第2話 捨てる者あれば拾う者あり


 横浜。


 天保十年、下関へ異世界てるなのくの住人たちが乗った白舟が訪れ、魔法技術や向こうの文化を伝来させた──いわゆる【文明異界化】からいま、明治までつづく日ノ本の歴史において、二番目に開いた港。


 煉瓦で拵えられたこの港街を望む屋敷のひとつで、今日まで順三は暮らしてきた。


 そして山手にある居留地へ、これから赴くこととなる。


「こちらへ」


 流暢に日ノ本の語を操る異人の三名に示され、秋風が舞う路上で馬車の前に立つ。


 一礼して、順三は馬車に乗り込んだ。


「あなたを呼んだのは我々の主、モニカ・オルマミュータ殿下です。これより彼女のおわす屋敷へ案内いたします」


 帽子の男は静かに告げた。


 その名にはもちろん覚えがある。


 順三の警護対象であり、あの日暗殺犯の襲撃に遭っていた人だ。


 殿下との呼び名にたがわず、向こうの世界のやんごとなきお立場……姫なのだそうである。


 つまり、彼女の前での抜刀とは、日ノ本で言うのなら殿中で刀を抜いたようなものなのかもしれない。


 男は順三の理解が及んだのを確認して、話をつづける。


「主は、あなたに御用があるとのことでした。それ以上はうかがっておりません」


「なるほど」


 到着までどのような咎めがあるかは、わからないというわけだ。


 順三は理解し、気を落ち着けた。そこで帽子の男の視線が、順三の耳に至る。


「ところで、耳のお怪我がひどい。着くまでに手当てをいたしましょう」


「あ……これは、かたじけない」


 手当ての用具が納まるのだろう小箱を取り出した帽子の男を見て、血を流したままだったのを思い出す。


「座席など、俺の血で汚してしまっていたら申し訳ありません」


「いえいえそんな。お気になさらず」


 そわそわしている彼をじっと見つめながら、手早く男は治療を済ませていく。……もうじき死ぬ人間のしたことだと、あきらめてくれているのだろうか。


 ならば、あきらめついでに答えてくれないものかと、図々しくも順三はひとつ問いを投げることにした。


「手当てを受けるあいだにひとつ、お伺いしてもよいでしょうか」


「我々で答えられることでしたら」


「ありがとうございます。では質問なのですが、モニカ殿はその後、傷ついてはいなかったでしょうか」


「傷?」


「周りで多くの人が亡くなりました。あのような血の海を見れば大抵、心が傷つくものかと」


 心底からそう思っての問いだったが、帽子の男たちは呆気にとられた。


 なぜそんな反応をされるかわからず順三は黙って片眉を上げる。途端に彼らはさぞ面白いものを見たように、笑った。


「なぜ俺は笑われているのでしょう……」


「いえ、お気を悪くされたなら申し訳ございません。嘲りなどではないのです。ただ、この状況で、己の身を案ずるより先にその質問なのか、と思いまして」


「ああ」


 そういうことかと納得する。


 そして決まりきったことなので、答える。


「武士として、上より定められためいはもはや変えられません。あとはいかに名誉を守れるかだけだ、と覚悟しております」


 この答えに、彼らは笑わなかった。


 ただ、なにか貴重なものを見たような顔をした。




        #




 連れてこられたのは山手の中でも指折りの財ある人々が住む、邸宅の並ぶ地だった。


 気おくれしている順三を乗せたまま馬車は鉄柵を思わせる門を越え、剪定された枝葉に紅葉の色付きが感じられる広い前庭を抜けていく。

 漆喰よりもなお純な色合いの、白亜の二階建て屋敷が彼を迎える。


 玄関口と思しき場所で停まると同時、観音開きの重そうな扉が左右へ分かたれた。


「どうぞ」


 帽子の男にうながされ、会釈してから順三は降りた。


 扉を抜けると静かでひんやりとした吹き抜けのホールで、石造りの床の上に順三の雪駄がサスリと乾いた音を立てた。どうも、土足で家にあがるのは慣れない。


 静謐な空気の漂う中、帽子の男に導かれて右へ。


 高い天井に洋灯ランプの下がる廊下はどこまでもつづくように思われた。


「こちらで主がお待ちです」


 足を止めた男に扉を開けてもらい、順三は室内へ踏み入った。


 ……ここで腹を切れと言われたら、用意はあるのだろうか。三宝は、脇差は。白のかみしもは、介錯人は……


 つらつらとそのようなことを考えながら、一礼した。


 顔を上げた。


 ソファに腰かける彼女に目をやる。


 そういえばあのときは守るべく戦うのに必死で、しっかり顔を見ることもできなかった。


 などと考えていると、彼女が口を開く。


「ああ。来てくださったのですね」


 まるで川辺を通り抜けてきたように、涼やかでみずみずしい声だった。異人であろうに、日ノ本の語の発音もずいぶん達者である。


 その姿を見て──花の精かと、順三は一瞬本気でそう思いかけた。


 二つ、三つは順三より年上と見える彼女は目の覚めるような碧に染まる、精緻な紋様を施された小紋こもん不言色いわずいろの帯で留め、わずかに着崩しており。


 斜めに腰かけた身体の曲線をことさら強調するかのように裾からはうつくしい脚が覗いて、思わず目を奪われる。


 髪は、炉の火のもっとも盛る箇所のような白い金に輝く。長くうねる軽やかさはこの世のものと思えず、量感のある三つ編みに結った先端が、豊かな胸の上に流れていた。


 髪束を割いて突き出す形の良い細い笹穂耳がぴくりと動く。


 白んだ長い睫毛まつげの下で、澄んだ泉の深さと色を湛えた瞳が開かれる。


 その目が順三を認めると、桜色の唇が──彼の勘違いでなければ──うれしそうにきゅっと弧を描いた。


「またお会いすることがかなって、うれしく存じます。お侍さん」


 ……本当にうれしかったらしい。


 立ち上がって彼女は一礼し、胸元にかかる三つ編みを後ろへ流しつつレヱス地の白手套に覆われた手で向かいの席を勧める。背丈は、順三と変わらないくらいか。女人の平均からすると高いのは、異世界の民だからだろうか。


「あらためまして。わらわは、モニカ・オルマミュータと申します。どうぞ、お掛けになって?」


 てっきり不機嫌と苛立ちを抱えた顔で迎えられ、即座に腹を切れとでも言われると思っていたので。厚待遇に、そしてあらためてまじまじと見た彼女のうつくしさに、居心地の悪さを覚えながらそろそろと順三は腰かける。


「失礼します」


「いえいえ、失礼だなんておっしゃらないで。妾こそ、急にお呼び立てして不躾ぶしつけでしたね」


 居住まいを正して座り、彼女は再び頭を下げた。あわてて順三も頭を下げる。


 そこから二人同時に顔を上げることとなり、目が合って、モニカははにかんだ表情を浮かべた。


 ……どうにも、覚悟していたのとはちがう様子に面食らう。


 やがてお茶まで出てきて、次第に順三は不安が増してきた。思い切って、彼女に訊ねる。


「あの、俺こそ不躾な質問をひとつ、よろしいですか」


「いかがなさいました?」


「どなたか別の訪問客と俺を、お間違いではありませんか」


「? あなたは須川順三様、でしょう?」


「はい。齢は十五、所属は官制警護所、横浜港廻よこはまみなとまわり野村隊準士。須川家三男……だった者です」


「でしたら、間違っておりませんね」


 間違っていないらしい。


 ますますわからなくて、順三は首をかしげた。


 それのなにが面白かったのか、彼女はくすりとほほ笑んだ。


「……もしかして、先日の行いを咎められるとお考えでいらっしゃいましたか?」


「えっ。あっ、いや。そうですね。正直に申し上げると、上を経由して切腹を申し付けられるものとばかり」


 包み隠さず本音を言えば、ますます彼女は笑った。


「褒められこそすれ、咎められるはずもありませんのに。あなたは妾の命の恩人なのですよ。敬意こそ抱いても害意など、まさかというものです」


「……異世界の人は、剣や刀を嫌うと聞いておりましたが」


「その向きはあると考えられますね。でも妾は、そうした方々と一緒にしていただいては困るのです」


「そう、なのですか? でも俺が採った手段は、あなたが許してくださっても……その、お上のめいに背いたものですので……」


 格之進の言葉が頭に残っており、卑下するように順三は言う。


 しかしモニカは力強く首を横に振り、その言葉を否定した。


「結果こそ、すべてでしょう。あなたがいなければ妾はここにいませんもの。あなたも自身を守れなかったかもしれない。妾は法がなんであれ、いのちの上におくべきものとは考えておりません」


 きっぱりと言い放ち、彼女は二人の間を分かつ膝ほどの高さの机上へ身を乗り出した。


 その言葉に、順三は胸の内を強くつかまれる心地がした。


「この国で廃刀令という法が敷かれており、剣を軽々に抜けないということは妾も存じております」


 正確には、抜けば良くて禁固・悪ければ死罪だ。


 そして要人の前での帯刀、抜刀は後者に当たる。


 すべては魔法至上主義ともいうべき、昨今の世相の反映だ。魔法技術の流入から生麦事件や士族の反乱といった歴史を経て、いつしかこの國を刀不要論が席巻した。


 刀で人が戦うなど、防衛目的であっても公の場で起きてはならないことなのだ。


「ところであなたは、魔法が使えないと聞き及びました。これは事実でしょうか?」


 ふいに話が飛んで、順三の身の上話となった。


 答えない理由もないので、彼はうなずく。


「はい」


「この時代に、それはさぞや苦しいお立場でしょう。しかしあなたは妾を守ろうと尽力なさって、結果として刀を抜いた。自身にできる最大最善を尽くしたのですもの。それに悪いと言える点など皆無だと、妾は存じます」


「上が悪いと言えば、悪いのです」


 誰も己の言葉を聞いてくれない悲しさから、ついふてくされたような物言いになった。


 上意が絶対。理不尽だが、それがこの世の理である。そんなことは、わかり切っていた。


 それでも、順三は刀を捨てたくなかった。


 だから鍛えつづけて、今日まで来た。


「そんな、俺の無駄なこだわりがたまたま、あのときは役に立っただけです」


「たまたまではありません、必然でした。無駄ではありません、妾が無駄にさせはしません。上が言えば白も黒になるというのなら────妾が黒を白にしてみせましょう」


 断言し、モニカはさらに身を乗り出す。


 机に手を付き、顔を近づけてきた。ぞっとするほど綺麗な面立ちに、思わず順三は顔を背ける。


 けれどいつまでもそうしていられなかった。目が、吸い寄せられる。


 吸い込まれそうな瞳が、有無を言わさぬ言葉と共に順三を捉えて、離さない。


「須川順三様。──妾の、婿になりませんか?」


「え」


あれほどの腕・・・・・・が失われるなど、あってはならないことですもの」


 瞳の奥で、彼女はあの日の出来事を回想している様子だった。


 あの、警護の日。


 順三が人前で初めて刀を抜き放った日のことを。


 

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