四十九夜目 夜道

 母が二十一歳のころなので、今から五十年ほど前の春の日の話になる。

 服飾デザインの学校を出た母は、服飾系の会社に就職が決まった。運転免許を持っていなかったことから、就職先まではバス通勤。

 このころ、毛糸の機械編みに興味を持っていた母は週に何回か、仕事が終わるとその足で、機械編みの教室へ通っていた。

 その帰宅途中のことである。


 家の最寄りのバス停で降りた母は、いつものように通勤路を歩いていた。

 時間は午後八時頃。

 母が下りた最寄駅から、母の生家までの道は今でも人通りがなく、夜になると非常に暗くてわびしい道となる。

 その大きな理由となるのが中学校の存在だ。


 日中は中学生たちが通るので賑やかなのだが、夜になれば来る人もいない。

 周辺の三つの小学校を合わせたマンモス中学なので、それなりに敷地も広い。

 特に通勤路側は校舎とプール、それからグラウンドに面した道であり、グラウンドの向かいも学校所有の小さな空き地になっている。

 空き地の隣には坂の上の住宅地へ抜ける獣道のような細道があり、その入口にはお地蔵さまが立っていて、小さなころはどことなく近寄りがたかった。

 こうして学校の周辺だけがぽっかりと人気の失せたデッドゾーンのようになってしまうのだ。


 しかし、その道が母にとっては自宅へ戻る最短ルートとなる。

 大通りから帰れないわけではないにしても、時間は倍以上かかることを考えれば、安全面を考慮した迂回ルートはどうしたって選択しづらい。


 家路を急ぐ母がちょうど空き地の入り口にあるお地蔵さんの前を取り掛かったあたりのこと。

 突然、後頭部に激痛が走った。


「痛い!」


 思わず叫ぶ。

 その声に驚いたのか、背後から「すみません!」という謝罪の声が返ってきた。

 声のほうへ急いで振り返ると、声の主と思わしき影が細道を駆けあがっていくのが見えた。


 いったい自分の身に何が起こったのか。

 あれは誰だったのか。


 痛みを堪えて母は急いで帰宅した。

 帰宅した母を見て、祖母は相当に驚いた。

 すぐに救急車を呼び、病院で手当てを受けることになった。


 救急車を待つ間に痛む頭を確認すると、べったりと血がついていた。

 しかも、その血で着ていたブラウスまでが汚れてしまっている。

 背後から、なにか固い物で殴られた覚えはある。

 そのせいで出血してしまったのだ。


 そこで初めて母は、自分の横を通り過ぎて行った車の運転手が怪訝な表情を浮かべて見ていた理由を理解したという。

 救急車で病院へ向かうときは気持ち悪くて仕方なかった。

 ただ幸いなことに傷自体は大したことはなく、命に係わるようなことにもならなかった。


 それでも頭を殴られ出血したので大事を取って数日会社を休むことにはなってしまった。

 さらに仲の良かった小野のおばさんの結婚式にも、このケガが原因で出席することができなかったはとても残念だったそうだ。


 後日、警察の事情聴取において、母は靴音が聞こえなかったことを伝えた。スニーカーを履いた学生風の男。凶器は石ではないか――

 そうしてカツラを被って出社した母に、ラジオで事件が放送されたと会社の人が教えてくれたという。


 人違いで殴られたのか。

 それとも母は誰かに本当に恨まれていたのか。


 犯人が捕まらなかったこの事件の真相はいまだ謎のままである。


 

 

 

 

 

 

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