十一

 拳ほどの大きさの小麦パン。少しかためでパサつきはあるが、噛めば噛む程甘さを感じられる庶民にとっては定番のパンだ。

 そのパンを一袋持って沙織は会計へと持っていく。安価でアレンジを加えやすいこのパンは沙織にとってもお気に入りのもの。数日おきに沙織はこのパンを求めて通っていた。

 そのせいか、すっかり顔を覚えられてしまったようで、店主が満面の笑みで沙織を待っていた。


「はい、これおつりといつものパンね。それと、こっちは試作品のパン」

「え……いいんですか?」

「ええ。でも、他の人には内緒よ? それと、次きたときにでもアドバイスをもらえると助かるんだけど……」

「あ、それなら次くる時までに紙に書いて持ってきます」

「助かるわ!」


 満足いく答えだったのだろう。店主が目を輝かせて前のめりになっている。

 沙織は愛想笑いを浮かべながら、そそくさともらったパンとおつりを鞄の中に入れ、店を出た。ゆっくりしていると店主に捕まって帰る時間が遅れてしまうからだ。実際、前回はそれでレンに心配をかけてしまった。


 以前、沙織はこのパン屋の店主に話しかけられ、つい世間話の延長のつもりで日本の知識を披露してしまった。沙織にとっては当たり前の知識でも、この世界では画期的なアイデアだったらしく……それ以降沙織がくるタイミングを見計らっているかのように店主が顔を出すようになった。

 沙織が知識を提供することによって美味しいパンが増えることは沙織にとっても喜ばしいことだ。けれど、毎回長時間拘束されるのは困る。


 そもそも本来、沙織は外出を避ける立場だ。騎士達の見回りがある商店街なんて行かない方がいい。こうして買いにきたパンだって、マリアに頼めば手に入るのだから沙織が買いに行く必要も無い。


 それなのにこうして沙織が外に出ているのは、単純に沙織の我儘だった。

 レンはマリアから紹介してもらった裏路地でのバイトで金を稼いでいる。一方、沙織は部屋に籠って時間を潰すしかなかった。


 マリアもレンもそれでいいと言ってくれたものの、沙織の性分ではそれは耐えきれないことだった。

 自分も何かしたいと考え光魔法を使ったバイトがないかと尋ねた。


 沙織は貴重な光魔法の使い手。それも強い力を持った使い手だ。何かしらの役に立てるはず……そう思ったのだが、レンとマリアからそれは止めた方がいいと止められた。

 どうして、と戸惑いを見せる沙織にレンは優しく言い聞かせるように説明した。

 確かに仕事はいくらでもあるだろうが、希少な光魔法の使い手の情報は例え裏世界でも洩れる可能性が高い。そうなれば見つかるのは時間の問題。

 そこまで考えていなかった沙織は己の浅はかさな発言に自己嫌悪を覚えた。

 申し訳なくなって二人に謝る。二人はそんな沙織に優しく微笑んでくれた。


 沙織は二人に感謝しつつも、結局家にいるしかないかと心の中で落胆していた。

 そんな沙織を見て、レンが提案した。

 それが、食材の買い出しと料理だった。


 万が一にもバレないようにと、目立つ髪の色はウィッグで誤魔化し、眼鏡を外す。元々たいして目が悪い訳でもないので外しても問題はない。ちょっとした変装だが、これだけでも随分と印象が変わった。そもそも、沙織の顔を覚えている人は少ない。それこそ、アメリアや勇気でなければ気づかないだろう。


 一日に数時間だけという制限された外出。だが、沙織にとってはそれでも充分気分転換になった。それに、誰かの為に料理をするというのも新鮮で楽しかった。

 思わず自分が逃走中だと忘れそうになるくらいには今の環境に満足していたのだ。


 ただ、未だに裏路地を通るのは緊張する。

 勇気のおかげで悪意を含んだ視線には慣れているつもりだった。でも、違った。今まで向けられた悪意なんて比較にならない。

 今こうして向けられている悪意は身の危険を警戒しないといけない類のものだ。

 ――――このネックレスをつけていなかったらどうなっていたことか……。


 裏路地に住む人たちからしてみれば沙織は恰好の餌だった。警戒心が薄く、騙しやすそうな自分達とは相容れない平和ボケをした人間。それが、彼らが沙織を見て感じた共通の認識だった。


 けれど、決して触れてはいけない人間だということも理解している。

 沙織の胸元を飾るネックレス。黒薔薇をモチーフにしたトップは黒曜石で作られている。それは『マリアのもの』だという証明。

 手を出した瞬間、裏社会から消されるだろう。

 それを皆わかっているからこそ、こうして黙って沙織が通り過ぎていくのを指をくわえて見ているしかできない。


 無事に部屋に辿り着き、沙織は安堵の息を漏らした。ようやくまともに息ができた気がする。

 冷や汗を拭いた後、沙織はさっそく夕食の準備に取り掛かった。もらった試作品はレンと一緒に食べる予定だ。食べる事が大好きで、色んな国の料理を口にしてきたレンの意見はきっと役に立つはず。


 調理しながら、レンのことを思い浮かべる。

 最初こそレンと二人きりの暮らしに緊張していたが、今ではすっかり慣れてしまった。

 まあ、レンは朝から晩まで仕事で家にいないのだが……それが逆にいいのかもしれない。

 ――――『亭主元気で留守がいい』ってこういうことなのかな。 ……って何を考えてるの私!


 顔を真っ赤にさせて一人焦っていると、かちゃりとドアが開く音が聞こえた。沙織ははっと我に返りキッチンから顔を出す。


「お、お疲れ様です」

「ん。サオリは何もなかった?」

「はい。……私は何も」


 一緒に暮らし始めてから互いに敬称付けで呼ぶのは止めにした。なかなか丁寧語は抜けないが距離は縮まった気がする。

 二人で決めたルールは他にもある。一日の出来事を共有するというのもその一つだ。プライベートな内容までは話さないでもいいが、逃亡中の身なのでできるだけ多くの情報を共有して把握しておくにこしたことはない。


 苦虫を噛み潰したような顔で口を閉ざした沙織。レンは黙って沙織が話し始めるのを待った。

 このまま黙っていても仕方ないと沙織は口を開いた。


「少し気になることを商店街で耳にしました」

「うん」

「その……あまりいい内容じゃなくて……」

 視線を泳がせながら言葉に詰まる沙織に、レンは苦笑してその先を予測してみせた。


「それって……もしかしなくても、僕のことかな? それとも『真の勇者と王女の真実の愛』について?」


 平然とした顔で言うレンに言葉を失う沙織。


「知って……いたんですか?」

「僕って耳もいいんだ」


 へへ、と笑うレンを見て沙織は力なく肩を下ろす。知っているならわざわざ言う必要もなかったのかと俯く。そんな沙織を慰めるようにレンが手を伸ばして頭を撫でた。ドキリと心臓が鳴る。いくら、レンにそのつもりがないとわかっていても男……というより人間慣れしていない沙織は反応してしまう。幸か不幸かレンは全く気にしていないようだが。


 レンの手が離れると沙織は意を決したように尋ねた。


「本当にこのまま隠れていてもいいんですか? このままだと皆噂が本当だと思ってしまいますよ?」


 特別な伝手もない沙織の耳にすら入ってくるレンの悪評。このままだと誤解を解くことも出来なくなってしまうのではないかと不安が募る。

 けれど、沙織の心配をよそにレンは満面の笑みを浮かべた。


「それでいいんだよ」

「え」

「今後の展開にもよるけど……僕は最終的にはこの国を出ようと思っている。元々僕は旅人だしね。……サオリはどうしたい?」


 レンの一言で頭が真っ白になる沙織。この国から出る。そんなこと考えたこともなかったと声にならない声で呟く。


「『渡り人』であるサオリはこの国に留まる必要も無い。自由だ。アメリアがいる教会に戻ってもいいし、ワグナー王国を出て他の国に行ってみるでもいい。もちろん、ここでこのまま暮らすこともできるよ。マリアもサオリのことを気に入ったようだしね。……まあ、まだ時間もあるから考えてみて?」


 呆然と立ち尽くす沙織の横を通ってレンはシャワーを浴びに向かう。

 しばらくしてシャワーの音が聞こえてきた。

 沙織は頭を振って、それ以上考えることを止めた。――――今、決めるのは無理だ。レンの言うように後でゆっくり考えよう。


 気持ちを切り替えて、出来上がった料理を皿によそう。……レンの言動に少なからず傷ついた自分には気づかないフリをして。


 シャワーを浴びたレンはすっきりとした顔で出てきた。沙織はいつもどおりの笑顔をレンに向ける。

 二人は何事もなかったかのように食事を楽しんだ。

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