第37話:ケンカの相手
午後四時前というのに、ラブホ通りは薄闇に沈んで見える。中でもホテル ダックは雨染みだらけでドロドロに感じて、LEDで縁取られた入り口のアーチにも触れないようにくぐった。
黒い壁にフットライトだけの通路を一つ折れた先、たくさんのモニターが壁に並んでいた。映っているのは客室で、真っ暗な画面は在室中らしい。
立ち止まり、どこだろうかと視線を動かした。泳がせたと言うほうが正確かもしれないが。
「穂花ちゃん、こっち」
どうやって部屋を特定するのか。それほど精密な追跡アプリなのかなと思ったら、明さんはモニターの前を行き過ぎている。
二歩先からぴょんと戻り、あたしの手を取った。
モニターが埋まるのと同じ壁面。あたしよりも大きな観葉植物で目隠しするように、小さな窓が開いていた。
動物園のチケット売り場の、チケットやお金をやり取りする隙間しかないような窓口。
壁の向こうは明々として、古い蛍光灯の冷たい光が対面の壁にも届いている。
「おそれいります」
およそ直角に腰を曲げ、明さんは窓口へ話しかけた。すると白く濁ったガラスに透けていた何か、紫色の長袖がズズッと窓を開く。
「女性同士でも構いませんよ」
「ああ、そうなんですね。でも今日はそういうことじゃなく、
構わない?
あたしの理解が追いつく前に、明さんは知らない名前を出した。
「あらあら、何かの業者さん? 可愛いお嬢ちゃん連れてるから羨ましいなんて言ってたんだけど、娘さんだったのね」
人懐こい声の女性は、厭味なく笑った。
「でも、ごめんなさいね。オーナーはいつもはここに居ないのよ。すぐ来れるか、連絡してみましょうか?」
「いえいえ、会いに来たのは娘さんのほうです。ここに居らっしゃると聞きましたけど」
腰を曲げたまま、明さんはニコニコと話す。あたし達のカフェで接客する時の、彼女を目当てにお客さんがやって来る笑顔で。
「ああ、そっち」
答えた受付の女性の声から、人懐こさが一割ほども目減りした気がする。たまたま、気のせいかもだけれど。
窓の向こうで女性は後ろを向いた様子だった。「お客さんみたいですよ」と、オーナーの娘という鴨下さんはそこに居るらしい。
「すぐ行くそうです」
「ちょっと時間を貰うと思いますが、大丈夫ですか?」
「ええ、全く」
言葉の通り、どうぞどうぞという温度で受付の女性は言った。
それから二分ほども待つと、窓の脇にある真っ黒な鉄扉が開く。そこが扉とも気づいていなくて、しかも明るい蛍光灯に驚いて後退りしたのは内緒だ。
「ちょっとお話がしたいんだけど。どこか場所がある? それとも、うちのカフェとか」
出てきた女性、鴨下さんが扉を閉めるよりも早く、明さんは言った。にこやかなのは変わらないが、圧を含んだ声。
「そんな場所なんかあるわけないでしょ。適当に近所の店に行くくらいしか」
なぜか鴨下さんは、ひどく機嫌の悪そうに答えた。さらにその声には、あたしも聞き覚えがある。
先ほど眩んだ目が慣れて、顔も見えるようになってきた。
「ハシイちゃんまで連れて、何の用?」
そう言う鴨下さんは、あの二人連れの客。互いをトビ、カモと呼び合っていた、カモのほうに間違いない。
「
明さんは問いに答えなかった。しかしカモもそこには拘らず、眉間にシワを寄せて睨んで言った。
「あんたどこまで――いや、何で知ってんの」
鴨下がカモなら、鳶河はトビだろう。なぜ知っているのか、あたしも知りたい。
「あらま。あんた達、いまだに仲良くつるんでるんだ」
「はあ?」
意味が分からない。抑え気味ながらも、苛立った声でカモは首を捻る。が、すぐに「チッ」と舌打ちをした。
「カマかけるとか、相変わらず捻くれてんのね」
「まあね」
トビの居場所まで把握しているように言ったのは、ハッタリだったらしい。でも今、現実にカモの居場所へは来ているわけで、その説明にはなっていない。
「まあいいわ。あっちなら事務所もあるし」
「車、あるんでしょ。乗せてってよ」
「……表で待ってて」
カモは一旦、黒い扉の向こうへ引っ込んだ。明さんも言われた通り、通路を逆戻りして表の通りへ出る。
何一つ状況の読めないあたしは、カモの来る前に明さんの袖を引っ張った。
「あの、知り合いなんですか?」
「ちょっと昔のね。鴨下さん
「それも見当はついてるんですね」
詳しくは教えてくれないのか。教えてと言っていいものか。迷ううちに、カモが車でやって来る。いつか見た、小豆色の軽自動車。
「ささ、穂花ちゃん。お先にどうぞ」
遠慮のえの字もなく、明さんは後ろのドアを開く。先に乗れと促してくれるが、まさか彼女もカモトビの仲間とか。
思い浮かべたものの、それはない。この七年ちょっと、ずっと可愛がってくれた人だ。
足元に砂の目立つ座席へ乗り込み、もちろん隣へ明さんも。何をどう話すのか分からないが、きっとこの人に任せておけば大丈夫。
「何の用か知らないけど、お手柔らかにね」
さっきの不機嫌はどこへやら。カモは普通に、話す最後には噴き出しさえしてハンドルを握った。
「あれ、随分と余裕ね」
「そりゃあね。あんたとトビのケンカで、私は関係ないもん」
なるほど。ちょっと昔とやらから、そういう仲というようだ。
「まあね」
「あんたこそ、物分かりいいじゃん」
「この歳になればね、少しはお利口になるの。あんたらと違って」
ケンカの売り文句としか思えないのに、カモは「あははっ」と笑い飛ばした。
「トビはバカだからね、そこは認める」
「それが楽しいって、つるんでるんでしょ」
それなら同罪だ。あたしの耳にはそういう風に聞こえたが、カモはまた「そうそう」と茶化して笑った。
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