第14話 迷滞の章 *離合集散~宿敵死す

*離合集散


 平林城から春日山城への帰路、輝虎は与板の直江景綱のもとに立ち寄った。軍勢の大半は先に帰している。

 昨年末、信玄による駿河侵攻によって、三国同盟を破棄した北条氏康・氏政父子は、手のひらを反すかのように、輝虎との和議と同盟締結を、しきりに求めて接触してきていた。

 既に氏康の使僧である天用院が小田原を発ち、春日山に向かっているという。季節外れの風雪に見舞われ、今は沼田で立ち往生しているらしい。

輝虎は、小田原との和議を進めるか否かを迷っていた。ようやく本庄繁長の乱が片付いた今、景綱と忌憚なく相談する必要があった。

「大和守、小田原との和議の件だが、どう思う」

「一概には申し上げられませぬ。御実城様ご自身は如何すべきとお考えで」

「儂も迷っている。これまでの敵対関係や、我らに対する仕打ちを考えれば、和議を結ぶなどあり得ぬ話じゃ。儂一人の考えだけなら一蹴するところだ」

「それでも、利するところがあれば、これまでの遺恨を水に流して、同盟することも考えざるを得ないとお考えですか」

「うむ、但し、事はそう単純ではない。これまで同盟関係にある佐竹や里見への体面もある。何かと足を引っ張られることが多い里見殿はともかくとして、佐竹義重殿を裏切ってしまうのは、実に心苦しい」

「左様ですな。小田原との同盟となれば、恐らく、両氏は離反してしまうでしょう」

「それに、小田原が同盟相手として信用に足るものか半信半疑でもある」

「しかし、此度の同盟破棄は信玄が原因であり、小田原としては当然の判断です。これまで長期にわたり同盟関係を、誠実に維持してきたことを考えれば、信用しても差支えない相手と存じます。そのうえ、此度は小田原からの一方的な強い要請ですので、裏切られる心配は少ないと思われます」

「そうか」

「先ず、この同盟で我らが利することは何かを、考えてみては如何でしょうか」

「それは既に考えてみた。先ず、信玄が今までのように動けなくなる。恐らく奴は更に西を目指したいに違いない」

「今のところは三河の徳川と同盟を組んでいるようですが」

「奴にとって同盟は守るものではなく、破るものであろう。必ず西に向けて動く」

「なるほど。それは言い得て妙ですな」

「それに同盟となれば、越中や能登への動きが取り易くなろう。関東管領の立場も認めさせることが出来る。北条高広の帰参と併せて、東上野からの撤兵も主張出来よう」

 輝虎は北条高広の本意を、景綱だけに話してあった。

「逆に小田原から求められることは何がございますか」

「武蔵国までの領有と鎌倉公方として義氏殿を認めて欲しいということ。藤氏様亡き今となっては、致し方ないとは思っておる。もう一つは、武田信玄への牽制か。信濃出兵を求めてくるかもしれぬ」

 足利藤氏は三年前にこの世を去っている。

「その程度であれば、我らに利することばかりではござりませぬか。佐竹・里見の両氏とは、いずれ話し合う機会がございましょう。昨年九月には、織田信長が足利義昭公を奉じて上洛し、第十五代将軍に据えたと言うではありませんか。これから先、何が起きるか分かりません。先ずはこの小田原との和議同盟の話を、前に進めては如何ですか。それに、この機会にもう少し無理を言ってみては如何でしょう。向こうが本当にこの同盟を切望しているのであれば、聞き入れる可能性は、極めて大きいと思われますぞ」

「その無理とは例えば何じゃ」

「例えば、氏康か氏政の子を、質として差し出させるとか。それから、武蔵国唯一の例外として、岩槻城を太田資正殿に返還させることも必要でしょう」

「大和守もなかなかの策士じゃのう」

「御実城様に鍛えられましたからな」

「言うではないか。ではその線で和議の話を進めるとしよう。やはり、迷った時の大和守か」

 それは冗談のようで本当だった。これまでも、こうやって幾度も助けられてきた。

「御実城様、これからは戦勝祝いと参りましょう。旗本衆にも他の間で、寛いでいただきますのでご心配には及びませぬ。それに、この機会に会って頂きたい者がおりますので」

 暫くすると襖が開き、そこには女人二人が揃って座っている。

「妻のゆう、そして娘のせんでございます」

 景綱は妻に二度先立たれている。一人目は蒼衣の母であり、二人目はここにいる船の母で三年前に亡くなっていた。結は三条城主である山吉政応の娘であり、豊守の姉でもある。船はこの時、十三歳、あどけなさが残る中にも、凛とした表情と佇まいが不思議な魅力を放っている。この二人の女性が、やがて上杉家にとって運命的な出来事に、大きく関わることになる。

 酒と肴を乗せた膳が二人の前に置かれた。

「どうぞ、ゆるりとお寛ぎくださいませ」

 結の一言で、いつものように二人だけの宴が始まった。

 輝虎は盃に口をつけた。酒の香りが鼻いっぱいに広がる。明日は、早く起きて蒼衣の墓参りをしよう。輝虎はそう決めていた。


 小田原城本丸の一室に、ひとりの僧がいる。北条氏康の使僧、天用院である。越後から戻ったばかりで、旅姿のままの登城を許されていた。

 氏康・氏政親子が着座するまで、然程時を要していない。二人にはむしろ、待ちかねていた表情が伺える。

「結果は如何であった」

 当主の氏政を差し置いて、氏康が口火を切ることは極めて稀である。

「同盟については、諾という返事を頂きました。起請文もこの通り持ち帰っております。先ずはお目通しを」

 輝虎の起請文が、氏康から氏政へと回された。本物に間違いない。

「当家にも起請文を出せと言ってきたか」

「はい、御本城様と御当主様の連名で、しかも血判を据えて、お願いしたいとのこと」

「こしゃくな奴」

「まあ良いではないか。たかが紙一枚で済むことじゃ」

 いきり立つ氏政を氏康が宥めた。

「思っていたよりも手強い相手でした。ご当家の足元を見て、いろいろと条件を出して参りました」

「その条件とは如何なるものか。申してみよ」

 今度は氏政が天用院に投げかけた。

「先ずは、足利義氏様を関東公方として認める代わりに、輝虎殿を関東管領としてご当家が認めること。これは従前から想定していたことですので、問題ないと思います」

「うむ」

「それから、関東管領を認めるのであれば、東上野からの撤退を求めるとのことでした。これも想定内のことですので、武蔵国の領有を追認することを条件に応じて参りました」

「では、何が問題なのじゃ」

 焦れた氏政が食い気味に詰め寄るが、それを氏康がいさめた。

「当主たるもの、そう焦るではない。先ずはゆっくり天用院殿の話を聴こうではないか」

「ありがとう存じます。全面的に委任されたとは申せ、拙僧の一存では決めかねること故に、これから申し上げる話は、答えを留保して参りました。第一は質の交換です。輝虎殿には御子がおりませぬ故に、重臣の嫡男である柿崎晴家殿を差し出すと。ただ御当家からは御本城様の御子様か御孫様を差し出して欲しいとのことでございます」

「それは呑めぬ話じゃ。あまりに対等な同盟からかけ離れておるではないか」

「まあ待て。こちらにとっては、むしろ好都合の話ではないか」

「父上、それはどういうことですか」

「奴には子がおらぬし、未だ跡継ぎを決めてはおらぬらしい。今のところは養子の甥が一人いるだけとのことじゃ。そこに当家の血筋を送り込めれば、あるいは関東管領を継ぐことも、ないとは限らぬぞ」

「しかし、そう簡単に事が運びましょうか」

「輝虎の養子にすることを呑むならば、応じようではないか。奴は質として預かった子を、城内で我が子同然に慈しみ、学問や武芸を教え、その中からやがて自分を支える家来を見出そうとしていると聞く。これは当家にとっては願ってもない話じゃ」

「なるほど。しかし、問題はそれを誰にするかですが」

「眉目秀麗で賢い奴がよい。それは追々考えるとしよう。条件とはそれだけか」

「もうひとつございます。武蔵の領有は認めるが、唯一の例外があると」

「はて、それは何か」

「岩槻城を太田資正に返還して欲しいとのことでございます」

「それはあまりに傲慢な要求。そもそも、岩槻城は我らが力づくで、奪ったものではない。今更返せとは。父上、これは断固拒否すべきです」

「そのように短絡的に考えるものではない。一応承知はしても、あれこれ理由をつけて先延ばしにすればよい話ではないか。何かの時の切り札として使えれば、それでよい」

「わかりました。ただ、父上はあまりに輝虎を信じ過ぎてはおりませぬか。小田原の街を焼き尽くした憎き敵だったことをお忘れですか」

「それは儂も忘れてはおらぬ。街の復興まで数年かけて、ようやくここまで来たのだ。しかし、それは戦の常道でもあり、儂が奴の立場であれば、同じくそうしたであろう。それに奴は信玄とは違う。一旦決めたことを、自ら破ることは決してしないおとこじゃ。仁義にもとることは許さぬ程の熱血漢ゆえに、一旦味方に囲い込めば、これほど頼りになる者はおらぬ。我らはこれから武田信玄というぬえのような奴と、対峙しなければならぬ。その時に信濃口を抑える輝虎の力は、これから絶対に必要となる」

「しかし三月、我らが駿河国・薩埵山(さつたやま)で信玄と睨み合った時に、信濃への出陣を求めたにも関わらず、全く応じようとする気配すらなかったではありませんか」

「それは未だ本庄繁長という国人の内乱で、揚北に出陣しており、どうしようもなかったのであろう。自らの出陣が叶わぬ代わりに、飯山城には相当数の軍勢を配して、武田の高坂虎綱とは対峙していたはずじゃ。それに同盟を結んでいない相手の要請に応じろ、というのも、それは我らの傲慢というもの。もし、お主が言う通り、奴が役に立たないと思った時は、こちらから同盟を破棄すればよいだけのことではないか」

「そこまで父上がおっしゃるのであれば、もう何も申しません」

「では、早速、話をまとめても宜しいかな」

「お頼みいたす」

 この氏康の一言で越相同盟は締結が決まった。永禄十二年(一五六九年)五月のことである。


 同年八月、輝虎は神保長職の要請に応じて、越中に軍を進めた。本庄繁長の乱のため、春日山城に引き返した時から、およそ一年半ぶりの西進だった。

 輝虎は国境の境川を越えて、椎名軍を蹴散らし、椎名康胤が籠る松倉城を一挙に攻囲した。しかし、松倉山の山頂に構えるこの越中最大の城は、三方が急斜面という天然の要害であり、さすがの輝虎も攻めあぐねた。

 城からは石や矢が降り注ぐので、めったなことでは近づけない。夜も寝ずの番が交代で警戒を怠らず、夜討ちをかける機会もない。力攻めでは相当の犠牲を覚悟せざるを得ず、それは輝虎の望むところではない。兵糧や水も城内に蓄えているようで、士気が衰える様子はなかった。

 膠着が続くなか、輝虎の本陣に関東からの急使が到着する。その報せの内容は、またもや、下野国・唐沢山城の佐野昌綱の離反だった。北条氏と輝虎が同盟した今、佐野昌綱は、宇都宮氏、小山氏、結城氏、佐竹氏らと陰で結託しているのは間違いない。輝虎としては、関東の要所である佐野だけは、どうしても手中に収めておきたい。

 結局、冬の足音がすぐそこまで迫る十月二十七日、飛騨の三木良頼の仲立ちで、輝虎は椎名康胤と一旦和睦するしかなかった。

 春日山に帰城した輝虎には、関東出陣の前に大事なやることがあった。

 それは喜平次と名乗っている、長尾政景の嫡男、幼名卯松の元服だった。卯松も早や十五歳を迎えている。関東から仮名の見本を添えて手紙を出した頃が懐かしくもあった。烏帽子親はもちろん輝虎である。

「喜平次、そなたの諱は、今日から顕景じゃ」

「ありがとう存じます」

 烏帽子姿の喜平次顕景には、もう幼い頃の面影はない。そこには、いつの間にか、立派に成長した若武者の姿があった。

「これから関東に向けて出陣する。そなたの初陣じゃ」

「はいっ」

 顕景は嬉しそうに返事をした。

「ここに持って参れ」

 旗本衆によって顕景の前に差し出されたのは、白糸威の見事な具足だった。小札こざねには金が施され、銅丸には日の丸が描かれている。

「これは儂からの祝いの品じゃ」

「これをまとい出陣出来るのですね」

「そうじゃ。そして今日から、儂は正式にそなたの父じゃ。儂の傍で様々なことを身に着けるがよい」

「嬉しゅうございます、父上」

「うむ、祝着じゃ」

 その様子を顕景の後ろで見つめる童がいる。

 坂戸城から顕景に付き添い春日山城に来た樋口与六だ。何事も顕景となった喜平次と一緒でないと気が済まない質は、坂戸にいる時と変わらない。喜平次より五歳年下とは思えないほど大人びている。輝虎は与六の非凡な才覚を見抜き、喜平次のお供として扱い、その成長を楽しみにしている。この元服の儀にも、同席を許していた。

「御実城様、一つ宜しいですか」

「どうした、与六」

 全ての儀式が滞りなく終わったところである。

「与六も早く元服して喜平次様と一緒に戦に出たいのですが」

「そなたには未だ早いのじゃ」

「いつになったら元服出来るのですか」

「そなたはこれから、もっと身体が大きくなる。それにもっと学ばねばならぬ。ゆくゆくは、顕景や儂の側近として働いて貰うつもりじゃ。それまで待つがよい」

「それはあと何年でしょうか」

「四、五年待つがよい」

「その時は喜平次様と一緒に戦に出ることが出来ますか」

「無論じゃ。その時は儂と喜平次を助けてくれ」

「分かりました、御実城様。与六は一日も早く元服出来るよう、これからも精進します」

「それでよい。戦から帰ったら、また喜平次のもとで兄弟同様に学び暮らすがよい」

「ありがとうございます」

 与六の無邪気な笑顔が眩しかった。輝虎の顔も自然と綻んでいた。


 永禄十二年(一五六九年)十一月二十日、輝虎勢はまたも雪の中を峠越えし、上野国・沼田城に入った。顕景も厳しい雪中行軍にも関わらず、弱音一つ言うことなく入城を果たしていた。

 そこには数年ぶりとなる、懐かしい顔が待っていた。厩橋城の北条高広である。

「お久しゅうございます、御実城様」

「うむ、お主も変わりなさそうじゃ」

「このような形で帰参が叶うとは、思いもしておりませんでした」

「それは儂も同じじゃ。まさか、ついこの前まで敵対していた小田原から、和睦の話が持ち込まれるとは、まこと不思議なものよ」

「新田金山城の由良成繁殿も、早々に降伏してきたというではありませぬか。これで東上野は安泰ですね」

「そうとも言えまい。佐野昌綱の面従腹背と度重なる反逆には、正直辟易へきえきしておる。其の方らも佐野の動向は、いつも気になっておろう」

「ただ、佐野殿の本音は誰からも支配されない独立にあります。この沼田や厩橋を攻略しようという野心はないと思います」

「確かにそれは分かっておる。しかし、唐沢山城だけはどうしても押さえておく必要がある。此度のように、公然と反逆するのであれば、その芽はなんとしても摘んでおかねばならぬ」

「仰せの通りです。我らはいつでも出兵出来るよう準備は整えております」

「うむ。年明け早々に佐野に向かうことになろう。そうだ、儂より先に会いたい者がおったな」

 入ってきたのは高広の息子、北条景広だった。親子三年ぶりの再会である。

 二人は見つめ合ったまま声が出ない。

「お主たちには辛い思いをさせた。これからは親子水入らずじゃ。ゆるりと話すがよい」

 輝虎は中座のため立ち上がった。陣幕の外にいる顕景と目があった。顕景は微笑んでいた。

 永禄十三年(一五七〇年)一月、輝虎は総勢一万の大軍を率いて、下野国・唐沢山城に向けて出陣した。

 佐野昌綱は唐沢山の隣の飯盛山に一軍を置き、城との連携で輝虎軍を迎撃しようという布陣で待ち構えていた。此度は珍しく干戈を交えるつもりらしい。

 しかし、このような策も、輝虎の手に架かれば、子供騙しのようなものだ。唐沢山城兵を四千の兵で牽制し、飯盛山には二方向から六千の兵で攻めさせた。城への退路だけは確保している。輝虎は、退路を断たれた時の死に物狂いの敵ほど、怖いものはないことを知っている。

 案の定、飯盛山の兵一千五百は逆落としをかけてきたが、それは輝虎の想定内だった。速やかに兵を退却させて、平地に誘い込んだ。あとは勢いがなくなった敵兵を包囲して、大軍で討ち取るだけだった。佐野勢は算を乱して逃げ出す者が後を絶たない。向かうは唐沢山城しかなかった。

 こうなると諦めの早い佐野昌綱である。降伏を申し入れてきた昌綱を、輝虎は当初、首を刎ねるつもりでいた。これまでの度重なる裏切りを考えれば当然でもある。  

 しかし、これまでと違い、昌綱の背後には小山氏、宇都宮氏、そして佐竹義重がいる。北条との同盟は、佐竹義重に対する裏切りでもあった。今回の佐野昌綱の裏切りは、これまでとは違い、その北関東武士連合への傾斜である以上、輝虎としても、強硬手段に出ることは憚れた。

 結局、今回も昌綱を許す他なかった。

 ちょうど、その頃小田原では、越後との同盟に多少温度差を抱える北条父子が、大きな決断をしようとしていた。

「父上、輝虎は一向に信濃攻めに応じようとはしないではありませぬか。武田信玄を追い詰めるための同盟が、これでは全く機能しておりません。昨年十月には、信玄に小田原まで攻め入られているのですぞ」

 事実、武田信玄は前年、相模国まで侵入し、一度小田原城を攻囲していた。

「まあ待て。山内殿が信濃攻めに消極的なのは、我らが同盟に当たっての約定を履行していないからであろう。岩槻城を太田資正に返却しておらぬし、質の交換も何ら進めてはおらぬ」

「確かにそうですが、これでは、同盟を無視しているとしか思えません」

「それは我らとて同じじゃ。山内殿が年末に唐沢山城攻めへの出陣を求めて参ったが、酒と蜜柑を届けてお茶を濁しただけ。あとは無視しているではないか」

「このままでは双方が意地の張り合いで、どうにもなりませぬ。父上は如何すべきとお考えですか」

「先ずは質の交換を進めようではないか。岩槻城の件は必要があれば、またの機会に考えればよい。娘婿の太田氏資亡き今、次男の梶原政景は小田城を乗っ取り、資正は常陸国・片野城で頭を丸め、三楽などと称しておるらしいぞ。果たして、岩槻城に戻る気があるのかも分らないのだから」

 父である太田資正を追放して岩槻城を乗っ取った氏資は、永禄十年八月の三船台における里見氏との合戦で、敗死を遂げていた。今、岩槻城は氏政の三男である源五郎が城主として入城している。

「分かりました。しかし、当初人質として考えていた源五郎は、その岩槻城主になって間もなく、適任ではございませぬ」

「三郎にしようと思う」

「えっ、我が弟の三郎ですか」

「そうじゃ、儂の息子じゃ。奴も十七の歳になる。なかなかの器量良し故に、山内殿も気に入るであろう」

「父上が良ければ、何も言うことはございませんが、当家に迎い入れるのは家臣の子。些か不釣り合いに存じますが」

「それは前にも話した通りではないか。養子とすることを条件にすれば、いつか当家にとって良きことが舞い込むかもしれぬ。儂はそれに賭けようと思う」

「分かりました。父上がそこまで、腹を括っておられるならば。では早速、使者を遣わすといたしましょう」

「うむ」

「どうかなさいましたか。近頃、あまり顔色が優れぬご様子ですが」

 氏康は近頃、頭痛に悩まされている。この時もしきりに額に手を当てていた。

「大事ない。三郎には儂から話しておく」

 こうして、両家の人質の交換が進められることになった。柿崎景家の子晴家が、小田原に向かい、北条三郎の越後への下向が正式に決まったのは、永禄十三年(一五七〇年)三月五日のことである。

 四月十一日、北条三郎は沼田城に入り、初めて輝虎との対面を果たした。道中は由良成繁や山吉豊守、北条高広らが警護し、三郎を丁重に出迎えている。

「三郎殿か。よう参った。儂が上杉輝虎じゃ」

「北条三郎でございます」

 顔を上げた三郎は中々の好男子である。鼻筋は通り、目は切れ長で色白である。

「知っておろう。そなたの父とはこれまで幾度となく、干戈を交えてきた因縁の仲じゃ。それが此度、故あって和議を結び、その証として、そなたが当家に遣わされてきた」

「十分に承知しております」

「そなたにとっては、さぞかし迷惑な話であったであろう。生まれ育ち、住み慣れた小田原を離れ、遠い雪国越後に参るとあっては、心細くもあろう。しかし、儂はそなたを質として扱うことはない。今日から我が子じゃ」

「山内殿が父上」

「そうじゃ。我が養子と成すことは、御父上との約定故に、心配は無用じゃ。その山内殿ではなく、今この時から父と呼ぶがよい。名も改めて貰う。上杉三郎景虎じゃ。景虎はかつての我が諱。不服はあるか」

「不服など、畏れ多いこと。まこと、光栄の極みに存じます」

「うむ、三郎は幾つになる」

「十七でございます」

「では、ここにいる喜平次顕景の一つ上になるな。喜平次も我が甥ながら、養子として迎えておる。儂は妻帯しておらぬが、これで二人の息子が出来たことになる。実に目出度い」

 輝虎の傍らには顕景が着座している。

「喜平次顕景でござる。宜しくお頼み申す」

「越後に帰ったら、すぐに祝言を挙げて貰う。相手は喜平次の妹であり、儂の姪じゃ。だから、一つ下でも喜平次が兄となる」

「こちらこそ、宜しくお願いいたす、兄上」

「儂にはもう男の兄弟はおらぬ。二人とも亡くなってしまった。そなた達には、血の繋がりがなくとも、仲良くして貰いたい。そして、行く行くは、儂をしっかりと支える武将になって欲しい。よいな」

「はい、承知仕りました。父上」

 如才のない奴だ。父や兄と言うことに何の恥じらいや躊躇ためらいもない。それが些か鼻につく。氏康の七男というから、きっと親兄弟の顔色を窺いながら、育ってきたに違いない。それはそれで、些か不憫ふびんでもあった。

朴訥ぼくとつな喜平次とは、あまりに対照的だ。義兄弟同士の仲に一抹の不安を覚え、それが気のせいであって欲しいと願う輝虎だった。


 四月、永禄から元亀へと改元が行われた。

 元亀元年(一五七〇年)五月、三郎の祝言を無事済ませた輝虎の下を、一人の使者が訪れていた。

 徳川三河守家康の重臣であり、後に徳川四天王の筆頭と称される酒井忠次である。

家康の輝虎に対する接触は二年前に遡る。同盟関係にあった武田信玄が、駿河国を手中に収めた次の狙いは、間違いなく遠江国であり三河国になる。

 信玄との同盟関係が、砂上の楼閣に過ぎないことを早くから認識し、危機感を募らせた家康が、同盟交渉の相手として選んだのが、信玄の宿敵である輝虎だった。

 当初、輝虎は家康との交誼を結ぶことに対して、極めて消極的だった。当時、今川氏真との同盟を頑なに守っていたからだ。

 しかし、前年五月に氏真が掛川城を家康に明け渡したことから、今川への義理立てが不要となった。それに加えて、越相同盟が結ばれたことで、関東の脅威が消え、輝虎の目が再び西に向かい始めている時期でもあった。

 西に向かうに当たっての邪魔者は、やはり武田信玄しかいない。ここに共通の敵を抱える家康との利害関係が一致し、両者の接近が急速に進んでいたのだ。

「酒井殿、よう参られた。上杉輝虎でござる。どうか面を上げられよ」

「お初に御意を得ます。徳川家臣、酒井忠次でござる」

 顔を上げた忠次の体に衝撃が走った。輝虎が纏う威厳や気迫、佇まいの全てが、忠次を圧倒してくる。こんな衝撃を覚えるのは初めての経験だ。織田信長が放つ威圧感とは全くの異質なものに、今にも呑み込まれそうな自分を、制御するのに精一杯だった。輝虎は自分よりも三歳年下のはずだ。負けてはならない。忠次は必死に耐えていた。

「どうかなされたか。顔色が優れぬようだが」

「いいえ、山内殿の貫禄に圧倒されてしまいました」

 忠次はつい本音を口走ってしまった。

「左様に硬くなられては、交渉に差し支えましょう。我が意向は全て、そこに控える直江大和守と河田豊前守に伝えております。あとは三人で仔細を詰めるのが宜しかろう」

 輝虎が去り、残された三人が同盟の骨子を詰めることになった。真っ先に口火を切ったのは、直江景綱だった。

「徳川殿がお望みの条件は何でござろうか」

「三河守の望みは唯一、武田信玄の脅威に晒されている今日、山内殿のお力添えを頂きたい、その一点につきます」

「されど、三河守殿と信玄は、未だに同盟関係にあると伺っております」

 河田長親らしい、歯に衣着せぬ物言いだ。

「畏れながら、武田信玄が信用出来ないのは、御当家が一番ご存知のはず。駿河国を手に入れた今となっては、むしろ同盟が足枷あしかせとなっているのは明らか。今は軍勢を率いて、伊豆を狙う構えのようですが、いつ遠江に転ずるか知れたものではありません。我が殿は、信玄との同盟を反故にするつもりです」

「つもりと言われても、何らそれを示すものがございません」

「山内殿がお望みとあれば、我が殿は起請文を差し出す、とまで申しております」

「いずれ、それは頂戴することになるかもしれませぬ」

 ここまで言うと、長親は景綱に目配せした。ここからの発言は、景綱に任せるという合図だ。

「御実城様は、徳川殿との同盟に当たって、二点の善処を望んでおられます」

「何なりとお伺いいたしましょう」

 忠次が一度唾を飲み込むのが分かった。

「御実城様は、徳川殿、そして徳川殿と固い絆で結ばれている織田殿の三者が協力し合い、信玄の包囲網を築きたいと考えておられます。織田殿とは以前、飛騨国内紛の折に、伴に江馬輝盛殿と三木良頼殿を支援した仲。とは言え、それ以降は、関係が途切れたまま、今日に至っております。此度は徳川殿に是非、織田殿との関係構築のために、仲介の労を取って頂きたいのです」

「そういうことであれば、我が殿は喜んで織田殿に進言なさると思います」

「しかし、織田殿は武田信玄との関係が悪くはない。むしろ、友好関係を築いているはずです。織田殿が信玄と絶縁しない限りは、この同盟は我らにとっては無意味なのです」

「しかし、我が殿から織田殿に対して、武田殿との縁切りを進言するなど、至難の業でございます。織田殿の叱責を受けるは必定にて、それがしとて、とても我が殿には言い出せません」

「果たしてそれは如何でしょう。織田殿自身、いつまでも信玄との良好な関係を続けられるなどと、思ってはいないのではありませんか」

「それはどういうことですか」

「そもそも徳川殿が、我が御実城様と同盟を結びたいとお思いになったのは、武田信玄の脅威ですよね」

「確かにそうですが」

「信玄が徳川殿の領内に攻め入った場合、遠江や三河で終わるとお考えでしょうか。欲深い信玄のことです。必ず更なる西を目指すはず」

「なるほど」

「織田殿にも事情や時期というものもござろう。当方としても、今すぐにと言うつもりは毛頭ござらぬ。ただ、今進んでいる武田との縁組を先延ばしにして、いずれは破談にすることをお約束頂ければ、我が御実城様はそれで良い、とのお考えです。この話を徳川殿から聞かされて、叱責するような織田殿であれば、そこまでの御方ということで、当方からこの話はなかったものとする他ございません。しかし、織田殿のことです。必ずや、我が御実城様のご真意を、理解頂けるものと存じますぞ」

 縁組とは、信長の嫡男である信忠と、信玄の娘である松姫との婚姻である。輝虎の狙いは、この縁組を破談に持ち込むことで、武田と織田の仲がこれ以上近づかぬよう、仕向けることだった。

「山内殿のご真意、しかと受け止めましてございます。我が殿より、あらためて、起請文をお届けすることになると存じます。ただ、少し時を頂くことになります。どうかご猶予くださいますよう、お願い申し上げる」

「当方は急ぎません。どうか、徳川殿に良しなに、と」

 その理由は言われなくとも、輝虎から聞かされている。織田信長が、近々裏切った北近江の浅井長政討伐の軍を発するので、家康もそれに従軍することになっているのだろう。酒井忠次も帰国次第、戦支度に追われるはずだった。

 世にいう姉川の合戦は、ひと月後のことである。浅井・朝倉連合軍を、織田・徳川の同盟軍が討ち破っていた。

 家康から輝虎に対して、同盟締結に当たっての起請文が差し出されたのは、元亀元年(一五七〇年)十月のことだった。

 同月、輝虎は上野国に出陣した。

 武田勢が信濃国・岩村田から碓氷峠を越えて、上野国に侵入し厩橋城まで攻め上る気配を見せたためである。輝虎越山を知った武田勢は、またもや逃げるようにして、上野国から退散している。今回も鼬ごっこで終わってしまった。

 その頃、小田原では輝虎が同盟の役割を、ようやく、ひとつ果たしたことで、安堵と苛立ちという、相反する思いが親子の間で交錯していた。

「山内殿が上野国の武田勢を追い払ったそうじゃ」

 そこには氏康・氏政の父子だけがいるだけだ。二人の話を聞いている者はおらず、率直な話が出来る。

「これまで再三にわたり、出陣の催促をして参ったのですから、当然のことではありませんか。父上のように手放しでは喜べません」

「そう申すものではない。山内殿とて、我らと同盟したとは言え、北には伊達と葦名、西には一向宗徒と手を結んだ椎名がいる。それらの黒幕は全て信玄じゃ。我らには分らぬ事情というものがあろう」

「そうだとしても、もう少し、我らに対して誠意ある動きをして貰わなければ困ります。折角、三郎まで養子に出して結んだ同盟の意味がございませぬ。こんなことであれば、武田信玄とりを戻した方が得策というものです」

「いつも言っておるではないか。お前は性急に物事を考えるきらいがある。主たるもの、もっと大局に立った物の見方が必要じゃ。今のままでは、それがいつか命取りにもなりかねぬぞ。信玄と再び手を結んでも、いずれまた裏切られるとは思わぬか。少なくとも、山内殿に限っては、むこうから裏切ることはない」

 言葉を荒げた氏康は立ち上がった。

「父上、どちらに」

「厠じゃ、すぐに戻る」

 氏康が出て、直ぐのことだった。襖が倒れたような大きな音がした。

『まさか』

慌てて氏政は、その音の方向に駆け寄った。

そのまさかだった。父が倒れている。声をかけたが応答がない。ただ事ではないことが今、目の前で起こっている。大声で側近を呼んだ。

「誰かある。いますぐ、薬師を呼べ。早く、今すぐじゃ」

 自分が慌て狼狽えているのはわかる。しかし、一人では何もすることが出来ない。倒れている父親を前に、どうすればよいか分からないのだ。

 やがて、氏康の体は異変を知った家臣らの手によって、静かに持ち上げられ、床へと運ばれた。薬師の見立てでは卒中とのことだった。

 氏康は生死の間を彷徨い続け、二週間、意識が戻ることはなかった。ようやく、長い昏睡状態から、目を開けた時に一命を取りとめたことだけはわかった。しかし、数日後、左半身が麻痺し全く動かないことも、知らされることになった。

 氏康の病は、やがて越後にも伝わることになった。三郎景虎に対しては、輝虎の口から報せることにした。

「三郎、御父上の病状が心配であろう。一時帰国を許す。見舞って参れ」

「いいえ結構です。越後の地に足を踏み入れたその時から、私の父は御実城様お一人と決めております。そのようなお気遣いは、無用に存じます」

「そのように意地を張らずともよい。その父である儂が言うのじゃ」

「これは意地ではございませぬ。これまでも、小田原の父とは疎遠でございました。物心がついてからというもの、言葉を交わしたのは、ほんの数える程度です。親子間の情愛を感じたことは、一度たりともございません。こうして、越後に参り、慈悲深い義父上様の下で暮らすようになり、また妻と夫婦となり、初めて安らぎを覚えた心地がしているのです」

「そう言ってくれるのは何より嬉しいが、これが今生の別れになるかもしれぬぞ」

「例え、実父が亡くなったとしても、葬儀に参列するつもりはございません。小田原に未練はないのです」

「そこまで言うのであれば無理にとは言わぬ。ただ遠慮だけはするな。気が変わったら、直ぐに言うのだぞ。但し、見舞いの文だけは今直ぐに認めるのだ。儂からも、書状に何か品を添えて見舞うとしよう」

「ありがとう存じます」

 輝虎は、三郎が氏康の子に生まれたばかりに、これまで誰にも言えない苦労があったことを、初めて知った気がした。

 元亀元年十二月、輝虎は法名の不識庵謙信と号することにした。

剃髪はあらためて高野山・無量光院の清胤を招き行うつもりだ。謙の一文字は、林泉寺七世の益翁宗謙から頂いたものだった。若い頃からの願望であった出家への第一歩を、四十一歳にして歩み始めたことなる。

 元亀二年(一五七一年)を迎えた。

 武田信玄は駿河侵攻を執拗に繰り返している。正月早々に、北条方の深沢城を陥落させていた。上野国では真田氏を使って謙信を牽制し続けている。越後勢が出ていくと、相変わらず軍を信濃に退却させるから、手の打ちようがなかった。

 しかし、それが北条氏政には、謙信の怠慢にしか映らない。氏康が病に伏し、氏政を諭す者がいない中で、氏政の心は謙信に対して、一層不信感を募らせるばかりとなっていた。

 謙信はそのような氏政の心の内が、読めるはずもない。前年末から受けていた神保長職からの要請を受けて、越中に出陣した。長職にとっては同族ながら、謙信への味方に異を唱えている、守山城主の神保氏張らが、反旗を翻しているので、伴に軍を率いて屈服させて欲しいというのだ。元亀二年三月のことである。

 長職の居城である日宮城までは、敵対関係にある椎名康胤領である越中東部を通過しなければならない。当然、一向宗徒との戦いは回避できなかった。

 謙信は越中や能登、加賀の平定に当たっては、一向宗との和睦が必要と考えている。

しかし、その前に障害となって立ちはだかるのが、やはり武田信玄だった。信玄の正室である三条の方は、一向宗総本山である石山本願寺・顕如の妻の姉である。つまり、信玄と顕如は義兄弟の関係だった。  

これまで、信玄はこの姻戚関係を巧みに利用し、謙信に一向宗徒の矛先を向けて来ている。謙信は常に、一向宗という刃を背後に抱えながら、外敵との戦いに挑んできた。

 一向宗徒は多くが、一般の民である。当時、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば極楽浄土に行ける、という分かり易い教えが広まったために、一向宗は文字の読み書きすら出来ない民の間に、爆発的に広まっていた。飢饉や領主からの搾取で、飢えや病に苦しむ民が、すがる思いで入信していったに違いない。  

 その一向宗徒が、戦の時以外は、他の民と区別がつくわけがない。攻めれば逃げ、退けば地から沸き出るようにまた現れるという、実に厄介な難敵だった。

 謙信が一向宗総本山・石山本願寺との和睦に、活路を見出そうとしたのには訳がある。前年七月に、信玄の正室である三条の方が亡くなったことだ。これで信玄と顕如の関係が薄まれば、一向宗との和睦にも道が開けるかもしれない。

 しかし、そこはさすがに抜け目のない信玄だった。以前にも増して、石山本願寺への寄進を行うことで、その信頼関係は当分揺らぎそうもなかった。

 謙信は今回の出陣でも、日宮城への行く手を阻む一向宗徒を蹴散らして進む他ない。敵の出城十余りを次々と陥落させて西進した。

 謙信が神通川を越えて、日宮城まで辿り着いたのは、三月十七日のことである。この日の朝から降り始めた春の長雨は、強さを増すばかりで、一向に止む気配がない。おまけに風も強く吹きつけてきた。

 謙信到着を心待ちにしていた神保長職は、雨の中、日宮城の城門外で出迎えた。

「かように風雨強い中、城主自ら城外までお出迎えとは痛み入る」

 謙信の馬の鼻面を撫でて、手綱を引いた長職に声をかけた。

「なんの、我が願いに応じて、出兵して下された山内殿のご足労に比べれば、実に容易きことです。湯屋を用意しておりますので、先ずは疲れたお身体を清め、お休みくだされ」

「それは有り難いが、先ずは軍議と参ろう。湯屋はその後に頂戴するとしたい」

「承知しました。それでは本丸にご案内いたします」

 謙信の軍勢六千の全てが、日宮城内に収容されたのは、半時後のことであった。謙信は軍議を始めるに当たり、日宮城の周囲を表す図面に目を落としている。長職の狙いは、守山城と湯山城の攻略にある。

軍議とは言え、味方の中で土地勘があるのは、謙信と河田長親の二人しかいない。長職を含んだ三人以外は、決定事項に従うだけだった。

 神保氏張が籠る守山城は、六渡寺川ろくどうじがわ向こうにそびえる、二上山頂に築かれた山城である。城までの山道は険しく、なかなかの要害だという。

 更に湯山城は守山城に次ぐ規模を誇り、能登国との国境に位置している。ここが敵対しているということは、能登攻めに向かううえでも支障を来すことから、絶対に落としておかなければならない。

「先ず、守山城を攻めて、その後に湯山城を攻めるという大方の予想を裏切り、先ず湯山城に向かうという戦法は取れないでしょうか」

 長職からの提案だった。

「しかし、それでは守山城の敵兵との挟撃に遭う恐れがあり、そのような奇策を採るのは難しいと思います」

 河田長親の物言いは遠慮がない。如何に年長の長職とは言え、軍議である以上は、謙信も許していた。軍議での決定事項が、何千人もの命を左右するから遠慮する必要はない、というのが謙信の考えだった。

「それならば、守山に牽制軍を割けばよいのでは」

 再び長職が反論した。神保軍は三千、攻め手は総勢九千である。

「守山城兵を牽制するには少なくとも四千は必要であろう。湯山城もなかなかの堅城と聞く。兵五千で落とすには時を要する。そうなれば、奇策の意味がなくなる。ここは定石通りに、先ずは全軍で守山城を速やかに叩く。その後、速やかに湯山に向かう。それしかあるまい」

 謙信の一声で決したと言ってよかった。謙信が下した断であれば、長職も黙って従う他ない。

「それにしても、よく降る雨だな」

 激しさを増す雨音に耳を傾けた謙信が呟いた。

 雨は翌日になっても、翌々日になっても止むことはなかった。日宮城と守山城の間を流れる六渡寺川の水嵩は増す一方で、決壊の怖れすら出てきているという。またもや、謙信の行く手を阻んだのは、自然の脅威だった。

 雨が止んだのは、それから二日後だった。水が引き渡河出来るのは、早くともこれから三日を要するらしい。また雨が降れば更に遅れる。

 焦れる謙信に、春日山から急報が入った。留守居役の直江景綱からの報せだ。武田勢が西上野に進出し、またもや厩橋を伺っているらしい。養子の顕景に、上田衆を率いて沼田に急行するよう伝えたが、これ以上、日宮城で無駄な時を過ごすわけにはいかなかった。

 謙信は神保長職に謝し、再攻を約したうえで陣払いを命じた。しかし、この年、長職の急逝によって、この約束は果たせずに終わってしまうことになる。


 春日山に帰城した謙信にもたらされた報せは、またもや、越後勢の越山を知った武田勢が、逃げるように退散したとのことだった。

 武田信玄の目は今、間違いなく南に向いている。武田方の真田を中心とする信濃衆には、みせかけの上野国侵入でよい、但し、決して戦ってはならぬ、と厳命しているに違いなかった。

 それでも謙信は、越後との国境防衛を強化すると共に、関東への速やかな出陣態勢が取れるよう、三国峠下の浅貝にひとつ城を築くよう、今や旧・上田長尾家筆頭家老である栗林政頼に命じた。これが寄居城である。 

 こうした中で進められたのが、徳川家康と織田信長との関係強化策であった。

 家康は昨年十月に起請文として謙信に差し出したことを忠実に実行している。未だ三河と遠江の一部しか領有していない家康にとっては、謙信との同盟が武田信玄に対抗する唯一の手段だった。織田信長はこの時期、表面上は信玄との友好関係を維持している。家康が信玄に対抗して、信長の支援を得るのは難しい時期でもあった。

 一番強かなのは信長である。いずれは敵となる信玄との対立を、極力先延ばしにしつつ、その宿敵である謙信とも、誼を通じておこうというのだ。

 元亀二年(一五七一年)十月、謙信は与板城から直江景綱を呼び寄せた。この時期に、徳川との同盟はともかく、織田信長との関係を今後どうするか相談するためだった。

「大和守、お主は織田信長をどう思っておる。正直に申してみよ」

 謙信は単刀直入に切り出した。

「御実城様がそういう問いかけをなさるということは、御嫌いなのですね」

「そうじゃ。儂は嫌いじゃ。しかし、好き嫌いで政事や外交が成り立つものではない」

「仰せの通りです。織田信長という御仁は、御実城様と似ているところと、まるで正反対のところの二つを、持ち合わせている方ではないでしょうか」

「正反対なのは分かる気がする。だから好かぬ。しかし、儂に似ているとは、意外なことを言う。どこが似ていると言うのか」

「四つございます。先ず、国を富ます術を知っておられます。第二に、思い切った戦をなさる。第三は国内一統に苦労された。最後は将軍家を大切にされる。ただ、最後の一つが真実か否かはいずれはっきりすると思いますが」

「なるほど。奴は儂と同じように港を押さえ、商いを盛んにしているようじゃ。堺まで手に入れたのは敵ながら天晴れと言うしかない。儂と同じように楽市もやっているそうではないか」

「よくご存じのようで」

「無論、幻の者からの報せじゃ。戦は桶狭間か。確かにあれはみごとと言うしかあるまい」

「はい、そして国内の一統にも長年費やしているのは、畏れながら御実城様と同じでございます」

「確かにそうじゃ。今振り返ると、互いが守護家の嫡流ではなかったことが大きいのだろう」

「はい、一方は一領主の嫡男、もう一方は守護代家の三男。国衆を従えるのは、決して容易な道ではございませんでした」

「儂の今日は、お主を筆頭とする皆のお陰じゃ」

「そのようにお褒めを頂戴するのは珍しいこと」

「戯れを申すな。いつも儂は心の中で感謝しておる」

「失礼を申し上げました。御実城様は信長の将軍家との関係を、どう感じておられますか」

「何とも言えぬ。義昭公を奉じて、上洛したまでは許せる。二条城の造営など、表面上は将軍家をお支えしているようにも見える」

「内実は少し違うとお考えですな」

「官位も要らぬ。管領職も断ったという。その代わりに堺の町を支配下に置いた。堺を押さえて、力を蓄えることを優先した。これが意味することは何かを考えてみた。奴はとんでもないことを思い描いているのかもしれぬ」

「それは何でしょうか、お聞かせください」

「信長は利用するだけ利用して、いずれ公方様を追放し、自分が取って代ろうとしているのかもしれぬ。悪知恵が働く奴だ。三好の二の轍を踏むことはあるまい」

「用済みとあれば、容赦なく切り捨てる、というのですな」

「信長はそういう奴じゃ」

「なるほど」

「義昭公は中々の策士だが、些か世情に疎く、それでいて、全てが思い通りにならないと気が済まぬ御方じゃ。それは、一条院覚慶と呼ばれていた頃の書状からも読み取れている。日の本に天下人は、一人しか成り立たぬ。自分が利用されていただけと分かれば、信長との蜜月の関係もいずれ破綻する。それは存外に早いのかもしれぬ」

「何故そう言えるのでございますか」

「義昭公は既に朝倉義景殿と、密かに内通しているそうだ。もともと義昭公は朝倉家に身を寄せていた。義景殿が重い腰を上げぬ故に、信長に鞍替えした経緯がある。その信長が思い通りにならないとなれば、かの御仁のこと。平気で古巣に頼るという寸法よ」

「しかし、その朝倉殿も浅井殿と共に信長と姉川で戦い、負けているではありませぬか。そして、信長は朝倉殿と手を組む比叡山をも、昨年容赦なく焼き討ちにしている。どうみても勝ち目がないように思えるのですが」

「そうとも限らぬ。武田信玄にも上洛を迫っているらしい。信玄とは犬猿の仲である儂には、さすがに来ておらぬが、小田原や安芸の毛利にもけしかけているらしい」

「信長包囲網ですか。そうなれば、信長の立場も危ういと言えますな」

「うむ」

「御実城様は如何なさるおつもりで」

「相談はそこじゃ。これから言うのは儂の考えじゃ。それをどう思うか、忌憚ない考えを聞かせて欲しい」

「承知仕りました」

「当分、儂は京の争いには、関わりを持つつもりはない。先ずは信玄の勢いを削ぎ、上野国と越中、能登の平定に力を傾ける。そのために徳川との同盟を維持し、織田とは当面友好を保つことに専念する。こう考えておるが如何じゃ」

「お見事なお考えと存じます。しかし、比叡山の焼き討ちまで平気に行う信長を許せるのですか」

「無論、断じて儂は許さぬ。僧兵だけであればまだしも、女子供を問わず数千という人を、撫で切りにしたというではないか。神をも怖れぬ所業とはまさにこのこと。かの昔、平相国清盛公が東大寺や興福寺を焼き討ちにして以来の暴挙じゃ」

「そこまでご存知でありながら、当分は受け入れるというのですね」

「そうじゃ。儂もいずれは信長と決裂する運命さだめであろう。その時は遠慮せぬ。その時まで儂は耐えてみせる。もし、儂が奴を倒せないとしても、神が絶対に許すはずがない。いずれ武田と共に天罰が下るであろう」

「であるならば、もう何も申し上げることはございませぬ。我ら家臣団は従うのみにございます」

「それを聞いて安心した。今、時代は大きく変わろうとしている。今日の敵は明日の友、またその逆も然り。儂が一歩誤れば、越後を危機に陥れることになる故に、こうして聴いて貰ったのじゃ」

「御実城様も手堅くなりましたな」

「これが年の功というものかな」

 二人は声を揃えて笑った。

「ごめん」

 一人の若者が書状を携えて入って来た。どうやら二人の笑い声から、差し挟んでも差し支えないと判断してのことだろう。

 厩橋城主・北条高広の嫡男、景広だった。既に二十四歳の立派な若武者として、謙信に近侍し続けている。

「やはりな」

 書状は北条高広からのものだった。謙信は読み終えると一言呟いていた。

「小田原の氏康殿が亡くなられた」

 景広は驚いていない。父からは別の書状が届いて何が起きたかを知っているのだろう。直ぐに立ち去ろうとする景広を、謙信はそのまま同席するよう勧めた。

 去る十月三日とのことだ。昨年倒れてから一年ほど床に伏したまま、帰らぬ人となっていた。享年五十七歳。

「そうですか」

「また分らなくなってきたぞ」

「関東の情勢ですね」

「うむ。後から分かったことだが、我らとの同盟は、氏康殿が氏政殿の反対を、半ば強引に押し切る形で締結したものらしい」

「そうなると、小田原の関係は、雲行きが怪しくなって参りますね」

「そうなのだ。氏康殿という重石がなくなった今、小田原は全て氏政殿の思惑通りに動く」

「我らとの手切れになるとお考えですね」

「氏政殿は当初から、あくまで信玄との同盟継続を望んでいたらしい。恐らく、今頃は早速、信玄の下に、密使が遣わされているに違いない」

「再び、関東も面倒なことになることを、今から想定しましょう。ただ人質は如何いたしましょうか」

「こちらが同盟を破棄するならともかく、小田原が一方的に破棄するのだ。晴家は何が何でも帰して貰う」

「三郎様は如何いたしますか」

「三郎は儂の子じゃ。養子縁組を済ませておる。姪の華姫との間にも、道満丸が生まれたばかりじゃ。しかし、この機会にもう一度本心を訊ねようと思う。帰れたければ帰ってもよい、と言わねばなるまい」

「御実城様も辛い思いをなさいます」

「これも定めじゃ、仕方あるまい」

 謙信は傍らに留めている北条景広に顔を向けた。

「弥五郎、今の話で分かったであろう。儂も近々行くことになろうが、一足先に厩橋城に行ってくれ。関東が再び動乱となれば、お主ら親子に活躍して貰わねばならぬ。分かるな」

「はい」

「あまり猶予はない。支度が出来次第発て」

「承知いたしました。ではこれにて」

 景広が下がる姿を目で追った景綱が、如何にも感慨深い様子で目を細めて呟いた。

「弥五郎殿も御実城様の薫陶を受けて、立派な武者に育ちましたなあ」

「大和守、お主は幾つになった」

「藪から棒に、如何なされましたか。六十三歳になりました」

「いや、氏康殿よりも六歳上になる、と思ったのだ。お主には、まだまだ長生きして、儂を支えて貰わねばならぬ。長生きするのだぞ」

「御実城様が信長を討ち破るまでは、生きていとうございますなあ」

 景綱はひとり相好を崩していた。

 景綱を本丸に残し、謙信は三の丸にいる三郎景虎の下に向かった。無論、父・氏康の死を報せるためである。

 生まれて間もない道満丸を囲み、夫婦仲睦まじく談笑している最中だったらしい。ただならぬ謙信の気配を察し、三郎は人払いを命じた。

「義父上、如何なさいましたか」

「小田原の御父上が見罷られた。去る三日のことだ」

「そうですか」

「つれない返事ではないか。悲しくはないのか」

「昨年、倒れたとお伺いした時から覚悟しておりましたので。それに以前申し上げた通り、親子の情愛には薄い育てられ方をしましたので、ご心配には及びませぬ」

「そうか。余計なことを口にさせてしまった、許せ」

「許すも許さぬも、元より義父上に謝って頂くことなど毛頭ございませぬ。どうかお気になさいませぬよう」

「分かった。では、ここからは義父として三郎に命ずる。一度小田原に帰り、葬儀に参列して参れ」

「いいえ、参りませぬ。越後に一歩足を踏み入れた時から、義父上の子として生きると決めました。小田原に何の未練もございませぬ」

「未練の有無を言っているのではない。儂が言っているのは、人としての道理の話じゃ。そなたが越後に残りたいと言ってくれるのは、正直嬉しい。しかし、実の父親の死に際して、葬儀に参列しないというのは罷りならぬ。参列したうえで戻ってくればよいではないか」

 謙信にそこまで言われては、三郎にこれ以上断る謂れはなかった。

「承知仕りました。義父上の命に従い、行って参ります」

「うむ、それから、もう一つ。これから言うことは、決して他言してはならぬ。華にも言ってはならぬことだ。良いな」

「はい」

「これは後から分かったことだが、お主の兄君・氏政殿は、最初から我ら越後との同盟に消極的であったらしい。それを亡き御父上が半ば強引に説き伏せて、進めたらしいのだ。その御父上が見罷られた。どういうことか分かるな」

「当家との同盟を破棄するということですか」

「恐らくそうなるだろう。兄君は同盟を破棄し、あらためて武田信玄との誼を結ぶに違いない」

「しかし、信玄は当家と敵対しているうえに、以前の同盟を勝手に破棄した不届き者ではありませぬか。兄は何故そのような奴と、再び同盟を目論んでいるのでしょうか」

「それは兄君しか分らぬこと故に、与り知らぬことじゃが、きっと儂との同盟よりも利が多いと考えているのであろう。ただ、儂は左様な些末さまつなことはどうでもよい。このままでは、お主は小田原と敵対関係になるということだ。そうなれば、当家から質として差し出した柿崎晴家は、帰して貰うことになろう。三郎も帰りたいのであれば、この機会に正直に申すがよい。必ず帰してやる。約束する」

「嫌でございます。男に二言はございませぬ。それがしは越後の武士として生きることを望んでおります。義父上の子として、また華の夫であり、道満丸の父として、これからも生きて参りたいのです。それに、武田信玄のような悪党とくみするような者を、兄とも思いませぬ」

「分かった。ならぱ、これからも、この儂の養子(こ)として、ここに留まれ」

「ありがとうございます」

 気がつくと、景虎の目には涙が溢れていた。

「三郎、武士もののふたる者、人前で簡単に涙を見せるものではない。しかし、正直儂も嬉しい。今日だけは許そう」

「義父上」

 それ以上は、下を向いたまま、言葉にならない三郎であった。

「よいか、それでも今のことは知らぬふりをして、小田原に行って参れ。あくまで、何事も知らぬ素振りで、兄君とも接して参るのだぞ」

「お任せください。それに兄は、それがしのことなど、気にも留めぬはずです。葬儀が終わり次第、直ちに引き返して参ります」

 こうして、三郎景虎は、実父である北条氏康の葬儀に参列した後、素知らぬふりをして越後に舞い戻ってきた。その後、三郎景虎が小田原の地を踏むことは、二度となかった。

 それから、二か月後、父の四十九日法要を済ませた北条氏政は、柿崎晴家の身柄とともに、越相同盟の破棄を一方的に通告してきた。

 ここで不思議なのは、氏政が謙信に対して一言も、三郎を返せとは、言っては来なかったことだった。十歳以上も離れた異母弟のことなど、鼻にもかけていなかった氏政の、冷徹な一面を表しているのかもしれない。

 一方、同時に氏政との甲相同盟を復活させた信玄は、躑躅ケ崎館の居室でひとり、美酒を傾け物思いに興じていた。

 これでまた、越後は小田原に任せておけばよい。まあ、氏政への手前、一度は形ばかり出陣しておくか。いよいよ、西に向けての進軍が叶う。徳川如きは蹴散らしてやればよい。あとは織田信長じゃが、浅井・朝倉と挟撃すれば、勝利は自ずと転んでくるであろう。それが来年か再来年、実に楽しみじゃ。

 すると突然、風もないのに灯りが消えた。

「誰かおるか、火を持って参れ」

 叫びながら立ち上がった。ふいに鳩尾辺りに激痛が走った。暫くすると何事もなかったかのように、その痛みは治まっていた。

「何か食い物にでもあたってしまったか」

 つい、独り言が出てしまった。

 元亀二年(一五七一年)が静かに暮れていった。


  *宿敵死す


 元亀三年(一五七二年)一月、謙信は利根川を挟み、北条氏政と武田信玄の連合軍と睨み合いを続けていた。

 前年に越山した謙信は一月三日、武田方の石倉城を陥落させている。石倉城は厩橋城の近くを流れる利根川の対岸に位置し、言わば目と鼻の先にある、以前から目障りな城だった。

 その謙信の動きに対抗しての氏政・信玄の揃い踏みである。ただ、両者共に本気で戦う気など毛頭ない。平場での戦にかけては、謙信に一日の長がある。下手をすれば大きな痛手を被ってしまう。特に信玄は、近々西上を目論んでいる。その一大作戦を前に、永禄四年の二の舞だけは、絶対に避けなければならなかった。

 むろん、謙信を牽制するという目的での出陣ではあったが、あらためて同盟を結んだ北条氏政への義理立てという、儀礼的な意味合いのほうが大きかった。

 一方の謙信も、今は関東よりも越中に目が向いている。椎名康胤や一向宗徒の動向に神経を尖らせており、一日も早く帰国したい、というのが本音だった。

 両陣営の思惑がそうである以上、対陣は長く続くことはなかった。二週間ほど続いた睨み合いだったが、その終わりは実に呆気ないものだった。

「御実城様、三つ鱗の旗が退いております」

 報せてきたのは北条景広である。景広には陣頭で常に、敵の動きを見張らせていた。

 謙信は敵の動きが見える、利根川の岸近くまでの道を急いだ。対岸に目をやると、確かに北条軍が南の方向に退却しているようだ。

「油断はするな。罠の可能性もある」

「ははっ」

 しかし、そんな謙信の心配も杞憂に終わってしまう。やがて、武田軍も後方から徐々に、北に向かって退却を始めた。

「追い討ちを仕掛けましょうか」

 気持ちが逸った栗林政頼が、思わず口にした言葉だった。政頼に対しては、寄居城を築城して以降、謙信の養子となった顕景を支え、上田衆の要として、沼田の松本景繁、厩橋の北条高広と連携して、上野国を防備するよう命じている。

「よせ。相手は武田信玄だ、それくらいは奴の想定の中に入っている」

「差し出がましいことを申しました」

「気にせずともよい。しかし、決して舐めてかかってはならぬ。これからも、上野国は、南と西からの脅威に晒されることになる。お主は上田衆の筆頭として、厩橋の丹後守と連絡を密に取り合い、この防衛線を死守してくれ。いずれは儂が決着をつける」

「ははっ」

 謙信は話が終わっても、遠ざかる孫子四如の旗を、見えなくなるまで目で追っている自分に気がついた。散々に苦しめられてきた憎き敵の馬印である。何故、自分がそこまで執拗に見続けていたのだろう。その理由が何なのかは分からない。謙信は振り返り告げた。

「我が軍も引き上げじゃ。越後に帰るぞ」


 越後に帰った輝虎は、早速、一時離反されてしまった佐竹義重と里見義弘との関係修復に着手した。一時は、武田信玄と近づいた両者であったが、信玄が氏政と手を結んだとあっては、再び謙信に近づかざるを得ない。交渉の難航も覚悟していた謙信の予想に反し、同盟の再締結は、すんなりと受け入れられた。結局は、元の鞘に収まっただけのことだった。

 ちょうどその頃、越中では魚津城代である河田長親の下に、新庄城代の鰺坂長実からの急使が到着していた。

 突如として、加賀の一向一揆勢が越中になだれ込んだかと思うと、越中の一向一揆勢と合流しているという。これに椎名康胤が松倉城から出陣して加わり、既に総勢二万五千という大軍に膨れ上がっているらしい。

 河田長親は、武田信玄の意向を受けた、本願寺顕如の差し金に違いないと直感した。しかも、これだけ大規模となれば、謙信を越中に釘づけにするつもりなのであろう。そうと分かっていても、ここは謙信の下知を仰ぐ必要がある。直ちに春日山に向けて使者を走らせた。

 謙信の意向を受けて駆けつけたのは、不動山城主の山本寺定長である。河田長親は定長の援軍と合わせて総勢四千で、急ぎ新庄城に向かった。

 新庄城に入った長親だったが、そこで鰺坂長実から耳を疑うような話を聞かされる。神保長職亡き後を継いだ神保覚広さとひろが、一向一揆の大軍に驚き、城の守備を放棄してしまったというのだ。今は能登国との国境である石動いするぎに退避しているらしい。

 大軍とは言え、敵は武器の扱いさえ慣れない民も大勢いるのだ。城に籠って戦えば、数か月は耐えられるはずだった。そもそも、鰺坂長実に対する援軍要請を行ったのは、どこの誰だったか。何とも情けない神保長職の後継者である。長親はただ呆れるしかなかった。

 しかし、事態は長親の想定よりも、遙かに逼迫したものだった。勢いづいた一揆勢は、そのまま東進し、遂には神通川を越えて、富山城をも占拠してしまっていた。

 富山城と新庄城の間は、僅か一里足らずしかない。いつ攻めて来られてもおかしくはなかった。一揆勢が二万五千に対し、味方は六千足らずである。今になって尚更、神保覚広の逃亡が悔やまれたが、どうにもならない。

 神通川渡し場での敗戦の報せが、謙信の下にもたらされたのは、元亀三年(一五七二年)六月十八日のことだった。

 新庄城を出て、逆落としが仕掛け易い、五福山城に拠ったところまでは思惑通りだったのだろう。味方が六千弱に対して、敵は寄せ集めとは言え、二万五千の大軍である。蹴散らすには逆落としは有効な戦術と言えた。

 異変が起きたのは、逆落としで敵が逃げ惑い、神通川まで差し掛かった時だという。突然、三百丁近い火縄銃隊が現れたかと思いきや、一斉砲火を浴びせられたというのだ。加えて、一揆勢に紛れて埋伏していた椎名康胤の軍勢が、横合いから攻め寄せてきたから堪らない。あとは、犠牲を最小限に止めるよう、散り散りとなって新庄城に逃げ帰ったのだという。それが六月十五日、三日前の出来事だった。

 長親には、ただの寄せ集めの軍と高をくくり、どこかに驕りと油断があったのかもしれない。それにしても、一揆の中に椎名康胤ではない、一揆勢の中に別の指揮官がいるはずだった。それを幻次に調べるよう指示したばかりだ。

 直ちに直江景綱に命じて、後詰めの軍を派遣したが、今、謙信は動けない。

 一月に奪い取ったばかりの、上野国・石倉城に、北条勢が押し寄せているというのだ。もし、石倉城が奪われてしまえば、最も近い場所に位置する厩橋城に再び危険が及んでしまう。

 養子の顕景と栗林政頼に命じて、北条高広・景広親子を救援するよう命じているが、その結果如何によっては、関東遠征を優先せざるを得ない状況だった。

 やがて、幻次からの報せで、一向一揆の指揮官は杉浦玄任という名の者であることが判明した。本願寺の坊官でありながら、壱岐守の官位まで賜っている者らしい。本願寺の銃隊を相当数引き連れて、参陣しているのは明らかだった。

 それでも、八月に入ると、謙信にとっての吉報が二つ、ほぼ同時に舞い込んできた。

 一つ目は、上野国の石倉城が死守出来たことだ。北条勢は顕景ら上田勢の援軍に驚き、早々に退散したらしい。

 もう一つは、河田長親が一揆勢の夜襲を撃退したことだ。城外に陣を敷いた山浦国清勢を襲った一揆勢を、河田長親が散々に打ち負かしていた。

 山浦国清は、信濃国・葛尾城主であった村上義清の嫡男である。今は山浦の姓を名乗り、父と共に謙信に仕えている。

 国清は直江景綱の後詰から、援軍として一軍を率いて参陣し、前線に出張っていた。河田長親とは歳も近く、普段から昵懇の仲である。

 前日の夕刻から一揆勢の一部に、不穏な動きを感じ取った長親が、夜襲を予想し国清と示し合わせていたのだ。国清の陣営が油断していると見せかければ、一揆勢は必ずそこを突いてくるはずだ。その予想は的中した。あとは一揆勢を引きつけるだけ引きつけて、叩くだけだった。

 挙げた首級は七百余と決して多くはない。それでも一敗地に塗れた上杉勢が、勢いを盛り返すには十分な働きだった。

 この機を逃す手はない。謙信は直ちに動いた。一万の軍勢を率いて春日山城を発った。元亀三年(一五七二年)八月六日のことである。

 途中、後詰めとして魚津城に構えていた直江景綱軍も合流した。追っかけ、上野国に向かった顕景ら上田勢にも参陣するよう命じており、やがて着陣するはずだ。更に飛騨国の江馬輝盛にも援軍を頼んでいる。総勢二万四千の大軍で一揆勢を迎え撃つことになるはずだった。

 頭数のうえでも、これで一揆勢とほぼ互角となる。謙信はこの機会に、一向一揆勢を徹底的に叩き潰すつもりだった。

 これに驚いたのは、一揆勢の首領である杉浦玄任である。急ぎ、一揆の本営とも言える金沢御坊に援軍を要請するが、色よい返事が届くことはなかった。その頃、金沢御坊からは越前や近江にも援軍を出しており、これ以上の国外への軍勢派遣は困難な懐事情があった。

 謙信は総攻撃を前にして軍議を開いた。

 直江景綱を筆頭に、長尾顕景、栗林政頼、河田長親、鰺坂長実、山本寺定長、吉江忠景、山浦国清、長尾景直ら錚々たる家臣団が顔を揃えている。

「よいか、儂はこの戦で一向宗徒勢を徹底的に叩き潰す。今までは、相手が民であることで、多少なりとも手加減していたことは、皆が気づいていよう。しかし、此度は違う。敵には本願寺から引き連れてきた銃隊もいる。椎名康胤もいる。何よりも六月の戦では、その一揆勢によって我が軍の兵が、容赦なく討たれてしまった。もう遠慮はしない。皆もそのつもりで戦ってくれ」

「おう」

 全員の声が陣中に響きわたった。

「豊前守、この戦に当たって、皆の参考になること全てを、いま皆に話して欲しい」

 これまでの一揆勢との戦いの経緯を、一番知る河田長親の口から、直接話をさせることが、何よりも重要で分かり易いとの判断である。

「宗徒の武器が鍬や鎌であったのは、ひと昔前のことです。特に越中加賀の宗徒には、手厚く武器が配られております。戦死した兵から奪い取った刀や槍ばかりではありません。恐らく金沢御坊から支給されていると思われます。そして宗徒の中には、手練れの弓手もおり、決して侮ってはなりません。一番気をつけなければならないのが、石山本願寺から率いてきた銃隊です」

「敵の火縄銃は何丁ほどか」

 直江景綱が問う。

「その数、およそ三百」

 皆が顔を見合わせる。

「我が軍の数と同数じゃ。豊前守、続けよ」

 謙信が更なる説明を求めた。

「一揆勢の中に紛れて椎名康胤殿の家来が潜んでおり、その者たちが五十人から百人単位の宗徒をまとめて、指令を下しているようです。その動きも調練を積み重ねていると思われ、特に攻めの態勢にある時は、我らと遜色がありません」

「お伺いして宜しいでしょうか」

 その声の主は喜平次顕景だった。喜平次も早や十八歳である。幾つかの戦場を渡り歩いてきており、多少は経験を積んだ自信が顔に表れていた。

「一向宗は念仏を唱えれば、現世で悪行を積んでいても、極楽浄土に行けるという教えと言います。ならば、念仏を唱えながら、怖いもの知らずに、向かってくる相手とどう戦えばよいのか。未だその験がないそれがしには、とんと計りかねております」

 ある意味、実に的を射た話だった。喜平次の声は、一兵士の代弁でもあった。誰もが一向一揆勢と戦う上で、最初に乗り越えなければならない障害でもある。

「恐らく、それは人それぞれと思われます」

 長親は喜平次に向かって、まるで弟に話かけるように優しく続けた。

「あくまでそれがしの考え方に過ぎません。戦う前に、相手が民だという思いを捨てました。我らの命も民の命も、それぞれひとつしかありません。命の重さに差はないのです。我らにも民にも親や子、そして兄弟姉妹もいるでしょう。同じなのです。しかし、我らに向かってくるのは民ではなく、我らの命を奪おうと迫る敵です。敵であれば老若は関係ありません。倒すしかないのです。そう思って戦い続けています。この戦は、御実城様が一日一刻も早く、このような不幸な戦いを、世の中から消し去るための、言わば義戦なのです。如何でしょうか、喜平次様」

 喜平次にとっては、目からうろこが取れる思いの話だった。これだけ明確に自らの考えを、堂々と披露出来る人に会うのは、謙信以外初めてである。ある種の感動すら覚えていた。謙信が一目置いている理由も、分かる気がした。自分にもそのような家来が出来るのだろうか。与六、その名が脳裏を掠めたが、直ぐ現実に戻っていた。

「豊前守殿のお考えに感銘を受けました。まさに溜飲が下がる思いでございます」

 その言葉に嘘はなかった。その様子を目にした謙信は、一言だけ声をかけた。

「喜平次、豊前守には今後も教わるがよい。必ずそなたの力となってくれよう」

「ありがとうございます」

「他に何か豊前守に聞いておきたいことはないか」

 謙信の問いかけに応じて、声を上げたのは栗林政頼である。

「今までの話をまとめると、一向宗徒勢には弱点が見当たりませぬ。何か突破口となる足掛かりのようなものはないのでしょうか」

「それは引き際のもろさにあると思います」

 長親がこれから説明しよう、と思っていたことでもあった。

「我らが負け戦の時は、最初から仕組まれた退きだったので、敵に乱れはありませんでした。しかし、山浦殿と共に夜襲の敵を追い払った時には、一旦劣勢に回った場合の脆さを、肌で感じました。いくら極楽浄土に行けると思っていても、元々は一般の民です。やはり死の恐怖には抗えないのだと思います」

「なるほど、ならば敵を如何に掻き乱すかが、勝負の決め手というわけですな」

「仰せの通りです」

「他はないか」

 謙信が全員を見回す。全員がもう充分といった表情だ。

「ここに秘密兵器がある」

 謙信が取り出したのは、後に車笠と呼ばれる変わり兜だった。兜の頂上は丸く仕上がり、裾に向かって朝顔状に開いた黒漆塗の鉄製である。

「これを被り、敵の銃隊に当たって貰う」

 謙信は五百個を準備していた。

「妙な形の兜ですが、何か仕掛けでもあるのでしょうか」

 思わず声を上げたのは、山本寺定長だ。謙信は自ら被って仕掛けをみせた。

「兜の表面に鉄炮玉が当たっても、このように兜が回転することで、玉の衝撃を吸収できる仕組みとなっている」

「おおっ」

 皆から感嘆の声が漏れた。

「むろん、これは頭だけを庇うもので、体は今までと同じ銅丸だ。しかし、これで相当銃隊に向かう恐怖は薄れる」

「画期的な兜です。どなたが考え出したものやら」

 鰺坂長実が問うた。

「儂が考えて、急ぎ作らせたものじゃ。これからの戦は益々、銃が活躍することになる。未だ命中の精度は低いが、それもやがては解消されよう。そうなれば、今まで以上の脅威となる」

 謙信は決して口にはしないが、いずれ敵対する織田信長が念頭にある。かつて自分の目でみた堺の街が信長の支配下にある以上、早晩、火縄銃の改良に着手するのは明らかだった。

 この兜が役立つかどうかを試すには、ちょうど良い機会と捉えた謙信だった。

「御実城様は、いつも我らの遥かに先のことを考えておられる」

 三十年近く傍に仕える吉江忠景の誇張なき呟きだった。

 元亀三年九月二十日、決戦の日が来た。

 早朝、放っていた斥候からの報せが入った。敵の大軍が一斉に動き出したらしい。 

 陣構えは魚鱗である。昨日の軍議で決めている。各隊が敵の動きに応じて駆け回ることになっている。敵の銃隊には、こちらも銃隊で応じる。銃隊の全員に車笠の着用を命じた。これから始まる本格的な銃撃戦を前に、皆の表情は一様に引き締まって見える。

 全軍で進軍を開始した。このまま行けば、激突は尻垂坂と呼ばれる辺りになる。

 敵の先鋒を視界が捉えた。南無阿弥陀仏の念仏の声が徐々に大きくなってきた。先頭の兵を見て驚いた。年寄りや怪我を負って、ろくに戦えない者が、陣頭に立って向かってくる。これでは捨て駒同然ではないか。謙信は無性に腹が立っていた。人の命を何だと思っているのか。親鸞聖人の教えは決してこのようなものではない。これはむしろ御仏の教えから最も遠い所業であり、彼らは死に兵として利用されているに過ぎない。

 咄嗟の判断だった。弓隊を下げさせた。騎馬隊に正面を避け、両脇に回り側面攻撃への切り替えを伝えた。騎馬隊が突き切り、それを二度繰り返すと敵が乱れ始めた。 

 そこに長槍隊を投入した。敵の総崩れは目前とみられたその時、敵陣からの一斉射撃の音が辺り一面にこだました。敵味方を問わない無差別攻撃だ。数十人が倒れている。

「あそこだ、あそこに近づいて狙い打て」

 銃隊を率いた吉江忠景が速やかに駆けていく。次の玉薬をこめて発射するまでには時を要する。その間隙を突いて移動し、敵の二発目の発砲と同時に、味方の銃口から火が吹くはずだ。

 その作戦は見事に当たった。敵の発砲音とほぼ同時に、構えていた味方の銃隊が、敵の銃隊めがけて狙い撃ちした。数十人は撃ち倒したはずだ。倒れた人数よりも、敵の銃隊に与える衝撃の効果が大きかった。予想もしない反撃を食らい、銃を捨てて逃げ出す者までいる。

 この機を逃す手はない。謙信は「懸かり乱れ龍」の旗を押し出した。総攻撃の合図である。もう戦にはならなかった。敵は算を乱して逃げ惑うばかりである。それでも今回は心を鬼にして、追い討ちを掛けさせた。南には飛騨の江馬輝盛が陣取っており、もし伏兵がいたら、そこにめがけて襲い掛かる手筈となっている。容赦ない攻撃を続けた。富山城に逃げ込む者と神通寺川を渡河した者以外は、討ち果たしたか捕獲したかの、どちらかである。こうして、尻垂坂の戦いと言われる一向宗徒との全面戦争は、謙信側の大勝利で終わった。

 しかし、未だに富山城には、開城に応じない一揆の残党が立て籠もったままである。松倉城主の椎名康胤も、日宮城に逃げ帰っており、投降する気配がないままだった。

 元亀三年九月二十三日、謙信は神通川を越えて、椎名方の出城である滝山城を陥落させ、破却した。これによって日宮城に拠る椎名康胤は、東進への足掛かりを失う、つまり松倉城への帰還が閉ざされることになった。

 

 その頃、甲斐国では遂に武田信玄が西に向けて進軍を開始していた。総勢三万の大軍である。謙信を越中に釘付けとすることに成功した信玄にとって、北条との和議が成った今、背後を突かれる心配が無くなっている。将軍・足利義昭の要請に応じて、遂に信玄が動き出したのだ。あとは徳川家康と織田信長を破り、京への道をひたすら進むだけだった。

 この時期、織田信長は、姉川で破ったとは言え、浅井朝倉連合軍と石山本願寺の強力な抵抗に遭い、手を焼いている状態だった。これにいよいよ武田信玄が加わったのだ。信長は北と南から挟撃の危機に晒されていた。

 元亀三年(一五七二年)十二月十九日、信玄は遠江国・二股城を陥落させる。二股城は、遠江国において浜松城に次ぐ徳川家康の重要拠点であったが、城方が水の手を切られては対抗のしようもなかった。次いで十二月二十二日、信玄は家康の拠る浜松城の北方、三方ヶ原台地で、信長の援軍三千を加えた徳川家康軍一万五千を、完膚なきまで打ちのめしていた。

武田信玄が公然と加わった、いわゆる織田信長包囲網によって、いよいよ信長は窮地に陥ることになる。

しかし、その後、一挙に三河に攻め込むと思われた武田軍は、遠江国に留まったまま、一向に動く気配を見せなかった。年を越しても、何故か武田軍は遠江国に居座ったままである。

この原因は、信玄を襲っていた不治の病にあった。胃癌である。

 甲斐国を出陣する時も既にやせ細り、かつての威厳ある風貌とは、かけ離れたものになっていた。ただ、眼光だけは以前よりも増して鋭く、西上への執念だけが、信玄を突き動かしているように見えた。

 どこまで自分の命が持つのか、信玄自身でも分からない。

 見慣れた甲斐の風景もこれで見納めかと、内心は悲壮な覚悟での西上作戦だった。

 信玄の急激な病変は、三方ヶ原の合戦直後に起こった。織田・徳川の名だたる将を含め、二千の首級を挙げて、皆が大勝利の余韻に浸る中で、大量に吐血したのだ。

その 信玄の異変を目の当たりにした将兵に、与えた衝撃と動揺の大きさは計り知れないものがある。それまで信玄の病の篤さを知るのは、継嗣である四郎勝頼とごく一部の重臣のみだった。

 結局、静養によって、多少体調が回復した信玄が、三河に向けて進軍を再開したのは、翌年の元亀四年(一五七三年)一月も下旬になっていた。

 二月十日、信玄は三河国東部の重要拠点である野田城を攻囲し、これを陥落に追い込んだ。しかし、ここで二度目の吐血が起きてしまった。血の量も前回の倍以上である。顔面は蒼白し、生気すら感じられない程の病状だった。信玄の一時療養先として、すでに調略済の長篠城が、急きょ宛がわれた。

 その晩、密かに集まったのは、継嗣である武田勝頼と三人の重臣である。内藤修理亮昌秀、山県源四郎昌景と馬場美濃守信春だった。

 奇しくもこの三人は、後の長篠の戦いと呼ばれる設楽原に於いて、勝頼を庇い落命する者たちなのだが、無論この時は、そのような未来が待ち構えていることなど、知る由もない。

 先ず口を開いたのは、継嗣の勝頼だった。

「皆に集まって貰ったのは他でもない。我らはこれからどうすべきかを決めるためじゃ」  

「先ほど御館様は何と」

 内藤昌秀が勝頼に問うた。

 つい先ほどまで、勝頼だけが信玄の病床に付き添っていた。微かではあるが意識があったという。今は眠りに就いているらしい。

「とにかく西に進め、との一点張りじゃ。先ほどまで、まるで譫言のように、そればかり繰り返しておった」

「無理もござらぬ。御館様にとっては、長年の大望でしたから。これからと言う時に、さぞかし無念でござろう」                                    

 山県昌景が腕組みしながら、しみじみと呟いた。                     「我らに残された道は二つ。ひとつは父の意思に従い、西上を続け織田信長と戦う。もうひとつは父の意思に従い、西上を続け織田信長と戦う。もうひとつは甲斐に帰る。このどちらかじゃ」

「四郎様は如何お考えでしょうか」

 そう発したのは馬場信春だった。信玄に万が一のことがあれば、この勝頼が武田家第二十代当主となる。当然の問いと言えた。

「儂の考えは父のご意向に従い、西上を続け信長に決戦を挑みたい」

「しかし、御館様ご不在で、どうやって戦うのですか」

 内藤昌秀が詰め寄る。

「父の代わりは影武者をたてればよい。陣頭指揮は傍に仕えて儂が取る」

「しかし、御館様の病状が、いつ急変するか分からない状況で、それは危険過ぎますぞ。途中でもしものことがあった場合、四郎様は何となさるおつもりか」

 思わず山県昌景が声を荒げた。

「まあ、左様に興奮しても始まりませぬ。四郎様のお気持ちも、我らには痛いほど分かっているつもりです。御館様の血を引いて、四郎様の戦上手は我らが十分に知っておりますし」

 話を穏便に進めようと割って入ったのは、馬場信春である。間もなく還暦を迎える老将らしい巧みな話術だ。事実、勝頼は関東での戦場で幾度も目覚ましい活躍を示していた。先だっての二股城攻略も、勝頼の策が功を奏している。

 信春は更に続けた。                               「では、こうしては如何か。先ずは御館様の回復が一番。それを待って、再度西上を敢行する。しかし、もしも病が篤く、回復が難しいと薬師が判断した場合は、残念ではあるが甲斐に戻り再起を期する」

「我らが取るべき途は、それしかござらぬ。如何でござろうか。四郎様」

 内藤昌秀は勝頼に決断を求めた。

「皆がそう言うのであれば従おう。しかし、甲斐に引き返す途中で、父が気づいたら何と言い訳するつもりじゃ」

「そこは我ら老臣にお任せくだされ。如何様にもお話いたしましょう。四郎様はその場に居てくださるだけで結構ですので」

 山県昌景のこの一言で、武田軍の今後は決まった。あとは信玄の病状次第だった。

 しかし、信玄の病状が、回復することはなかった。むしろ悪化の一途を辿るだけであった。

 日に日に、眠っているというより、意識が混濁している時の方が多くなっていった。従軍している薬師も、あとは時間の問題だと告げている。奇跡を信じて最後まで諦めなかった勝頼も、遂に折れる他なかった。

 元亀四年四月、勝頼は全軍に陣払いを命じた。


 謙信は、元亀四年を越中・新庄城で迎えていた。

一揆勢が籠る富山城を攻囲して三ケ月を前に、ようやく一揆勢が投降してきた。城内に蓄えた兵糧は既に底をつき、観念せざるを得なかったようだ。

 謙信は一揆の解体と帰農を条件に助命した。

 富山城を接収後、謙信は直ちにその周囲に五カ所の砦を築き、神通川以東の支配を固めている。

 富山城の一揆勢が降伏し孤立した以上は、さすがの椎名康胤も、完敗を認めざるを得ない。謙信はその降伏を許したが、康胤に対する態度は厳しいものだった。

「右衛門大夫殿(康胤)、儂は皆の嘆願に免じて貴殿を助命するが、帰参を許すつもりは毛頭ない」

「えっ」

 敗軍の将に対して、丁重に扱うのは武士としての礼儀と心得ている謙信は、投降してきた康胤に、縄を打つこともなく、床几を腰掛けることを許している。康胤はこの謙信の対応から、いずこかの城の一つか二つ位は任せて貰えると高を括っていた。しかし、返って来たのがこの言葉だったから、康胤が驚くのも無理はなかった。

「右衛門大夫殿は、儂を裏切り信玄と手を結んだ。先ず何故なのかを伺いたい」

「山内殿は、長年の仇敵であるはずの神保殿と、手を結んだではありませんか。また、戦にも負けたその相手に、旧領の二郡をそのままお与えになった。公平な沙汰とは思えませんでした」

「儂がどういう沙汰をしようとも、右衛門大夫殿に言われる筋合いではござらぬ。そもそも、あの折、ご自身が戦に負けたが故に、我が軍が貴殿をお助けした次第。今だから言うのだが、貴殿が裏切らなければ、椎名・神保両家が力を合わせて、この越中国を統治するようお任せするつもりであった。それが多大な犠牲を払って、今日まで歳月を要してしまった。如何に浅はかな判断であったのか、しかと猛省なさるがよい」                             

 こうまで言われては、康胤が返す言葉は見当たらない。

 その康胤に対して、追い打ちを掛けるように、謙信は更に続けた。

「しかも、本来、戦場に出してはならない、傷ついた一向宗徒を、捨て駒のように先頭に立たせ、いたずらに死傷者を増やしてしまった。本来は、すぐさま郷に帰すべき者たちであろう。それを極楽浄土に行けると唆すなど言語道断。貴殿は武士としての、いや人間としての尊厳を傷つけた行いに手を染めてしまった。これは必ずしも貴殿に限ったことではないが、如何なる理由であれ、民を人の盾にするなど、武士として、絶対にあるまじき行為。儂は左様な者を決して許すことが出来ぬ」

 これが謙信の偽らざる本音だった。

 元々は康胤と同様に、このような愚かな施政者がいたから、民が御仏のご加護を信じて、鍬や鎌を武器にして、戦場を目指してしまったのだ。

 椎名康胤は、俯いたまま謙信の顔を見ることすら憚られた。

「そのような貴殿に、城を任せることなど出来るはずもなかろう。儂から言うことはもう何もない。二度と会うこともない。何処なりとも、早々に立ち去るが宜しい」

 そう言うや、謙信は立ち上がり外に出ていった。陣幕の中には暫くの間、呆然とひとり立ちすくむ椎名康胤の姿があった。

 その後の椎名康胤の行方を知る者は、誰一人としていない。歴史の表舞台から、完全にその名は完全に消え去っている。


 謙信は、尚も越中に留まっていた。今後、神通川から東側で一向一揆が起こらないよう、支配を確固たるものにする必要からだ。その中心拠点は魚津城と定めて、城の防備強化と拡張の普請に着手した。魚津城代には引き続き河田長親を置き、越中の統治を任せることになった。

 各地には、山本寺定長や柿崎景家、斎藤朝信ら重臣の軍勢を配備し、態勢が整ったことを見届けたうえで、ようやく帰国の途に就いた。

 春日山城に帰城したのは実に九ケ月ぶりとなる、元亀四年四月二十一日のことだった。

 幻の者一党の頭である幻次が、謙信の下を訪ねてきたのは、それから間もなくのことである。

 最近は仕草や動作、佇まいなどが、死んだ幻蔵と生き写しになってきている。

 謙信は突然の話に、自身の耳を疑った。俄かには信じられず、思わず訊き返していた。

「いま、何と言った」

「武田信玄が亡くなりました」

「それはまことか」

「信濃にいる我が手の者からの急報につき、間違いございませぬ」

「死因は何じゃ。まさか戦死ではあるまい。病か」

「おそらくは」

 前年末に三方ヶ原で徳川家康を破っていたことは耳にしていた。今年に入ってからも、更に三河国の野田城を攻略した報せも受けていた。

 しかし、信玄にしては、確かに動きが遅いのも事実だ。

 謙信が知る信玄ならば、更に西上し、今頃は尾張か美濃のどこかで、織田信長と一戦交えていていたとしてもおかしくない時期だ。

 死んだのが真実だとすると、本人は病と知っていながら、西を目指して軍を動かしたのか。

「他に掴んだことは何かないか」

「死んだのは、去る四月十二日。場所は信濃国駒場とのことです」                                                  

「駒場か」

 それならば辻褄が合う。

 信玄の死は疑いようのない事実だ。

 もう時間の問題と、死期を悟った家来衆が、三河国から信濃国を通り、甲斐国に戻ろうとした途中で見罷ったのに違いない。

「わかった、更に詳しいことが分かり次第、報せてくれ」

「ははっ」

 幻次が去った後、ひとり考えた。

 神余親綱からは先月、将軍義昭公が信長との断交を通知し、数千の兵と共に二条御所に立て籠っているという報せを受けている。これは明らかに、信玄の西上を念頭に置いた動きとみて、間違いなかった。

 しかし、信玄亡き今となっては、性急な結果を求めるがあまりの、勇み足としか言えない。義昭様の悪い癖が出てしまった格好だ。信長の性分から察するに、命までは取らぬとしても、決して許すことはあるまい。信玄が亡き今となっては、近江の浅井、越前の朝倉の命運が尽きたのも同然だ。信長の一人勝ちか。いや待て。石山本願寺が黙ってはいまい。安芸には毛利がいる。そう簡単には行かぬ。そして、越後にはこの儂がいるではないか。人となりはともかく、将軍である以上は義昭公をいずれは、お助けせねばなるまい。

 武田は跡を継ぐ勝頼次第か。これまでのように、儂に対して汚い手口を使い、脅かすことは出来まい。

 あと残るは小田原の氏政だ。奴にとっても信玄の死は大きな痛手となろう。

 小田原との決着をつけるためにも、先ずは越中と能登の平定を急がねばならない。

 信玄の死亡によって、時流は一層目まぐるしく動くことは必定。ただ、それに惑わされることなく、我が道を突き進むのみじゃ。

 謙信は決意を新たにしていた。

 やがて、信玄の死は各方面から、謙信の下にもたらされた。

 河田長親や京の神余親綱、そして織田信長からである。幻次からは、更に興味深い話がもたらされていた。

 信玄は自らの死を三年秘匿するよう、そしてその間は、内に力を蓄えるよう、継嗣の勝頼に遺言として残したらしい。死を三年秘するどころか忽ちのうちに広まったが、これで勝頼は当分の間、領国内を固めることに専念するのか、それとも無傷のままの戦力を誇示し、あらためて西上を模索するのか、注視する必要はある。

 そして、この儂と和睦せよ、とも言い遺したという。それが真実であれば、なんと死ぬまでご都合主義の恥知らずなことか。

 家来の山県昌景には、譫言のように、「明日は近江・瀬田唐橋に武田の旗に立てよ」と言ったらしい。自分は甲斐への帰国の途中を、西上していると思い違いをしていたのだろうか。そうであれば、なんと哀れな最期であったのであろう。

 信玄の死を通して、謙信は自らの生きざまを考えていた。

 自分にもいつ死が訪れるか分らない。その時に後悔が残るような生き方だけはしたくない。そのためには、自らの正義を貫いて生き抜くことだ。

 少なくとも、遺された者たちに、嘲笑されるような生き方、死に方だけはしない、と心に誓っていた。

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