、これが初めてだった。

 仕事以外で外国に行ったことはないし、国内旅行も遥か昔に少し行ったきりだ。俺は旅行が好きなんじゃなくて、自分で操縦して空を飛びたい奴だからな。


 離陸前に機長の挨拶が聞こえてきて、俺は顔を上げた。

 名前を聞いて確信した。昔、同僚だった奴だ。

 あいつ、地上勤務を選択して、まだ残っていたのか。


 俺が知っている頃よりも、ずっと落ち着いた声になっていた。

 この機体が地上の管制室で完全にコントロールされていること、乱気流や機体の不具合といったトラブルに際しても、二重三重の安全装置が用意されていること、飛行中の質問には航空学の知識があるキャビンアテンダントが対応すること。

 マニュアル通りだが、そうとは聞こえない温かみのある声音で、彼は乗客の一人一人に語り掛けるように、空の上での心配事を解消していった。


 正直に言おう。

 俺は、コックピットのない機体なんか首無しお化けだと思って、シートに座ってからずっと身構えていたんだ。

 だが、彼が機長として話すのを聞くうち、全身の強張りが解けるのを感じた。

 同時に、胸の中で一粒の氷が解け、零れ落ちて地面で弾けた気がした。


 そうか。

 空の上でも地上でも、パイロットの役割は変わらない。

 乗員乗客を安全に目的地まで送り届ける責任を、変わらず背負っているんだな。


 窓から差し込む真夏の日差しが眩しくて、俺は愛用のサングラスをかけた。

 隣でキミカは、日本語の小さな冊子を眺めている。


 約二時間半ほどのフライトを終えてブリスベン空港に降り立つと、キミカの説明通り、到着ロビーでジョージが待っていた。

 片手を上げて笑う日焼けした顔は、五歳の頃と印象が変わらない。

 もう片方の手は、首から吊り下げられた白い布に包まれている。

 随分とクラシカルだが、骨折した時のスタイルだ。

 思わずキミカを見ると、彼女も知らなかったらしく、眉をひそめていた。


「それ、どうしたの? 電話では何も言わなかったじゃない」

「昨日やっちまったんだ。階段で転びかけてさ……」

 苦笑いして俺に一瞬だけ視線を向け、ジョージは肩をすくめた。

「俺はいつもこうなんだ。肝心な時にヘマをする」


 ろくに挨拶も交わさないまま、奴は無事な方の手で俺たちのスーツケースを持ち、先に立って歩き出した。

 自走式タクシーに乗り込み、予約したホテルのある市内へ向かう。

 通りのあちこちがクリスマスらしい飾りで溢れていた。オーストラリアのクリスマスツリーは、時期が夏真っ盛りだからか、青やシルバーなど寒色系のボールで飾られていることが多い。

 サンタは半袖でサーフボードや水上バイクに乗っていたり、トナカイではなくカンガルーに橇を引かせていたりする。サングラスも定番のアイテムだ。


 そういえばガキの頃に読んだ絵本は、ちゃんとトナカイが橇を引いていたな。

 外国人作家のものだったのかもしれない。ジョージが指さしたのも同じ絵本だ。

 オーストラリア人作家の絵本を読んでいたら、パイロットではなくサーファーに憧れていたかもしれない……などと、くだらないことを考えた。


 ホテルに着いて荷物を預ける。

 特に予定がないなら、一緒に起業する仲間たちを紹介するとジョージが言うので、俺たちは再び自走式タクシーに乗り込んだ。

 事業用の土地は、クラウドファンディングで資金を集めて購入したという。コンソールパネルの入力を見る限り、どうやら郊外の森の中だ。


「動物のロボットを研究しているんだったわよね。それと関係があるの?」

「まあそれは、見てのお楽しみってことで」

 興味津々といった様子のキミカをはぐらかし、ジョージはどこか元気がない。やはり俺は、来るべきじゃなかったかもしれない。


 水素エンジン独特の音を立てながら、自走式タクシーは郊外の森を順調に進んでいった。しばらく走ると周囲の木々が途切れ、見晴らしのいい草原が姿を現す。

 奥の方に、傾斜の緩やかな丘が見えた。

 外壁を赤、黄、青に塗り分けた大きなガレージが、その丘の手前に三つ並んでいる。扉の開いた赤いガレージの前に人が集まり、何かを囲んでいた。


「あれが仲間たちだよ」


 まだかなり距離があったが、ジョージはタクシーを止めた。

 降車した途端、暑い日差しが頭上から降り注いでくる。

 俺とキミカは手庇を作り、ジョージの仲間たちだという人垣を眺めた。


「なぜ近くまで行かないの?」

「まあ見ててよ。……ハロー、到着したよ」


 人差し指をこめかみに当ててジョージが呟く。その仕草で、埋め込み型インプランタブル生体デバイスを取り入れているのだとわかった。

 呼びかけが仲間たちが伝わったらしく、こちらに手を振る人影が見えた。何かを囲んでいた人垣が崩れて周囲へ散る。お陰で、隠れていたものが露わになる。


 最初、目を疑った。

 現れたのが、頭に枝角が生えた、四つ足の動物だったからだ。

 俺の目に狂いがなければ、サンタの橇を引く大型動物に見える。


「トナカイ?」

 キミカが唖然と呟いた、次の瞬間。


 そいつが宙に浮き上がった。


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