第3話

 意外にも早くやってきたのは家令だ。侍女長は少したってからゆっくり歩いてやってきたのでおそらくこの人も敵認定しておいた方がいいだろう。

 侍女長が来るのが遅かったので、家令には先に説明しておいた。侍女長は部屋に入ってくると、顔や髪が濡れたままで床を掃除している女性使用人にギョッとしたようだ。


「侍女長は遅かったわね。足が悪いのかしら」

「……申し訳ございません」


 遅かったことを皮肉ると悔しそうに謝ってくる。


「奥様、濡れていますのでお召し替えを」

「自分でやるからいいわよ。針でも仕込まれたらいやだもの。あとはこの使用人の処分をどうするかね。旦那様が帰ってきたら権利を正式に頂いてクビにするわね」


 結婚式までバタバタしていたからそういう話はきちんとしていないのよね。勝手にクビにしてもダメだろうし。義父母は結婚式が終わった後からすぐ旅行だから頼れない。

 というか、新婚夫婦を新婚旅行に行かせるべきじゃない? 私は嫌だから新婚旅行なんてなくてよかったけど、いくら結婚しない初恋を引きずりまくる息子が結婚したからってさっさと旅行に行くなんて酷いわよね。


「恐れながら、この程度のことでクビは大げさではないのしょうか」

「汚水を持ってくるなんて男爵家の使用人でもやらないミスだけど。ここは侯爵家なのにその程度の質の使用人しか雇っていないの? それともあなたの指示だったのかしら、侍女長」

「そのようなことは決してございませんが教育が行き届いておりませんでした」

「もしかして私の実家の男爵領は田舎で水がきれいなのかしら。侯爵家では日常的にこんな水をすべてに使っているの? 洗濯、掃除、洗顔、お風呂にね」


 桶に残っている水を侍女長の顔に突き出すと後ずさりした。家令は首を横に振っている。


「大丈夫よ。紹介状にはちゃんと書いてあげるわ。主人に笑いながら汚水を持ってくる使用人ですって。足腰弱くて踏ん張りも足りないわ。あぁ、ついでに潜水は何分耐えられるかも測った方がいいかしらね。さっきは四十秒くらいだったかしら。正確にもう一回やってみる?」


 花瓶に生けられた花を抜いて桶に水を注ぎ始めたところで残念ながら家令に止められた。侍女長は完全に引いている。


 一人で着れる服を着ると、ダイニングに下りて行く。家令はおそらく敵ではなさそうだが味方かどうかは分からない。


 ダイニングに足を踏み入れると、具のないスープとパン二つがテーブルに置かれていた。

 料理人か給仕も敵ねとしみじみ感じながら皿の乗ったトレイを持って部屋に引っ込もうとすると、家令が慌ててダイニングに入って来た。ミラベルの持つトレイを見て彼は顔色を変える。

 年のわりにきびきび動く家令だが、今朝だけでかなりの心労ではないだろうか。


「侯爵家の朝食は質素なのね。これではなぜ先代侯爵があれほど太っておられたのか不思議だわ。体質かしら?」


 義父のお腹ぽっこりどころじゃない問題よ、あれ。


「犯人は必ず奥様に謝罪に行かせます」

「あら、これが侯爵家のお食事なのでしょう? それなら謝ることはないわよね? かわいそうに、侯爵家の食事がこれなら使用人たちはもっと質素なものを食べているのよね。男爵家よりも質素だわ。侯爵家はお金に困っていらっしゃるのかしら」


 家令がやったわけではないから彼を責めるのは間違っているのだが、まだまだ初手なのでこのくらいの嫌味は言っていいだろう。


「別に援助していただけるなら私はすぐ離婚して出て行ってもいいのよ。でも、フロレス侯爵は初恋の人を忘れられず妻を冷遇して使用人の質は男爵家より悪いと事実は言わせてもらうわよ。金に困っているっていうこともね」


 不能とか噂流してもいいんだから。

 厨房から様子をうかがっている使用人たちにも聞こえるように言ってから、トレイを持って家令の横を通り抜ける。


「奥様、どちらへ?」

「部屋よ。昼食も部屋に運んでちょうだい。旦那様に食事内容を確認するから手はつけないけど」

「お食事は摂っていただきませんと……侯爵夫人としての教育もございますので」

「二食抜いたくらいで死なないわよ。それに侯爵夫人の教育が必要なら侯爵夫人として扱ってからにしてちょうだい。正当に扱われないならそれに応じたことしか私はしないわ。さっきあの女性使用人の頭を桶に突っ込んだみたいにね」


 部屋に戻るとまだ掃除中だった。構わず部屋に入って掃除の様子を眺めているとやっと終わって使用人たちはビクビクしながら出て行った。


「初日から疲れるわね」


 好きだった相手と別れてこの結婚にのぞんだのに。初日から報われない。ミラベルがなにかしたわけでもなく、最初からあんな態度なら容赦しなくていいだろう。ミラベルが黙って耐える女だという認識にはならないだろうから。舐められたら終わりだ。


 潰す勢いで好戦的に対応したが、ミラベルだって悪意を向けられるのは好きではない。


「旦那様が帰ってくるまでにまた気持ちを上げておかないとね」


 気持ちで負けていたら勝てない。部屋に鍵をかけてひと眠りすることにした。

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