第20話 十九章 女性に「あたし、キレイ?」と聞かれたら、とりあえず「ハイ」と言っておこう

 梅雨の頃、葛城学園は、中高ともに中間テストの期間となる。


 試験期間中は部活動も中止となり、生徒らはいつもより早く帰宅する。

 文科省から「私学における働き方改革のススメ」という冊子が配布されていたりするため、学園の教師たちも、業務に支障のない限りは、早めの退勤が推奨されている。


 加藤は、文科省推奨を守ろうとして、というわけでもないが、帰り支度を始めると、白根澤に声をかけられた。


「あら、せいちゃん、早いお帰りね。デート? うっふふ。まっさかねえ」

「質問して自己完結するな! 行くところがあるんだ、今日は」


「お小遣い、あげようか?」

「いらねえよ!」


 世間的には『おっさん』と呼ばれる年齢になったというのに、白根澤も兄も、加藤に抱くイメージは、昔のガキのままである。


 そんなに、俺はアホだったのか?

 しょうもない子どもだったのか?

 周りに迷惑かけたのか?


「その通りだが、何か?」


 すっぱりと、東条蘭佳とうじょうらんかは言った。


 ここは「東条ペインクリニック」という、蘭佳が院長を務める医院である。


 東条家は、加藤の母方の一系だ。

 その殆どが、医者か医学系研究者である。


 蘭佳は、加藤の母方の従姉である。年齢は、加藤の兄憲章よりも、さらにいくつか上のはずだ。

 元々、蘭佳の父親が「整形外科」として開院していたが、蘭佳が麻酔科専門医になってから、疼痛緩和を主体とする、ペインクリニックに変わった。


 東条蘭佳は黙っていれば、間違いなく美人である。

 加藤と同じくらいの長身に、腰まで届く長い黒髪。

 メイクいらずの長い睫毛と大きな瞳。


 蘭佳が街を歩けば、十人中八人が振り返る。


 振り返らないのは、加藤や氷沼のような、特殊な性癖の持ち主だけだ。

 ちなみに加藤が振り返るのは、蓮華微笑を浮かべた菩薩像のような女性であり、氷沼は、何かの恐竜に似ている女性を見かけると、振り返るどころか追いかける。


 ただし、この蘭佳、俗に言う「竹を割ったような」性格を、ナナメ下に移行させたような人格だ。     

 周囲からは「スイカを叩き割って、ぐちゃぐちゃにする」女と言われている。


「それで、何が訊きたい、加藤誠作」


 加藤は、兄憲章が先だってぽろっと漏らした、「加藤誠作の自律神経改善のために行った神経ブロック」について、蘭佳に尋ねた。


「なんだ、そんなことか。覚えているよ。私はまだ高校生だったが、父が星状神経節ブロックを行うというので、見学していたからな」


 星状神経節は交感神経のひとつである。交感神経の過剰興奮は血流を悪くすると言われており、第六頸椎に局所麻酔を行うと、その交感神経の働きは、一時的に抑えられる。


「なるほどね。俺は覚えていないけど、効果あったんか? それ」


 蘭佳はふと目を細めた。


「あったと言えばあったな。ただ……」


 彼女は加藤に学術誌を渡す。


「神経ブロックだけの効果では、ないと思う。マッサージをしていたんだ、憲章が。お前の背中を、毎日毎日」


「えっ? あいつが、俺に対して、マッサージ?」


「そうだ。あの時代から既に、不安を抱えた人への按摩やマッサージは、オキシトシン分泌を高めると言われていたからな。オキシトシン分泌が高まれば、問題行動が減るとも言われている。詳しくはそれを読め」


 オキシトシン。

 神経伝達物質の一つ。

 分娩時に子宮を収縮させる働きや、乳汁の分泌促進作用があることから、女性特有のホルモンと考えられていたこともあったが、男性にも存在する。ストレスの緩和や、社会的行動の発達にも関与するという。


「ついでに、もいっこ質問だ。神経ブロックは、記憶の改ざんや消去も、可能にするものか?」


 蘭佳の目が光る。

 猫科大型猛獣のような、金色の瞳だ。


「面白いことを聞くな、誠作。私はやったことはない。しかし、不可能ではない」

「ということは、やった奴がいるんだな?」


「知りたいか? 誠作」

「そりゃあ、わざわざこの俺が、手土産持って来たんだからな」


「それではその前に質問だ。誠作。

私は美人か? 不美人なのか? さあ、どっちだ!」

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