三十四夜目 急逝

 人生の節目に生と死について考えさせられるような事件が起こる――これについて改めて振り返ったとき、この人もそうだったのかと思い至った人物があった。


 父方の叔母である。


 父の弟の奥さんであり従弟の母である叔母は線が細く、長い黒髪が印象的な牧瀬里穂によく似たきれいな人だった。

 性格も明るく、誰にでも優しい。ピアノが上手で、頑張り屋。そんな彼女のことを私は本当に慕っていたし、彼女にも会ったときにはとてもかわいがってもらってもいた。

 高校合格のお祝いの電報を彼女からもらったときは、心から嬉しくて泣いてしまった覚えもある。


 そんな彼女の訃報を知ったのは高校一年生になった熱い夏の日のことだった。

 部活の合宿先に電話がかかってきた。

 あまりにも突然で、現実を整理しきれなかった。


 そうは言っても冷静になれば、彼女が亡くなる要因は充分に考えられたし、死期が想定していたよりもずっと早かっただけで、遅かれ早かれこういうことが起こっても仕方なかったのはよくよく理解はできる。


 元々、心臓を患っていたのも知っていた。

 心臓に負荷がかかるというリスクを負って出産したことも知っていた。

 調子がよくないので、思ったように働けないでいることも聞いていた。


 ただ、想像できなかったのだ。

 私が会っていたのは元気な叔母で、調子が悪くなっていることを聞いても、まさか死に至るまで悪くなっているとは思いもよらなかったのだ。


 彼女の死因は心臓肥大による心不全だった。

 発見されたときにはすでにチアノーゼの反応(血液中の酸素の不足によって、皮膚が青っぽく変色する現象)が出ており、足先はすでに真っ青だったという。手の施しようがなかった。


 合宿先から病院へ向かった。

 ベッドの上に寝かされた叔母。

 顔には白い布が被せられていた。

 叔母の周りには親戚が集まり、すすり泣く声が聞こえた。


 彼女との最後の対面。

 苦しんだ様子は見られない、穏やかな顔。

 眠るように亡くなったと聞いた。

 本当に亡くなっているのか。

 顔に触れるのがなにか怖くて、私は彼女の足に触れた。

 指先にそっと触れてみる。

 冷たい――そう思ったときには手を引っ込めていた。

 それきり、私は彼女に触れられなかった。


 冷たくて硬くなってしまった彼女を受け入れることは、すなわち彼女の死を受け入れることである。それがどうしてもできなかった。

 どれほど現実を目の当たりにしようとも、私は受け入れがたかったのだ。

 お通夜で親戚が集まる中、私はひとり抜け出して斎場の駐車場でぼんやりとしていた。

 街灯を覆う羽虫の群れを眺めながら、彼女との思い出を繰り返し頭の中で再生させていた。


 もっと話したかった。

 恋愛や結婚の話なんかをしたかった。

 それはもう叶わない。


 涙があとからあとからあふれ出た。

 葬儀の最中も私は泣いていた。

 誰もが悲しみに暮れる中、従弟だけは決して泣かなかったし、感情を表に見せなかった。


 無表情。


 覚悟ができていたのか。

 叔母にそう教育されていたのか。

 気丈に振舞っているだけなのか。

 小学生の彼はただ叔父の隣で、堅い表情を作ったままである。

 亡くなるその場にいた従弟はいったい今、どんな心境で家族の席に座っているのか。


 葬儀も終わって落ち着いたころ、叔母たちの噂がいろいろ耳に入った。

 前から従弟を虐待していた。

 虐待が原因で従弟が自閉症になった。

 亡くなった彼女を痛めつけるような噂ばかりが飛び交っていた。

 その噂は従弟が泣かなかったことが原因にあるようだった。

 自閉症について、高校生のころの私はよくわからなかった。

 記憶力が抜群にいいけれど、ちょっと変わった男の子というだけで、私は嫌いではなかったし、従弟とも良好な関係を築けていたとも思う。


 叔母のことをよく思っていなかった祖母が立てた噂とも言われていて、とても複雑な心境にもなった。

 叔母は祖母との関係性をうちの両親に相談していたし、離婚も視野に入れていた。

 嫁と姑の確執は死という結末を迎えてもなお、続くものであるのかと今なら理解もできる。

 ただ死人に口なしというところで、根も葉もない噂で彼女の尊厳を傷つけるようなことはあってはならなかったのではなかろうか。


 三十四歳でこの世を去った叔母。


 その叔母よりも年上になった自分を振り返り、彼女が生きていたら、どんな話ができただろう。

 結婚や子育てについての話ができていたら、彼女ならどんなアドバイスをくれただろう。

 そんな叶わなかった未来を想像しながら、彼女の笑顔を思い浮かべた。

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