⑥ Beautiful World

 点滴をしているのと、なぜか検査のときの移動は車いすって点を除けば、基本的には自由な入院生活。

 入浴も予約制だけど入り放題。朝一で予約して、朝九時に一番風呂に入るのが唯一の楽しみでした。


 ひとつだけきつかったのは、食事の時間です。朝食は八時、昼食は十二時、夕食は十八時に運ばれてきます。僕は絶食生活のため、もちろん食事の提供はありません。

 大部屋だった僕は、他の入院患者たちが食事をする音と、その食事の匂いに苦しめられました。この入院を含めて4回の入院を経験した今でこそ別に他の患者の食事で死ぬほど苦しめられるということはなくなりましたが、当初は本当に死ぬほどきつかったです。いい匂いがするのに、食べられない。栄養剤の点滴を打っているから死ぬことはないのですが、なぜかお腹は空く。あまりにもきつかったので、入院3日目からは食事の時間はナースステーション近くのラウンジで過ごすようになりました。

 ちなみに僕が入院したこの医師会病院は、入院食がめちゃくちゃ美味しかったですね。しかもお腹いっぱい食べられるのに、過ごせば過ごすほど体重が減るという素晴らしい空間でした。


 手術前日は、麻酔科の医師だとかなんだとかいろんな人が僕のもとを訪れました。

 その中でもっとも印象に残っていたのが、手術室で流す音楽は何がいいかを聞きに来た看護師です。A4のメニュー表みたいなものを見せられ、「好きなアーティストを選んでください」との指示。なんだそれ、と思いました。しかもなんでも好きなアーティストをじゃなくてこの中から好きなのを選んでください形式なのかよ。

 西野カナとかFUNKY MONKEY BABYSとか、別にそんなに好きじゃないアーティストが並んでる中で、宇多田ヒカルだけが唯一好きなアーティストだったので、迷わず宇多田を選びました。もしこの中に好きなアーティストいなかったらどうするんだろうかってのは今でも疑問です。


 手術前日の夜は、睡眠薬が処方されます。緊張と不安で寝られない人が多いからだとか。手術って結局体力勝負なので、よく寝て体力を回復させておかなければならないからとかなんでしょうか。

 僕は最初いらないと言いました。でも、消灯時間が近づくにつれ、めちゃくちゃ不安になってきたので、結局睡眠薬を出してもらいました。

 驚くほどよく眠れました。


 でも目覚めは早かったと思います。朝五時にはすでに完全覚醒していました。

 いざ手術となると、不安で不安で仕方がなくなるというのが、当日朝になってわかりました。

 手術室自体は実は初めてではありません。大学3回生のとき、親知らずを切開して抜歯するために事実上の手術の経験はありました。しかし全身麻酔での手術は初めてなので、そこが不安だったと思います。


 両親とは朝一番に少しだけ面会しました。


 手術は九時半から開始でした。九時前後には手術室に入っていたような気がしますが定かではありません。

 手術室に入ったとき、宇多田ヒカルの『HEART STATION』が流れていました。ああ、これが昨日聞いてきたやつか、と少し感動しました。でもなぜ『HEART STATION』なんだろうかという疑問。おそらくこれはベストアルバム『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.2』かあるいはアルバム『HEART STATION』のどちらかだろうな、と思いました。『HEART STATION』の次に流れ始めたのが『Beautiful World』だったので、アルバム『HEART STATION』のほうだとわかりました。


「僕、宇多田ヒカルでBeautiful Worldが一番好きなんですよね」


 麻酔のために脊髄に針を刺されようとしている僕がこぼした言葉は、そんな感じのものでした。


 ちなみにこれは今となっては大嘘で、僕が一番好きな宇多田ヒカルの曲は『DISTANCE』で、二番目が『Beautiful World』です。順位が入れ替わった理由は、この手術のあと、2016年に『DISTANCE』をテーマ曲に据えた『長い烏丸』(カクヨムにアップしてます)を書いたからです。すみません、話が逸れました。


 僕を囲む看護師なのか医師なのかわらわらした人たちは、僕の「Beautiful Worldが一番好き」という発言に対し、「じゃあこれリピート再生しようか?」と言ってきました。

 このアルバムの次の曲は宇多田のシングル曲を好きな順に並べたときに下から数えたほうが早い『Flavor Of Life』(しかもアルバムアレンジver.)なので、「ぜひリピートしてください」とお願いしました。曲はPCで管理しているらしく、看護師の方が「これどうやってリピートするの?」なんてふたりくらいで奮闘している姿を、横向きになった僕はぼうっと眺めていました。

『Beautiful World』が終わり、『Beautiful World』が始まりました。

 この時点で脊髄に針が入っていたと思います。でも麻酔のために脊髄に針を刺すための麻酔を打たれていたせいか、痛みは感じなかったです。


 どんな感じで眠るんだろうな。

 宇多田ヒカルが「もしも願いひとつだけ叶うなら君のそばで眠らせてどんな場所でもいいよ」って歌う最中、ふとそんな疑問が頭をよぎりました。

 仰向けにさせられて、呼吸器みたいなのを顔につけられました。

「麻酔入りまーす」

 そんな声が聞こえました。

「終わりましたよー」

 その声で目を開けた僕の耳に聞こえてきたのは、宇多田ヒカルの『Beautiful World』でした。

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