第51話:あたしは要らない
時々、点滴を転がす車輪の音がする。ふた言、三言くらいの相談をする看護師さんの声も。お見舞いの家族連れも居るらしい。
彼と二人して、あたしの病室だけが別世界のよう。
死ぬまで後悔って、どういう意味だろう。考えると、自力では答えに辿り着けそうになかった。
いや普通にそうでしょ、とは思う。見ず知らずの誰かを、図らずも見殺しにしたら。どんな状況であれ、かなり長い間は気に病むはず。
でもそれを、わざわざ言うだろうか。あたしだから、ではないのか。
反問のような願望のような自問が留まらない。
出島さんは缶コーヒーを傾けながら、窓の外へ目を向ける。住宅地に囲まれた病院と言え、見えるのは青空だけなのに。
「……いつ退院できるとか、まだ分からないよね」
「ええ、まあ。二週間くらいだそうですけど」
もはや久しぶりと感じる、彼の声。一緒に戻ってきた瞳が、あたしを映す。そのあたしが答え終わると、また青空の観察任務に就く。
きっと何をか。次にどう話すか考えていると思うけど、ここまで悩む理由があたしと同じなのか。答えをくれれば、あたしの悩みは消える。
――あたしは、あたしが、あたしの。自分のことばかりだ、こんな奴と話したいわけがない。そうと気づくと、彼との距離が無限にも感じた。
ついさっき彼の触れてくれた手を、伸ばし返してもたぶん届かない。などと誰が言ったでもないのに、断言された気がしてくる。
「じゃあ」
ほら、話しかけてくれた。
無責任に喜ぶあたし。バカみたいだ。
「これは要る物だね。ゴミ箱に落ちちゃってた」
彼は前屈みに「よっ」とビニールの包みを持ち上げる。
「えっ、そうですか。すみません」
新品の服が捨てられていたら誰だって、あれ? と思う。そうなると予想しなかった、あたしがおかしい。
白々しく、自然に受け取ったつもり。しかし出島さんは大きく息を吸い、「端居さん?」と問う。
「俺の聞いちゃいけないことだったら、ごめん。何かあった?」
いつものちょっと眠そうな、とろんとした眼。今度は逸れない。眉尻を下げ、じっと。
「いえ」
「ほんとに?」
「あたし、要らないので」
これは言うまいと思ったことが、スルッと口に出た。彼と話していると、なぜかよくある。
「要らないって。その服、じゃないよね」
言いながら、彼の首は横に振れた。
「だってあたし、死ぬと思って。今も痛いのに、怖いのに。それなのにお母さんも、明さんまで、勝手なことばかり言って」
奥底から上がってくる感情を噛み殺す。ギリッと鳴った歯が、砕けても構わない。
言い捨てて、両手で顔を隠そうとした。それは違う、と自分の頬へ張り手を喰らわし、胸の上に組む。
でなければ、ふるふると揺れるのがみっともないから。
「でも、こんな風に慰めてもらおうとする自分が醜い。出島さんは優しいから、そんなことないって言ってくれると思ってる。そんなの迷惑で、こんなあたしは要らないって、あたしも思う」
嗚咽で声が詰まりそうになると、何度も唾を飲み込んだ。青すじ立てて喚くあたしは、どう考えたって汚らしい。
「だから出島さんも、帰ってください。こんな奴に付き合うことないですから、我がままだなって呆れてください」
あたしも勝手だ。だけどこれで最後だから。許してとは言いません、どうでもいいでしょう、と。
思いつくだけ言って、口を噤む。すぐに咽て、しばらく治まらなくなったけれど。
咳き込む間に居なくなってくれればいい。去っていく背中を見たら、呼び止めてしまうかも。
げほっ、げほっ、げほっ、げほっ。続けざまで、息を吸う暇がなかった。酸素が足りない。空気を吸わせて。このまま永遠に続いて、酸欠で死ぬかも。矛盾した妄想を怖れ、必死に堪える。
やがてそのうち、咳は治まった。ぎゅっと瞑った目を開くと、すぐそこに出島さんの顔があった。
彼はあたしの肩を持ち上げ、背中をさすってくれていた。もう止まったことも気づかず。
「で、出島さん」
「あっ。と、止まった? 良かった」
ふうっ。と大きく息を吐きながら、彼は浮かした腰を丸椅子へ戻す。
「うん、良かった。今、端居さんが死んだらどうしようって本気で思ってた」
額を腕で拭いつつ、彼は笑った。ほっぺの引き攣った、ヘタクソな作り笑いで。
「俺は悲しいよ。端居さんが居なくなったら、なんて想像もしたくない。お母さんや育手さんの気持ちは分からないけど、何かあったんだよね? 教えてよ」
敵わない。彼に隠しごとはできないらしい。
本当は聞いてほしくて堪らなかった。彼の居ない間のできごとを最初から話した。
落ち着けとでも言われそうに辿々しく。もちろんそんな言葉は、一度も無かったが。
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