(二)

(二)


 聖殿とエグジアブヘルの旧副王領を行き来する日々が続いた。ナパタ人の集落を襲撃し、家屋に火を放ち、略奪の末に皆殺しとする。伝染病の蔓延は一時の勢いは失ったものの完全に終わることはなく、訪れた時にはすでに生きとし生けるもののすべてが腐り果てた村落もあった。

 ナパタ人を出自とするナサカは、厄災の影響を受けなかった。ひとえに、聖女王であるフォロガングとの強固な繋がりが――義肢の存在が――あったからだ。

 殺戮はナパタ人のみならず、聖女王政権に対して反抗的なメロエ人、あるいは両族の混血にまで及んだ。ナパタ人とメロエ人に、身体的な差異はほとんどない。メロエ人の言語ことばや比較的小柄な体格、首や鼻の長さなどで区別するよう言われた。一方で地域によっては混血が進みんでいることもあり、正確な見分け方とは到底言えなかったが――それがおもてだって議論されることもなかった。

 ひとつの集落の襲撃する際、まず優先してナパタ人の戦士の制圧が行われた。伝染病が蔓延していればたやすく、そうでない場合も聖女王カンダケの預言を託されたメロエ人の戦士は負け知らずだった。メロエ人の奴隷が所有されていれば引き渡され、それが終わればナパタ人の女子どもをまとめて近郊の森や荒れ地に連れ出す。あらかじめ窪地を選定するか、事前に穴を掘って準備することが多い。 

 汗を吸おうとまとわりつく蠅が鬱陶しく、しかしそれを振り払う気力さえなく、ナサカは鉈の柄を握りしめていた。彼女がいったい何人目なのかも数えていなかった。思考の暇を挟まず、後ろ手に縛られて座らされた人間の背中に木の棒をあてがい、姿勢を固定し、その首にむかって鉈を振り下ろす。位置がほんのすこしでもずれてはいけない。頭が砕けて、血飛沫や脳漿を浴びるはめになるからだ。戦士たちのなかには一滴も血を浴びることがなくこの作業をやってのける者もいたが、ナサカは不得手だった。

 乾期の熱い日射しを、女の黒い首筋が反射している。無抵抗の相手に鉈を振り下ろす。狙いどおりに行かず、火照った血を半身に浴びる。分断された頭と胴体を穴の中に捨て、また次の犠牲者に手をかける。身をよじり、もがく女の縄を掴んで体を引き寄せる。体の中心に高い熱がわだかまり、今にも破裂しそうになる。心腑の鼓動の音、耳の裏で血潮が流れる音、途切れ途切れに吐き出される自分の呼気の音を聞きながら、女の痩せた背中を踏みつけ、鉈を下ろす。

 血まみれの背中を、日影がうつろった。

 あやまって縄を断ち切ってしまったことに気付いたのは、次の瞬間だった。

「どうして殺されなくちゃいけない」

 女が泣き叫んだ。「亭主も子もみんな殺されちまった」息も絶え絶えに訴える。

 肩を掴めば、振り返った女と目が合った。黒々とした眸に、疲弊しきった自分の顔が映り込むのを、ナサカは黙って眺めた。

「――お前を呪ってやる」

 不意に頭のなかを過ぎったのは、地面を這いずる養母の腕をつかんだ感触だった。とたんに叫び出したい欲求に駆られた――「違う、私はお前たちと同じなのに!」喉もとまで出かかった悲鳴は、背後から響いた怒号にかき消えた。

「何をしている、殺せ!」

 エベデメレクの声だ。弾かれたように顔を上げ、ナサカはとっさに鉈を振り上げた。渾身の力で下ろしたそれによって、女の頭が砕けた。上半身がしとどに濡れた。絶命を確認するまでもなく、ナサカはその場に膝をつき、嘔吐した。

 ここ最近は水とわずかな食糧しか口にしない日々が続いていて、ナサカの唇からこぼれ落ちたのは胃液だけだ。逆流する酸に喉が傷つき、血が入り混じってゆく。

「今日は使い物にならんな。同胞に情をかけるくらいなら貴様が死ね」

 えずくナサカを横目に、エベデメレクは言い捨てた。立ち上がらねばならないとは思うものの、両足がひどく重かった。

 地面の巣穴から這い出た甲虫が吐瀉物にたかる。

 やっとの思いで腰を上げたのは、周囲が静まりかえってからのことだ。女の死体を抱え、それを穴のなかに放り投げると、他の戦士が火を熾した。穴のなかに積み上げられた無数の亡骸の上を、舐めるように炎が這い回ってゆく。

 白昼、あたりはまぶしいほどに明るいのに、不思議と視界が狭く、目の前が暗い。半身に打ちつける灰とすすの熱を感じながら、その火をみつめた。

「引き上げるぞ」

 誰かがナサカに声をかけた。ナサカは黙ってうなずき、乾いた血のこびりついた腕で顔にかかった灰を払った。

 首のまわりに何かがまとわりついて、呼吸をするのが難しかった。

 その日の夜、ナサカの所属する遊撃隊は、数日野営の拠点とした森を離れ、聖殿へ退却するよう命じられた。彼女がその話を聞かされた頃、森の奥からは、〝略奪〟されてきた女が代わる代わる犯される物音が響いていた。「白子アルビノの女がいた」と言って仲間たちが連れていったのは初潮前の幼い娘だ。一般に、白子アルビノの肉体には強い霊力が宿っているとされ、きよらかな体とまじわればあるゆる病が治癒すると信じられている。

 ナサカが運搬用の驢馬に荷をくくりつけていると、エベデメレクが姿を現した。彼のように地位のある者、一部の戦士は体が腐ることを恐れ、襲撃先にいるナパタの女には触れようとしない。一方で、部下たちを諌める気もない。

「お前はしばらく隊を外れろ」

 無言で驢馬の鞍をしつらえているナサカを見て、エベデメレクが言った。

「どういう意味だ」

 女を集団に置いておくわけにはいかないとようやく思い至ったのか。浮かんだ推測はひとまず脇に置いて問いかければ、別の任務があると言われる。

聖女王フォロガング夢視ゆめみだ」

 それぞれの戦士は小集団に分かれているが、そのすべてが聖女王の指揮下にある。聖女王からは、かならず出陣の前に伝令がくだる。襲撃すべき集落の場所、時間帯、規模感や周辺の地理地形。どれも彼女が夢で視る内容で、一種の予言だ。

 厄災の反動を引き受けながらあのような芸当ができるのは、彼女しかいない――いつかエベデメレクがそう漏らしたが、事実、フォロガングの夢視が外れたことは一度もない。

「近郊に聖女王の古い神殿がある。結界に隠されているが、聖女王の刺青を持つお前であれば、足を踏み入れられるはずだ」

「そこで何を」

「あるものを取ってきてほしい。だが、中身は知るな。聖女王への忠誠を示せ」

 ナサカは黒い目をすがめた。もとより断れるものではない。

「あまり気に病むな。われわれはお前の敵ではない」

 ナサカの表情に何を思ったのか、エベデメレクは男にするようにその肩を叩いた。つられてうなずきはしたものの、思い出したのは先ほど森に連れていかれた小さな娘だ。り編んだ白い髪が肩にかかって、夜闇のなかを揺れていたことを。


 エグジアブヘルは地形変化に富んだくにだ。ナサカの生まれ故郷の北部高原は急峻が連なるが、聖殿は海抜が低く酷暑の砂漠。一方で豊かな森林地帯もようし、まだ目にしたことはないが、巨大な河の流れる土地もあるという話だ。いずれも地溝帯によって分断され、深い峡谷はひとつ越えるのにも丸二日以上かかる。行き来はけっして容易ではない。

 夜半には隊を外れ、ナサカは聖殿の帰途とは異なる進路を取った。いくつもの沢を越えて鬱蒼と茂る密林を抜け、切り立つ崖の道を進む。道中人の住む里があるという話だったが、通りがかった集落は、ふるいあたらしいの差はあれども、疫病と略奪で荒廃しきり、井戸の水は腐っている。痩せた犬が右往左往する横で、猛禽やうじが死体の山にたかっていた。

 肌に触れる気温が徐々に上がってゆく。しょうせきの露出した荒野を進むと、やがて切り立つ崖のそびえる場所に出た。ナサカはその赤い崖を見上げた。遙か先に、建造物の影が見える。

(これをのぼれというのか)

 砂岩から成る崖の斜面には頂上にむけて不自然な窪みが点在し、『ここ』が機能していた時分、神官や信徒たちがよじのぼったのだろうと推測できた。

 迂回路があるのかもしれないが、神殿というものの性質を考えると巧妙に隠されているだろう。

 ナサカが迷ったのはわずかな時間だった。谷底に連れていた驢馬を置き、比較的小さく軽い山刀だけを選別して口にくわえると、古い足跡に義肢の足先をかけた。もともと身のこなしの軽い女であったから、岩壁の大半は難なくのぼることができた。しかし視界の端に建造物のかたちを捉えたところ、谷底から強い風が吹きつけた。岩壁にしがみつきながら、しばらくその熱風を耐え忍んだ。命綱さえない状況だったが、不思議と恐怖心はなかった。

 風が止んだのを確認し、さらに上に向けて腕を伸ばす。

 その瞬間、風によってもろい岩肌が崩れたのか、落石が視界を過ぎった。

 とっさのことに判断が遅れた。落石自体は何とか避けたものの、足がかりとなる窪みを離してしまった。別の突起を掴んだが、岩壁を這い上るための道筋からは逸れてしまった。

 頂上は、まだ遠い。

 照りつける日差しがむきだしの背中を焼く。額に浮かぶ汗を拭うこともできず、視界がぼやける。ナサカは深呼吸した。

 原始的な生への渇望に突き動かされる。

 気力を振り絞って崖を登りきった。頂上にたどり着く頃には、慣れない運動に全身が疲弊していた。山刀を手に持ち替え、仰向けに地面まで倒れ込んだ。

 風が吹いている。

 手足が重く、思考もはっきりしない。ふと視界に影ができ、目を凝らす。逆光のなかおぼろにしか捉えられなかったが――白い髪に見えた。

「フォロガング」

 枯れた声が喉を通り、空気を震わせた。

 ナサカが伸ばした腕を、人の手が掴んだ。その感触に意識が冴え渡る。

「ここに客がやってくるなんて、ずいぶん久しぶりのことだ」

 耳朶を打つのは玲瓏な声、目の前にたたずむのはひとりの白い女。

 全身を瘢痕と子安貝タカラガイの装飾品でよろい、腰に金糸刺繍を施した綿布を巻いている。小柄で、若そうに見えたが、すぐに死人だとわかった。なぜならば、女からは視界がかすむほどの強烈な屍肉の臭いが放たれていたからだ。

「お前は私の夫の使いか」

 身を起こし、女の手を振り払う。

「違う。ここはどこだ」

「メロエ人の数ある神殿のひとつ」

「お前はなぜここにいる」

「〝赤き膚の者たち〟がわれわれの都までやってきて、たくさんの家族や仲間を殺した。私が夫と子とともに落ちのびたのが、この神殿」

 女の背後には、朴訥とした石の建造物がそびえ建っていた。エベデメレクの話にもあった『神殿』で間違いないだろう。

 強力な結界が張られて、メロエ人の呪術師や神官でさえ立ち入れない。廃墟同然との話だったが、まさか人が住んでいるとは思わなかった。

「お前以外の人間もいるのか?」

「いや。夫は子どもたちを連れてここを発った――いつか私を迎えに来ると言い残して。私はここに魂を繋ぎとめられたので、出られないのだ」

 女の白い膚には隈なく刺繍が施され、緻密な金の文様が光り輝いている。白子アルビノのからだには莫大な霊力が宿ることを考えると、何らかの呪詛の礎に、みずからの肉体を用いたのだと推察された。

「お前の名は」

「マケダ。お前は?」

「ナサカだ。マケダ……お前は、聖女王の血縁者か」

「そう。聖女王ビルキスは私の姉」

 半信半疑で問いかけ、帰ってきた答えにナサカは目を瞬く。

 ビルキスとは、ナサカでも知っている古の聖女王の名だ。ナパタ人の母系譜にさえ時折現れる存在で、滅亡した神聖王権最後の統治者、そう語り継がれている。

(ここは結界で隠されていると聞いた。数百年、時が止まったままなのか)

 マケダ本人がそのことに気付いているかはわからない。

 推測するに、彼女は自身の肉体を用いた結界によって、途方のない時間、この場所を閉ざしてきたのだ。

 マケダは座り込んだままのナサカの隣に腰を下ろした。じっと顔を覗き込んでくる瞳には、抗いがたい引力がある。赤い瞳が焦点を探して左右にぶれ、鏡のような虹彩に女の消耗しきった表情が映る。

「ああ……そうか、お前……」

 ふいに白い睫毛を伏せると、マケダはやわらかく笑った。どことなくフォロガングに似た顔立ちをしてると思ったが、彼女はけっして見せないような表情だった。

「お前が夫の使いでないならば、なぜここへ来たんだ」

「用があって来たが、お前には言えん」

「そうか。私のものを奪いにきたのだな」

 屈託のない女はけらけらと笑い、「私の話し相手になってくれるなら、神殿に入れてやろう」と続けた。

 その言葉にナサカは胡座あぐらをかき姿勢を正した。山刀は肌身離さず持っていたが、聖女王の血縁者――それも白い女――となれば、優れた呪術師だろう。一介の戦士である自分に太刀打ちできるとは思えず、ならば機嫌を取ったほうがよいと考えた。

「結婚はしているか」

「昔に一度。子はいない」

「そうか。私も夫がいる。不思議な男で、妻は私以外いらないと言っていた。メロエ人の男でそれはあまりに意気地がないと、何度も第二、第三の妻を娶れと言った。見繕ってやろうともしたが、私だけで十分だと頑なに言い張る」

「……めずらしい男だ。何が十分なのか」

 マケダは微笑み、「さあ」とつぶやいた。

「子だくさんだった。十人だ。白い女が三人もいて、末の子はまだ生まれたばかりの、夫によく似た男の子だった。ああ、もうすこし世話をしたかった。私は子どもが大好きなんだ」

 白い指先で砂地に輪を描きながら、マケダは囁いた。その横顔には、他の女たちがすくなからず抱えるような――あらゆる苦悩の片鱗のひとつさえ見出せなかった。

 思い出すものがある。ずっと昔、まだ故郷に暮らしていたときのことだ。幼かったナサカは火焔木の根元に座り、自分の未来を想像しては胸を躍らせたものだった。病弱で、割礼さえ受けていなかった時分――結婚というものは未知の輝きを帯びていた。そのときの感情を彷彿とさせられ、何か、ひどく打ちのめされたような気分になった。

「夫の腕に抱かれて眠ったことをよく思い出す。すこし煙っぽい薫香がしたことなんかを。ああいう日がずっと続けばよかったのにと思う」

 ふたりは崖の際に座り、ナサカは眼下に砂岩の隆起する荒れ地を眺めている。山刀の刃を指先でもてあそび、やっとの思いで、そうかと小さくうなずく。

「よい夫と子に恵まれたようだ」

「お前は違うようだな。可哀想に」

 ナサカは表情を変えず、黙って首を左右に振った。

「可哀想ではない。私は加害者だ。人をたくさん殺しているから」

「なぜ殺す」

「生きるために必要だから、殺さずにはいられないから。よくわからないんだ」

 マケダは微笑み、「私にはわかるよ」と答えた。

「お前は私を憎む者たちと同じ目をしている。怒りに満ちたまなざしだ……お前は自分にはない特権を持った不特定多数の他者を憎んでいる。そして、時にその相手に出し抜かれることを恐れている。苦労してきたのだろう、あらゆる暴力を受けてきたのだろう。暴力を受けた者に生まれる心のひずみは、けっしてもとには戻らん。お前はお前の羨望するもののために心を病み、自分を傷つけるものに対して攻撃的になる」

 淡々と語って、何が憎い、とマケダは問う。

 ナサカは声を詰まらせ、視線を揺らした。膝に置いた拳を握る。

「何に苦しめられてきた。言葉にすることさえ嫌か」

「男が憎い、女であることに苦しめられる」

 そう口にしてから、ああ、と嘆息をこぼした。

「違う、そのようなことを言いたかったわけではない」

「お前のなかでは男と女は対立するものなのだな。きっとつらい目に遭ってきたのだろう」

 腰を上げると、綿布の裾をひるがえしてマケダは神殿にむけて歩きはじめた。

 金糸で縫われたその背を眺める。まばゆいほどに白い。

「こう見えて、私も昔は優れた呪術師だった。姉様ビルキスと同じ程度に。しかし結婚を機に徐々にその力を失ってしまった。夫とともに静かに暮らす私は、権力闘争から落ちこぼれた日陰者だと嗤われた。しかしかまわなかった。それまで私の首のまわりにまとわりついていたものが薄れていった」

 彼女の言葉に弾かれたように顔を上げ、山刀の柄を握りしめた。

「呪術とは、欠けたるものだけが得る異能」

 ナサカは足音を消すと、マケダの背後に忍び寄ろうとする。その矢先、彼女が振り返った――迷うことなく振りかぶった刃が、その左胸に突き刺さった。

 刃の突き刺さった胸を押さえて、マケダは目を数度瞬く。

 血は流れなかった。

「ここにたどりついたとき……私にはもうほとんど力がなかった……ビルキスに託されたものを隠すために……私は……白い女としての肉体を捧げた……」

 それまで質量を伴って存在していた女の体が灰燼に帰す。猛烈な風が巻き起こり、ナサカの目の前にあった神殿の扉がひとりでに開く。

 赤い一枚岩をいた素朴なつくりのものだ。足を踏み入れれば、おーい、とどこからかマケダの声が聞こえる。呼び声に誘われるように、ナサカは神殿の奥へと進んでいった。

 あちこちから射す太陽光が屋内を照らす。目の冴えるような色鮮やかな顔料が、呪紋に似た緻密な文様を描き、壁から天井にかけての岩肌を隙間なく覆う。 

 背後から足音が聞こえたかと思うと、幼子が甲高い笑い声を響かせて真横を通り過ぎ、通路の奥にたたずむ白い女に駆け寄る。その腕に抱き上げられ、ともに黒い靄となって消える。

 動物の鳴き声をまねた喉笛、母系譜をうたう女のやさしい声が四方から響いた。

 熱い風が、ナサカの砂粒のついた背を撫でた。通路は隧道へと変わり、なおも奥に進めば、地下でひとりの少年が待っている。はにかみながら椰子油の手燭を渡すと、彼は瞬く間に砂となって消えた。

 灯りを頼りに暗闇を歩く。やがてたどり着いたのは墳墓だ。中央にヒユアロスガラスの棺がひとつ。炎の光で周囲を照らすと、四方に壁画があるのがわかった。それを見て、ナサカは一切の言葉を失ってしまった。

 視線を縫い止めたのは、西側の壁だった。

 そこに女の絵がある。

 ――聖女王カンダケの画だ。

 縒り編んだ白い髪に白い膚、赤い瞳をしたひとりの女が腰かけている。金色の糸で刺繍した腰布を巻き、左手には小さな宝珠か何かを持っていたようだが、部分的に剥落してしまって、正体はわからない。

 その横顔を前に、ナサカは我を忘れて立ち尽くした。

 時間の感覚が遠ざかり、溶岩のように全身が溶けて輪郭が曖昧になってゆく。風の渦巻く音だけが、はるか彼方から聞こえていた。

 女の背景は特徴的な二色に塗り分けられている。上部は瑠璃ラピスラズリを砕いた青色、下部は紅殻ベンガラを用いた鮮やかな赤色。死の湖を渡るでもない、そこで誰かを待ち受けているような。火の煙のくゆるなか、ナサカが瞬きひとつせずに見つめる彼女の顔は清冽で、どんな濁りもない。聖女王という超越的な存在を象徴する画であると理解する一方で、ナサカの目には、あらゆる苦痛や煩悶が摩耗しきった先にある、かの女の姿が描かれている気がしてならなかった。

 あるいは、そう祈らずにはいられなかった。

 直感したのだ。

 死の湖を越え、神の国に至るとき、ひとはすべての憎しみや悲しみを手放すことができる。あの女は、そう信じることでか細い息を繋ぎ、ようやく生きているのだと。

 耳奥で女の声が木霊する。助けてくれ、というあの悲痛な叫びが、頭のなかで透明な嵐となって吹き荒れた。

 両手足の義肢が苛烈な熱を帯びて軋む。

(私はまだ、お前とともにいるのだ)

 焼けるように熱い指先を伸ばし、乾いた岩肌に触れる。そこで、糸が切れたように座り込んだ。赤い顔料に黒い手のひら、額をこすりつける。壁に爪先を立てながら小さくうずくまり、嗚咽を漏らした。

「どうして泣く。この穢れ果てた地で這いずり死ぬことを恐れるか」

 マケダの声が聞こえる。

「恐れない。私はひとりでないとわかった」

 私だけではないのだ、ナサカは繰り返した。

「お前の手足に呪詛をかけた女か。もはや遠く離れているだろう、なぜ思う」

「あの女が諦めたものが、私のなかを巡っているから」

 四肢のつけ根が燃えるように熱い。はじめから、この四肢はナサカだけのものではなかった。フォロガングの四肢でもあった。四肢をもがれたフォロガングが、曠野をさまよい探し当てたのが、ナサカという手足だったのだ。ふたりが出会った日から、彼女が表現しようと諦めた心、永遠に封じ込めてしまった怒りや悲しみ、そして憎悪が、息もつけぬ勢いでこの全身をめぐりはじめた。ナサカのなかにもとからあって、しゅんどうする感情と混ざり合い、どちらのものでもなくなった。彼女と自分はずっとひとつだったのだ。

 憐れな女、救いがたい女、かなしき女――わが魂の友!

 声もなく叫びを上げ、ナサカは自分の体をかき抱く。その頭を、冷たい腕が撫でた。

「あまり悲しむな」

 その声に顔を上げれば、マケダの姿はない。立ち上がって透明な棺に歩み寄れば、そこにひとつの亡骸ミイラがあった。

 彼女が腕に抱いたパピルスの巻物を、ナサカは奪い取った。中身は確認せず、棺に背を向けて来た道を戻った。岩窟にむけて遠くから射し込む太陽の光が目に染みて、まっすぐに前を向くことさえ難しかった。苛烈な日差しは、神殿を飾る壁画や彫刻を白日のもとにさらし、濃やかな影でいろどっている。

 外に出ると、やはりマケダの姿があった。彼女はこの結界のなかでのみ――――亡骸が朽ち果てて消えるまで――永遠にひとりで彷徨うのだろう。

「ずっと夫を待ち続けるのか」

 ナサカの言葉に、彼女は白い睫毛をしばたき、屈託なく笑った。

「最初から分かっている、戻らぬことなど。子たちを連れ、夫は安寧の地を求めて北の険しい峡谷地に向かった。道中、子の大半は死んだだろう。夫もどこかで殺されたかもしれない。それでも……ひとりでもその場所にたどり着いたとわかった」

 お前が何者であるか知っているよ、とマケダは語りかけた。

「お前がどこからやってきたのかを知っている。知りたいのなら、教えてやろう」

「興味がない」

 ナサカはそう答え、マケダの横を通り過ぎてふたたび崖を降りようとしたが、思い立ったように彼女を振り返って問うた。

「お前は欠けたものを取り戻したのから、呪術の才を失ったのか」

 白い髪が揺れた。マケダはかぶりを振ると穏やかな声で囁いた。

「欠けたることの何たるかを知ったのだ」


 聖殿に帰り着いたナサカを出迎えたのはエベデメレクだった。

 熱水を噴き上げる間欠泉の岩場でふたりは顔を合わせ、ナサカはパピルスの巻物を渡した。彼は満足そうにうなずくと、彼女の功績を讃えた。

「ビルキス聖女王の祖母の代に作られた地図だ」

 パピルスの中身を見せることはなかったが、エベデメレクはそう教えてくれた。

「《赤き膚の者たち》の副王領府から略奪した地図と照会する。さすればビルキスが隠した都市跡が見つかるはずだ」

 めずらしく興奮気味に語る男を黙って眺めていると、何を思ったか、エベデメレクは「フォロガングに会わせてやろうか」と問うてきた。

「お前に恩を売るつもりはない」

 ナサカは即答した。「純粋な善意だというのに」と溜息をつかれる。

「そうか、エベデメレク、お前は計算高い男なのだろうな」

 エベデメレクは肩を竦めた。

「本当にいいのか」

「必要ない。今更会ったところで、話すことが何もない」

「薄情なやつだな」

 ナサカは苦笑を漏らすと、踵を返した。

 黄昏の空を、硫黄泉が移し込んで赤々と輝いている。

 耳の奥から、女の笑い声が響いた。

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