第27話 アパナ聖殿

 目に飛び込んでくる炎のまばゆさに私はまぶたをすがめ、ぼおっと立ち尽くした。


 樹海の奥でほのかに見える松明の炎が、時折木々の隙間から玲瓏れいろうたる輝きを漏洩ろうえいさせた。滲む灯火ともしびが水平線に交わりわだかまっている様子が漁火いさりびのように思えた。疎らにぽつぽつと灯る炎が明滅する成り行きを猛然と眺める。


 木々も夜空も星々も、瞳に捉える全てが朱色に染まり、静まり返った森は熱を帯びたように歪んでいた。冴えた夜風に眼球が晒されるたびに炎を受け、揺れる光を瞳に宿した。


 徐々に高まる心拍音が頭蓋骨ずがいこつに反響する。喉がカァっと焼ける。


 寒空の下で持久走をした後のように顎が上を向き、体内に溜まった熱を空気中に弾ませるとたちまち氷晶ひょうしょうとなって赤々ときらめいた。それは白煙と交じり合って宵の空へと溶け合った。


 樹海の上に荘厳と佇む聖殿へと視線が吸い込まれる。不自然な箇所で途切れた右足の影が波紋のように揺れ動いており、聖殿内で私の身に降りかかった災禍さいかは今もなお、運命と複雑に絡み合って逃れられないのだということを残酷なまでに告げていた。余りにも強烈な体験は、その時の記憶や感情が時間の経過を伴って色褪せたとしても、ほんの些細なきっかけが否応なしに、潜在意識の海原から浮き上がらせるのだ。


 例えば、悠久ゆうきゅうの時を経ても未だ剣呑のんけんさを保った城壁の如き聖殿は、私がこの世界――異世界に召喚された際の転移場所であること。そこを守護する魔獣によって同級生は人間だと判断できなくなるまで惨殺されたことを。


 漠然ばくぜんとした胸騒ぎが心臓を締め付け、到底回避できようもない災禍さいかの始まりを告げているようであった。底冷えする寒さの中、はっきりとした悪寒が異様に火照る体の隙間へ入って私の喉を詰まらせる。息を呑んだままもぬけの殻のように呆然と立ち尽くした。


 私は今すぐに運命の呪縛からくらましたかった。眼前で私を見守る彼らにどれだけ蔑まれようとも、一度現状から目を逸らせば粟立つ気持ちは晴れるのだと、一瞬でもそう愚考する程には、合理的な思考というものが私には失われていた。それでも心の内では理解していたのだ。たとえ一時的に運命の束縛から回避できたとしても、これから私に降りかかるであろう義務を放棄したとしても、それは瞬き程の安寧であることを。いつもの平凡な日常に戻れないことを頭では思わなくとも心がそう認知していた。それ程までにこの苦痛というものは嫌に現実的であり、心臓の高鳴りや身体の震えが私を戦慄させるのだ。


 私は次第に状況を把握してゆき、冷静さと引き換えに顔から表情が抜け落ちた。生気のない瞳でただ、森の奥で鎮座ちんざする聖殿を猛然と眺め、緩み切った口元から自然と言葉が零れた。


「中学生の頃に頭を打って大量の鼻血を出したことがあるんです」


 私はどうして昔の記憶を思い出してしまったのか分からなかったが、止めどなく溢れる感情の吐露とろにはどうすることもできなかった。


「両手の受け皿にしても溢れだしてしまう程の出血でした。突拍子とっぴょうしのないことでした。しかし私の頭は異様な程に冴えていたんです。まるで周りがスローモーションになって同級生の騒めきも私には届きませんでした」


 粛然しゅくぜんと見守る彼らの表情は多少の差異はあっても、眉を潜めて押し黙っている点は押しなべて共通していた。グラフィは露骨に顔をひそめて、レイニーははらりと垂れた黒髪から控えめにこちらを覗いている。彼らがそんな表情を見せる理由は、今の私にとっては明白であった。


 アパナ聖殿にトラウマがある私をおもんぱかる気持ちの所為せいか、目的地について知っておきながら私に教えなかった。彼らの配慮が私には仇となった結果が罪悪感となって顔を沈ませているのだろう。馬車内でグラフィが発した結界という言葉も今更、アパナ聖殿のことを示していたのだということが理解できた。その言葉に違和感を覚えても詮索せんさくしなかった時点で、私は既に辛い現実から目を背け始めていたのだろう。


「私の意識が幽体離脱したかのように客観的になって、その時に漠然と思いました。血の匂いってこんな感じなんだなぁって」


 ここまで過去を振り返って、私はなぜ突如として記憶を思い出すに至ったかを理解した。


「知ってますか?数日前に合ったばかりの同級生の死体の匂いを。私が体験したような血の匂いじゃなかったんです。アンモニアと腐敗臭がしたんです。ブレザーは脱いだのに、何度も手を洗った筈なのに、体に彼らの匂いが染みついて離れないんです。匂いが鼻先まで漂ってくると、あの時の湿り気の正体が、瓦礫がれきだと思っていたものが、クラスメイトだったことを思い出してしまうんです」


 冷めた口調で彼らに質問を投げかけた。


「どうしてアパナ聖殿なんかに戻って来たんですか?」


 一、二秒の沈黙ののち、ダンテが答えた。


「それは結界内が一番安全だからじゃないっすか?」


「安全?もし本当に安全なら、同級生は異世界に召喚されることも、魔獣に殺されることもなかったですよ!」


 私の喉元から突き上がってくる冷たい熱の塊が口元から零れた。


 ここは安全とは程遠い所だ。安全が保障されているなら同級生が殺されることも、私たちを召喚した黒幕が結界内に侵入することもなかった筈だ。侵入できないとされている所に侵入された時点でこの場所の安全性は消失してしまっている。


 彼はこれといって感情の機微きびを見せずに顎に手をやって視線を落としていた。


 私は再び目線をアパナ聖殿に戻す。眼前に映るアパナ聖殿を眺めていると、あの日の記憶が、醜悪な匂いまでもが鮮明に思い起こされる。聖殿の内部は一寸先すらも見えない暗闇であったため、目の前に映る建造物が私のいた場所であるかは分からない筈だが、出口を探すために這いずり回っていた感覚がアパナ聖殿であると告げている。


 私はストレスを抑圧する癖があるようだ。わざと自分の欲求とは反対の行動を取っていた。だから私はアパナ聖殿に目を逸らすことができないのだろう。じっと下唇を噛み締めながら猛然と眺めていた。


 口内に鉄の味が滲む。ただ、痛みだけが苦痛を和らげてくれた。

 

 私は幼少期から周囲の人達に助けられてばかりだった。


 中学生時代である。私は苛められていた。深刻ないじめではなかったものの、中学時代の生活は窮屈であった。その時に私を救ってくれたのが莫逆ばくぎゃくの友となる存在であった。彼がいたからこそ、私は平凡で何不自由のない生活を送れたのだと思う。しかしその時には、しばしば死というものが胸の奥に住み着いていた。苛められたからではなく、誰かの足手纏あしでまといのなることが私にとって耐え難い程に惨めであったのだ。これといって取り柄のない私が、あまつさえ右足を欠損してしまえば何が残るのだろうか。

 

「どうして生き残ってしまったんだ」

 

 取り柄のない私がクラスメイトを差し置いて生き残ってしまった理由が分からなかった。前髪を鷲掴みにするように頭を抱えた。


 しばらく考える仕草をしていたダンテはこちらへと向き直った。


「それって君の本心っすか?本当に生き残ったことを後悔しているんですか」


「私なんかよりも別の人に生きて貰った方が有意義でしょう?」


 今の私がどんな表情をしているか自分では分からないが、多分口元が引きつるだけの笑顔もどきで終わっているのだろう。熱された鉄が急速に冷まされるように、彼の瞳が酷くよどんだように思えた。


「いいやそんなことはないぞアザ――」


「うじうじとうるさいなぁ」


 グラフィの声はダンテによって遮られた。


「――はぁ……、君には失望しました」


 彼の発言に理解ができなかった。いいや、言葉を理解へ行きつく途中で思考が理解を拒んでいた。ただ、「失望した」という音に反射して彼の方へと視線を向けた、ただそれだけだった。


 ダンテの腰辺りで何かが輝いた。そう認識した途端に彼の剣が私の首筋を掠めていた。

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